福岡県宗像市。日本神話に登場する日本最古の神社の一つである宗像大社が鎮座する町に「とんこや宗像店」はあります。株式会社 Tonkoya Companyは、「1950年創業の魚屋が手掛ける目利きの鮮魚を楽しめる居酒屋」として「とんこや」ブランドを2店舗、「鯔背(いなせ)」ブランドで宗像近郊に2店舗を展開しています。また、とんこや宗像店に隣接して、祖業である魚屋の新形態「Tonkoya FISH MARKET」があり、どこも多くのファンで賑わっていて、福岡の剣縁会員さんにも常連さんがいらっしゃるとか。取締役副社長に就任した魚住修さんと、お父上で二代目・現社長の魚住俊彦さんに、その歴史や夢を伺いました。
プロフィール
魚住俊彦(うおずみ としひこ) 1954年8月23日 福岡県宗像市鐘崎の生まれ。高校卒業後に家業である魚屋に入る。ご長男が戻ってくるタイミングを見据えて居酒屋を開業。以降、「玄界灘でとれた新鮮な魚をより安く皆さまに食べていただきたい」という強い信念と魚屋としての50年の経験と実績を生かし、とんこやグループを成長させてきた。
魚住修(うおずみ おさむ) 1986年3月14日 福岡県宗像市生まれ。三兄弟の三男。福岡工業大学附属城東高校から日本大学に進み、大学卒業後はキープウィルグループに就職。10年前に帰郷して とんこや に入社。現在は取締役副社長の重責を担う。剣道は小学1年から始めて大学卒業まで継続。大学4年時には強豪日大の部内個人リーグ戦を常に1位で突破し、レギュラーとして全日本学生剣道優勝大会に出場。剣道四段。
「とんこや」「鯔背」の各店舗で剣縁会員のデジタル会員証を見せると、ワンドリンクサービス
株式会社 Tonkoya Company
http://www.tonkoya.com/
とんこや 宗像店
https://tonkoya-munakata.com/
とんこや 今泉店
https://tonkoya-imaizumi.com/
魚屋三代目 鯔背(いなせ)
https://sakanayasandaime-inase.com/
にしの鯔背
https://tabelog.com/fukuoka/A4001/A400201/40059115/
Tonkoya FISH MARKET
https://www.instagram.com/tonkoya.fish.market/

民謡「トンコ節」が屋号の由来。
戦争で肩を鉄砲弾に射抜かれた初代が、歌いながら魚の行商に出ていた
―― やはり、屋号「とんこや」の由来から伺いたいと思います
俊彦 そうですよね。自分の親父が浪曲を、酒井雲という有名な師匠に付いて熱心にやってたんですよ。そのときの弟弟子が村田英雄さん。ところが戦争に行った中で鉄砲が肩を貫通して、浪曲ができるような声を出せなくなったんですね。そうなって、地元が鐘崎(注:福岡県宗像市鐘崎。宗像地方有数の漁港)だし親戚に氷屋がいたこともあって、魚を売っていこうということになったらしい。で、行商をするときにトンコ節って歌をずっと歌いながら売って回ってた。そうするとお客さんは「トンコ節のおいちゃんが来た」って言ってですね(笑)。そんなことが背景にあって、自分で魚屋の店を開くときに「とんこや」と付けたというわけです。
俊彦 村田英雄さんが芸人さんを連れて鐘崎に来てくれて、宗像の農協に舞台を設けてみんなの前に出てくれた。そんあこともあったですね。
―― トンコ節というのはどういった内容の歌なんですか?
修 自分も詳しくはないですけど、特別に深い意味が込められているようなものじゃなくて、口ずさみやすいというか、そんな感じのものです。

壁の木彫は往年の大物演歌歌手・村田英雄さんの寄贈
―― どのくらいの期間行商をされた後に店を構えられたんですか?
俊彦 それはよくわからんです。店を開いた年に自分が生まれたんですけど、あまり聞かされないままでした。
最初は親父とお袋が一緒にやってたんですけど、赤間駅のスーパーに店を出さないか?という話が来たときに、お袋が「自分がしましょう」といって店を出したんです。自分も高校の帰りに加勢してから帰宅してましたよ。
俊彦 僕は高校を卒業してお袋と一緒に働き始めたんですけど、代替わりのときにちょっと状況が悪くなってた。代を替わるときには家内も一緒にすることになっていたので、根本を変えなきゃいかんということで、博多の市場に行って買っていたのを地元の4つの市場 ―― 鐘崎、地島、大島、神湊 ―― で競って買うようにした。そうすると、やっぱり魚が新しいってことでお客さんが増えて、また盛り上げることができました。
俊彦 競って買うといっても、最初は買えなかったです。初日に何も買えず、2日目も3日目も何も買えず。買えないもんだから博多へ行って仕入れるという状態。声が出ないんですよ。「あ、いくらやね」と思っても声が出ない。長年やってきている人は、ひとつ言ったらポンポンと声が出るんですけど、こっちはひとつ言ったらもう後が出ないんです。で、何日かして「今日は絶対買うぞ!」って言い聞かせながらやって、それでやっと買えるようになりました。もう、若さと「負けんぞ」っていう気持ちだけ(笑)。
魚屋は徐々に下火に。
長男が戻ってくるタイミングを見据えて飲食業に進出
俊彦 長男が学校を卒業して店に加勢することになったんですけど、その頃は状況が悪くなってきてたんですよ。魚屋ってもの自体が下火になって、子どもが継ぐって言っても継がせられんなと。家内と「いつまでも魚屋をしててもいかんから、居酒屋とかそういうのをどこかで見つけてせにゃいかんね」っていつも話してました。そうしたときに、ちょうどここ(注:現在のとんこや宗像店の場所)を貸してもらえることになって。ここは家内の同級生の親御さんが家主で、「いいよ」って言ってくれたんで。でも、自分も家内もビールひとつ作ったことがない(笑)。しかも、魚は売ってもすぐには答えが返ってこずに、2~3日してから「あれ、美味しかったよ」って返ってくるけど、居酒屋はその場で「美味しい」とか「美味しくない」と返ってくるじゃないですか。「あ~違うなぁ」って思ってたですね。でも、ここに FISH MARKET ができて、やっぱり最後は魚屋に戻ったなって思ってます(笑)。




―― FISH MARKET にお寿司が並んでましたが、全部ここで調理されてるんですよね?
俊彦 そうです。副社長が苦労して(笑)。
修 最初は板場に入ってましたけど、いまは時折です(笑)。私は、両親の最初のときと違って飲食しか知らなくて小売を知らない。だから FISH MARKET の最初は大変でしたね。いまもまだ勉強不足ですけど。
俊彦 調理をしてくれる良い人がいたんで、人に恵まれてよかったと思います。
いまの勢いなら、ちょっと躓いてもすぐに起き上がれる。
だから、失敗を怖がらずに自分の思ったことをさせてやりたい
―― 修さんは大学を卒業したら後を継ぐって思っておられたんですか?
修 そうですね。何となく頭の中でそういうことも思いながら進学しましたね。この1号店ができたのが僕が中学生の頃なので、進学はするけど仕事はこういう仕事をするだろうなとは頭にありました。大学を卒業して就職したのはキープウィルグループ。いまはカフェ事業とかレストラン事業が中心でもう80店舗くらいあるんだと思いますけど、当時は6店舗くらいの規模で焼き鳥居酒屋の会社だったので、僕は魚を全然触らずにこっちに戻ってきた(笑)。
修 最初から「いつか帰ります」と言ってたかは覚えてないんですけど(笑)、途中で「帰ります」って言ったときに、「じゃあ、あと3年頑張れ」と言われて。それで、「3年頑張ります」って言って、最終的には店長という立ち位置までやらせてもらいました。「そうなって帰った方がいいよ」と言ってもらえて。
―― 社長としては、修さんが帰ってきてどうだったですか?
俊彦 それはまだまだね。こっちは魚ですからいろいろ違いますけど、一番心配だったのは副社長に人がついていくか。やっぱり自分一人でできるもんじゃないから、いかに人が一緒になってやってくれるか。それが一番ですからね。いまはもう、みんなが加勢してくれるから有り難いです。
―― 修さんは、戻ってきたときに副社長というお立場に就かれたんですか?
修 いえ。戻って10年ちょっとになりますけど、副社長の肩書が付いたのは、つい最近です。
俊彦 もうそろそろというか、そういう役職を付けたら自分でいろいろ動いていけるし、いろんな勉強もできると思うんで。自分たちも動けばいいですけど、なかなかね(笑)。若い人に任せた方がいいと思って。次の店舗のこととかもね、やってみて、失敗するかもしれんけど、失敗を怖がったら何もできんですよ。だから自分で、「この場所がいいね」とか「こういうことをしよう」とか考えてね。失敗してもいいんですよ。失敗してみないとわからないこともある。成功すればそれはそれでいいし。そういうことをさせたい。いまのウチの勢いだったら、ちょっと躓いてもすぐに起き上がれる。だから、自分の思ったことをさせてやりたいんですよ。長男も通販に取り組んでいて、これは別会社(株式会社FLOWER。ブランド名は魚住商店)にしてるんです。魚屋と居酒屋が後ろにあるのを上手く使って、新しいことができればいいよね。
―― 勢いという言葉が出ましたが、いま5店舗
俊彦 はい。ここ10年くらいで割と勢いで出したですね。北九州にもあったけど潰して赤間の方に出したり、新宮の方も場所がイマイチだったんで福工大前の駅に近いところに移したり、そんなことをしながら。
―― どの店舗も、入れる魚は社長が地元の市場で競ったものですか?
俊彦 この辺りの港の市場はもうないんですよ。ここがオープンして3~4年はあったんですけど、魚もちょっと少なくなったし、福岡の方が相場が上がるからそっちにモノが流れるようになったりして。いまは博多で一番の仲買さんから仕入させてもらってます。本当にもう、魚は間違いない。本当に良い魚を安く仕入れられてる。自分が博多で競って買うこともできますけど、やっぱり顔を覚えてもらおうと思ったら大変。人数が多いし競りの場所もたくさんあるし。なので、絶対的にに信頼できる仲買さんから買わせてもらってます。

社長の夢は東京進出。僕らはいま、そこに向かっている
―― 東京への出店を計画されたことがあると伺っています
俊彦 息子が東京にいたんで、自分たちもよく東京に行ってたんですよ。「ここに出したら絶対に成功するよね」とか思いながら歩いて回ってたんです。「ここもいいね、あそこもいいね」とか。東京で10,000円するものを6,000円とかで出して、それで美味しかったら絶対に人は来ると思っていて、だから絶対に東京に出たいと。特に、副社長はキープウィルグループにいたので、「東京に店を出したよ」って胸を張って言ってもらいたいなって気持ちもあります。ただ、コロナの後も何度か物件を見に行ってますけど、人手不足とかもいろいろ聞きますから、ちょっとね。それにやっぱり名前も必要。だから福岡にもう1店舗出して、とんこや の名前をもうちょっと上げてね。
―― 剣縁の会員さんが福岡市の今泉店をよく使わせてもらっているらしいです
俊彦 ありがとうございます。今泉もみんな頑張ってくれて、食べログで一番になって。
修 昨日も台湾の人が18人、後半の時間になって急に電話をくれたりしました。食べログ1位にもなってるんですけど、今回の九州ナントカ100選みたいなものも受賞してるんです。年間予約数の多い店ということで。そうなったら本当にもう予約がすごいです。
俊彦 お店に入れる人数は60人くらい。今泉もここも。そのくらいに抑えて、良い魚と良いお酒を楽しんでもらいたい。魚は間違いないものが入ってるんで、ちゃんと接客をして、「美味しかった。また来るよ」という言葉が出るようなことをやってくれと。美味しいということをいかに伝えるか。魚の説明もちゃんとして、それで、「美味しかった」と言ってもらえたら「ありがとうございます。またお願いします」と返す。これでいいと自分は思ってるんですよ。余分なことは言う必要ないし。
―― 接客レベルは一筋縄でいかないと思いますが、研修とかも工夫されているんですか?
修 コロナ前にはちょこちょこやってたんですけど、なかなかできなくなってました。それで、社内でも研修をしたいという声があったし、いま社員は25名くらいですけど、月1回の会議で集まるメンバーも限られていて、入社したけど何カ月も会ったことがないみたいなことになっていて。それで、たまたま親戚がマナーコンサルをやっていることもあって相談させてもらって、先日開催しました。これからも何か、社員どうしを繋ぐようなことを少しずつでも取り入れていけたらいいなと思ってます。
修 研修の中身はマナー研修の一部とか接客の実践。それと、店ごとのチームで「どういう店にしていきたいか」を話したりとか。マナー研修+モチベーションアップみたいな研修でした。みんな楽しく受けられる感じでしたね。前半は違う店舗どうしで座って意見を出し合って、後半は同じ店舗のメンバーでやる、そんな流れを作ってくれてました。それに、以前に研修をやってたときはスーツ着用だったんで、今回も自然と全員スーツ(笑)。お店も休まずで、朝から研修をやって、戻って仕込んで夜にはお店を開けてました。隣りの FISHI MAE\RKET だけは定休日(笑)。
修 最近、飲食関係のいろんな会に参加させてもらえるようになって、「規模じゃないな」って本当に思っていて。やっぱり、「1店舗1店舗がどれだけしっかりやってるか」が とんこや にはすごく合ってるし、もともと とんこや にいるメンバーもそう思うんじゃないかなと。なので将来のことを言うと、すぐすぐの話で福岡にもう1店舗。その先が東京っていうのは目標なので、そこは1店舗やりたい。社長の夢が東京っていうことで、僕たちはいまそこに向かっていってる。それを達成した先は何だろう?ってことでは、海外とか考えたりはしますけど、まだわからないですね(笑)。

進学しなかった大阪体育大学に全日本学生剣道優勝大会で負けた
―― 修さんは剣道をいつから?
修 小学1年からです。2人の兄たちがやってたんで、そのまま横にスライドして入っていったような感じです。
俊彦 自分のところの甥っ子が剣道をやってたんですよ。それを長男が見てて「僕もする」って言った。そうしたら兄弟みんな右へ倣えで(笑)。長男は大学には行かなかったですけど、次男は大阪体育大学を出て門司で体育の教員をしてます。
修 次兄と僕が行った福岡工業大学附属城東高校は、もともと大阪体育大学と繋がりはあったんですけど、当時から大体大は稽古が日本一キツいとか言われていたので、誰も行かなかったんです。で、次兄が初めて縁を繋いで、そこからは続きましたね。僕も、仲良くさせてもらっていたひとつ上の先輩から「来いよ」と言ってもらって、直前まで「行きます」って言ってたんですけど、「でもなぁ、やっぱりキツいよな」「東京にも行ってみたいしな」と思って(笑)。ほかにも地元の道場の先生の後押しだったりとかいろいろなご縁があって、東京の日本大学にしました。大体大の先輩には何かひとこと言われたような気がしますけど、覚えてないです(笑)。
修 兄の代は大体大が全日本で優勝してるんです。僕の代も大体大は強くて、全日本は大体大に負けて終わりました。大体大は準優勝でしたね。彼らとやって「本当にすごいな」と思いました。僕は、高校のときにそれほど強くなかった人と対戦したんですけど、ものすごく強くて・・・負けました。こんなに違うものかってくらい。
―― お兄さんに右へ倣えという話ですけど、小さい頃は楽しくやってた感じですか?
修 楽しくやってたとは思います。子どもがいまサッカーをやってるというか、サッカーに持っていかれたんですけど(笑)、小5になってようやくクラブチームで本格的になってきて、それを見ていて「自分がやってたときはどうだったかな?」と振り返ることがあります。こっちもだんだん熱が入ってくるんですけど、「本格的に自分で気持ちが入ってやるようになったのは中学くらいだったかな」みたいな感じですね。
―― 気持ちが入ったきっかけというのは?
修 先生に厳しく言われたんです。最初の頃は勉強も剣道も中途半端な感じだったので、「どっちかをちゃんとしなさい」みたいな感じで。それで、勉強はあんまりしたくないから剣道を一生懸命頑張ろうって選択。一生懸命やった結果として、2年生のときの新人戦では団体戦で県3位にはなれました。僕は中堅だったかな。誰かが飛びぬけて強いというチームじゃなくて、みんなで何となく勝っていけた感じでした。小さい町なので本当にみんな仲もよくて、小さい頃から一緒にやってきた仲間ですね。
激戦の福岡県中部ブロックを制したのに、県大会の予選で負けた
―― 高校時代はどうでしたか?
修 福工大城東には剣道の推薦で行きました。兄たちと違って僕は複数の推薦があったわけじゃないので、そこから声をかけてもらったからそこってことで(笑)。当時の福工大城東は強かったです。でも、県大会で結果を出せなかったんですね。中部ブロックで優勝したのに県大会の予選で負けてしまった。僕たちが1年のときに玉竜旗で3位になったメンバーは僕たちのひとつ上が中心で、その人たちが残ってて、その中には九州大会の個人チャンピオンもいて、そこに僕の同期の強いやつも入って。練成会に行っても本当に負けなし。ところがその代では、どういうわけか九州大会がなくなって選抜のための試合が別にあったんですけど、そこで足元をすくわれて、十数年守ってきたシード権を落としちゃったんです。シード権を落とすと、中部ブロックでも県大会を賭ける手前くらいで強い私立と当たるようになるんですけど、最終的にそこでも負けてしまった。
修 それで僕たちの代はシード権のない状態。この代は福岡第一がすごく強くて、当たらないように願ってたんですけど、シード権を賭けるところで当たる組み合わせになったんです。そこでもう「やるしかないぞ!」ってことで稽古して、で、福岡第一に勝って、そのままの勢いで優勝したんです。これでシード権も戻ってきて、「よし、県大会行くぞ!」ってなっていたのに負けてしまった。中部ブロックはどこが勝ってもおかしくないですし、中部ブロックで優勝するところは全国でも上位って昔から言われてますけど、残念ながらダメでしたね。

―― ちょっとやり残して大学に進学したような感じですね
修 それはありましたね。でも、大学ではやり切ったかなと思います。最初のうちは試合にも全然出られなかったですけど、最後はレギュラーで全日本にも出ました。日大って個人のリーグ戦があるんです。そこで一番になれば無条件で選手になれる。監督が入れたくないと思ってても入れるんです(笑)。最後は僕、ずっとそこで一番でしたからレギュラー7名にも入ってました。でも最後の最後、高校時代に進学で選択しなかった大体大に負けるって(笑)。
修 余談ですけど、高校時代に続いて大学でも寮生活でした。大学1年のときって10人部屋なんです。で、一週間の最後、日曜日の夜に次の一週間の当番を決めるんです。その中に電話当番があるんですけど、部屋に電話があって、先輩からかかってきたり荷物が届いたりとかで電話に出なきゃいけない。僕たちは日曜日が練習休みなので、日曜日に電話当番になると寮に絶対にいなくちゃいけないわけで、彼女がいる子なんかは遊べなくなるので、負けたらお金を払って代わってもらったり。僕にもそういう経験がありました。本当にその夜は、「本気のジャンケンってこういうことか」っていうくらい。毎週毎週。
修 嫁さんとも学生時代に出会ったんですけど、剣道関係の繋がりで出会う感じ。彼女は山梨・甲府商業から神奈川大学に進んでて結構強かったんですよ。学生のときに山梨県代表で選手権に出てる。山梨県予選の決勝で全日本選手権者の方と40分くらい延長戦をやって勝ったんです。彼女は最後の全日本学生で日体大に負けたんですよ。代表戦までいったんですけど彼女が代表戦で負けて。その年は日体大が優勝したんですけど、そういうチームとちゃんと戦って負けた。彼女も卒業してから竹刀を握ってないですけど、本当にやり切ったんだと思います。
―― お二人とも剣道界に復帰しそうな気配がまったくしないですね
修 子どもが一人くらい剣道をやってたら、「もう一回着けようかな」ってなるんでしょうけどね。中学に入った子にはずっと「剣道しよう」って言ってたんですけどダメでした。「これ以上ママが怖くなるの~?!」「それは無理!」って言ってました(笑)。
俊彦 僕は剣道をしないけど、ずっと子どもたちを連れて行ってましたからね。長男のときは秋田の魁星旗に行ったりね。副社長も中学の玉竜旗で15人抜きしたり。またやってくれたら嬉しいですね。
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