仕事が増えるのも採用がうまくいくのもすべて人との繋がり ― 合同会社サンオリエント代表の仁村さんはそう語ります。訪問看護、福祉用具のレンタル・販売、居宅介護支援、相談支援を展開されていますが、ご自身が相談支援専門員として難しい立場の方のサポートにあたる一方、経営者としても比較的離職率の高い業界でありながらここ数年離職者を出さずに事業を拡大できているとのこと。温かさに溢れる口調でお話しいただきました。
プロフィール
仁村尋城(にむら ひろき)。1970年6月18日和歌山県有田市生まれ。和歌山県立耐久高校から近畿大学経済学部に進学。オカムラ製作所の営業を経て、親族で経営する東燃和歌山工場の協力会社に転じ、2014年に合同会社オリエントを設立。剣道は小学1年で始め、十年余りの中断を経て30歳を過ぎた頃に復活。現在は市高会という稽古会を中心に週1回の稽古を継続。剣道五段。

経営者にはなりたくなかった
いまやっている事業は、訪問看護と福祉用具のレンタル・販売、居宅介護支援といって高齢者のケアマネジメントのところ、あと僕がやっている相談支援。相談支援というのは障がい者のケアマネみたいなものです。介護と障がいは年齢で分かれていて法律も違うんですね。65歳以上が高齢者で、そのサービスをマネジメントするのが介護支援相談員でいわゆるケアマネジャー、0~64歳までが障がい者とか障がい児で、それをサポートするのは相談支援専門員。
それに、和歌山駅前の辺りで障がい者のグループホームを二つと、アパートの部屋を借りて一人暮らしの前準備をするようなものがひとつ、合計で3棟やっています。
― 高齢者と障がい者の両方を対象とされているんですね
この会社のスタートは訪問看護なんです。たまたま小学校の頃から剣道仲間の同級生に看護師がいて、彼から「病院の先生が訪問看護を手放したいから買ってもらえないかと言ってる」という話があったのがキッカケ。僕はその前に介護の会社にいたので、「どうかなぁ・・・」と思いましたけど、当時いた会社の社長 ― 僕のおじさんなんですけど ― と話し合って、2014年3月にいまの会社を立ち上げて訪問看護だけをやることにして、僕が掛け持ちする形でやってました。僕は看護師ではないですけど、その先生は訪問看護の看護師さんのコントロールがしんどくなって、僕のマネジメントの部分を買って声をかけてくれたんだと思います。
― 仁村さんはずっと福祉の畑でいらっしゃるんですか?
いえいえ。大学を出た後はオカムラ製作所というオフィス家具のメーカーに就職して営業をしていました。その中で商環境事業といって店舗関係ですね、当時だとダイエーとかニチイ、マイカルといったスーパーの食品コーナーのゴンドラやら冷凍ショーケースなんかを手掛けたり、ホームセンターの内装の営業をやってたんです。10年近く勤めたかな。最初が大阪で、阪神淡路大震災の年に広島に異動して、また大阪に帰ってきたら横浜に行ってみたいな営業の転勤族。広島に行ったのは、当時担当していた東急ハンズが広島で店舗を立ち上げるから営業担当も行けってことで飛ばされました(笑)
その後、昔の東亜燃料工業和歌山工場(現.ENEOS和歌山製造所)の協力会社を僕のおじさんがやっていて、タンクの中のクリーニングとか配管のメンテナンスとか。身内みんなでそういう絡みをやってたんで、そこへ戻ってきた。ウチって女系で男の跡取りがいなかったのでボチボチってことで。ただ結局は継いでないですけど(笑)
その会社が実は介護もやってたんですよ。戻ってきて5年もしないうちに田辺の営業所に行ってくれと言われて、行ってみたらやることが介護だったんです。会社が介護をやっていること自体知らなかったというか、まったく興味がなかった(笑)ただ、和歌山で立ち上げをやったり海南の企業を買収したりしたので、田辺にいたときはいろいろ学びましたね。
― もともと経営の方に向いているという思いはありましたか?
いや。それが嫌だったから、大学を出た後に帰らなかったんですよ(笑)小さいころからずっと見てきて、同じようになりたくないなと思ってましたから。ただ、どこかに「いずれはやらんといかんのだろうな」という気持ちはあったんだと思います。周りからも言われてましたし。「絶対にせん!」と言ってましたけど、実際には経営者になっちゃいました(笑)

初めて訪問介護を見て「なんでこんなことをせなあかんねん」と思った
初めて訪問介護を見たときは、「なんでこんなことをせなあかんねん・・・」と思いました。お手伝いさんみたいな感じだったでしょ。感覚が。そう思ってましたけど、実施に中に入ったら、「ああ、手伝わなあかんな」といった感じで流されちゃいました(笑)
― 訪問看護もお手伝いさんみたいな感覚がありますか?
訪問看護はドクターの指示書があって、それに基づいて看護師や理学療法士が動くんです。ただ、看護師さんも人間なので、家に行ってしまったら「ちょっと洗いものしたろか」というふうになっちゃうんですよ。本来はやっちゃダメなんでしょうけど言われたらやっちゃう。ウチだけじゃなくて、どこもやっぱり1対1になったらそうなってしまうらしいです。因みに、昔お粥を作ってきた看護師がいました(笑)
相談支援専門員の資格を取得。
本格的に障がいの分野を手掛ける
僕が訪問看護をやり始めた当時は、訪問看護に関する知識はある程度ありましたけど、何をやっているかについてはあまり興味がなくて、ただ単に経営だけをやってる感じでした。平成26年3月に訪問看護を始めて、その年の11月に居宅支援といってケアマネさんの部門を立ち上げて、翌年くらいに福祉用具のレンタルを立ち上げてといった流れでやってきたんですけど、ちょうど介護保険が改正になったときに、障がい者の人でも受けられていた介護保険のサービスがダメになったんですよ。それで、障がいのサービスを、たった一人のために始めたんです。ヘルパーさん、つまり訪問介護の方で。
そのときは制度が変わるから仕方ないなという感じだったんですけど、だんだんと、言い方は悪いですけど「障がいって仕事になるんかな」と思うようになって、その後くらいに相談支援専門員といって障がいのケアマネジャーのような制度ができたので、「資格を取ってみようかな」と思って取得しました。まだ前の会社にもいたときです。そして、ちょうどコロナのときの令和2年に田辺の事業所を閉めて、相談支援だけを和歌山に持って行ったんです。そこから本格的に障がいの相談支援専門員を始めた。結局、訪問看護って障がいの方にも行くんですよ。身体障がいとか精神障がいとか。なので、障がいの方もいけるなということでやってきたら大きくなってしまった(笑)
― 相談支援専門員が対象とするエリアは決まってるんですか?
一応は和歌山市なんですけど、福祉用具とか相談支援専門員は対象エリアがあってないようなもので、白浜まで行っていたりとか、田辺市大塔、昔の大塔村まで行ってました。訪問看護は和歌山市だけです。
エリアについて言うと、介護保険は全部統一ルールなんですけど、運営主体である各市町村によってローカルルールが実はあるんです。例えば、ヘルパーさんが月間で行ける時間数があるんですけど、それが、和歌山市にはあるけれどもほかの市町村にはない。「言っただけ支給決定しますよ」って(笑)田舎に行くと、隣り近所にみんな住んでいるから無視できない。役場の人もそういう考えで「どーぞどーぞやってください」という感じなんです。和歌山市は人口があるので、それをやったら統制がとれなくなりますけど、田舎はルールで縛りすぎると地域の人間関係にヒビが入る。

担当している相談者120人のうち約6割が元犯罪者
― 割合としては障がいの方が多い感じですか?
そうですね。訪問看護の中でも介護保険よりも障がいのサービスの方が多いかな。それにグループホームを3棟やっていて、結構な部屋数を借りているので。部屋数は、グループホームだけで24部屋つまり24床あって、それとは別に9部屋あります。その9部屋はグループホームではなくて、行き場のない人とか生活に困っている人、罪を犯した人とかで障がいを持っている人に入ってもらって、そこで看護師さんとかヘルパーさんで支援をかけています。
― そういった人たちまで受け入れているのは、どういうキッカケなのでしょう?
田辺の前の会社にいて相談支援を始めたときですけど、和歌山市に刑務所とかの出口支援・入口支援をやってる県の機関があって、そこをたまたま知っていて、そこから依頼を受けたのが始まりです。当時は、犯罪者とか元受刑者は持ちたくないよって人が多かったんですね。それで、「和歌山来たよ」と挨拶に行ったら、そういう依頼が結構来た(笑)端正会という更生保護施設があるんです。刑務所から出てきた人たちが入って、そこで保護観察期間を満了させてから出てくるんですけど、そこから依頼されて住むところを探したり。和歌山刑務所自体は女子刑務所なんですけど、端正会は男女ともにいます。
僕がいま実際に担当している相談者が120人くらいなんですけど、そのうち約6割が元犯罪者。
― 相談支援専門員は障がいのある人が対象だと伺いましたが?
物理的な身体という点では健常者と言えるかもしれないですけど、覚醒剤の後遺症とかって精神障がいなんですよ。何かしら精神の病気が付いて出てくる人が多い。出てきた後に地域で生活するためには絶対に支援が要るということで、僕みたいな人間が付くんです。まずはちゃんと生活ができるようにしてあげる。その後で就職を一緒に探すこともあります。
― そうだとすると、御社の施設に入っている障がい者の方には入居期限というか目標期限を置く?
アパートタイプに入る人はエンドレス。完全にそこに住む形ですね。65歳になったら介護保険の対象になっていくので、元気だったらそのままアパートに住めますけど、ちょっと介護が必要になっていたら有料老人ホームとかに行ってもらいます。支援をしていっって、やっぱり生活保護のままの人と自分で収入を得られるようになっていく人と両方がいますけど、やっぱり生活保護のままの人が多い。薬物をやってしまったら、なかなか元に戻らないです。だいたいは普通なんですけど、しゃべり方とかがやっぱり遅いし思考の回転も遅いので、どうしても一般的なアルバイトとかは難しい。コミュニケーションも一定程度はとれるんでしょうけど、本人の意欲も低下しているし、なんというか次のステップが踏めないですね。だからもう、ヘルパーさんとか看護師さんの支援を受けたままそこで生活しています。ただ、薬物とは関係がなくて、ちょっと障がいがあって万引きを繰り返して窃盗で捕まったみたいな人だったら、働く可能性はある。
― 相談支援専門員は、相談者と一生、あらゆる面で関わり続けるということですか?
相談員それぞれですけどね。ちょっと極端な言い方をしますけど、ケアマネさんなら事業所との間に入ってプランを描くのが仕事。さらには高齢者はいずれ亡くなりますし、病院に入って帰ってこないということもある。でも障がい者にはそれがないので、全部に関わっていっちゃうんですよ。もし捕まって警察から電話がきたら引き取りに行くのは僕らですし、親御さんがいて預かる人は家に帰れないから預かっているので、その人に一人暮らしをさせるとなったら、最後まで面倒をみなければならない。やらなきゃならない仕事の幅は広すぎますね。
― そんな方を対象に120人を預かっていて、さらに毎年のように増える
そうです。120人とは別にグループホームには24人がいますしね。毎年どの程度増えるかというと20~30件くらい。機関相談員とか行政側に立つ人って相談員のタイプを見てるんですよ。この人は子どもが得意とか女性に優しいとか。僕はどちらかといえば「犯罪者とか暴力的な子ども、虐待案件なんかに強いよね」と思われていて、そういう案件しか来ない。たまに普通の人も来ますけど。
キャパがいっぱいだから受けられないと言って断ることはできます。でも、それはしません。たまたま部下に剣道を一緒にやっていた子がいるんです。僕がいま通わせてもらっている稽古会があって、そこの出身の子なんですけど、彼が障がいの方で相談員の資格を取って僕とやっているので、「だからどうぞ」って。いまはキャパもまだ大丈夫(笑)でも、相談員が一人だったら相談者が150人で限界が来ますね。それでもみんな200人近くを担当してるんじゃないかな。だから、ある程度得意なというか慣れているタイプに寄っている方がいいです。例えば「子ども」といっても、特別支援学校に行っている暴力的な高3には慣れていますけど、放課後等デイサービスに通う子どもは難しい。慣れていないケースに関する研修会もありますけど、なかなか行けないですし。
僕、触法障がい者の支援ということで何回かテレビに出たことがあるんですよ。たまたまカンファレンスに行ったらNHKが来てたって感じなんですけど(笑)それがニュースで流れちゃって、それを見た人が「え、こんなことやってんの?ちょっとこっちに来てしゃべってよ」ってことになったりとか。啓発ビデオに支援の成功例で取り上げられたりしているので、和歌山の関係者であれば大抵、僕の存在とかタイプは知っていると思います。

この業界はがっついてくる人が多いけれど僕はそれをやらない。
本当に繋がりを大事に仕事をしている
― 今後は会社としても障がいの方に軸足を置くおつもりですか?
いえ。介護と障がいの両軸でいきます。福祉用具のレンタルはほぼ介護保険ですし。僕が時間的に障がいの方に引っ張られるという点でいうと、最近は取締役4名体制にしたんです。ケアマネの女性役員と2名体制でしばらく動かしてたんですけど、若い看護師の男の子が来てくれて、彼も去年役員に入れたんです。それと福祉用具の営業の管理者も役員に入れて4名体制にしました。ゆくゆくはこの人たちが見てくれたらいいなって。僕もいきなり投げたりはしませんし、「徐々に教えていくよ」と言ってあります。
経営って数字を回していかなければならない。それで、売上を作るために結構がっついてくる人がこの業界には多いんですよ。でも僕はそれをやらないので、うまい具合にみんなのネットワークを作って、その中で少しずつでも増えて言ったらいいなって持ってやってきています。
結構、仕事絡みで剣道関係の人と繋がります。例えば、先日グループホーム立ち上げの挨拶に来てくれた人は、息子さんが剣道をやっていて僕の知り合いと繋がっていて「仁村のところにも行ってみなよ」ってなっていたり、この近くの宮前少年剣道クラブの先生もそう。僕がこの業界に入って和歌山に来たときに少年剣道を教えていたんですけど、その人と試合会場で話したりしていたところが実はその人は市役所の保健の部長さんだった(笑)その方は定年退職された後に障がい者の作業所を立ち上げて、いまも行き来させてもらってます。
僕一人でこれをやっていたら会社は続いていないですね。周りに助けてくれる人がいて、引っ張ってくる子たちも繋がりの中で引っ張ってきていて、そうやっていく中で、このネットワーク、このネットワークって繋がっていって現在のネットワークがある。だから本当に繋がりを大事にして仕事をやっている。
― いまスタッフさんは何人いらっしゃるんですか?
社員は16人でパートさんを含めると全部で35人くらいです。社員は全員が何かしらの有資格者で、全員、飲み会とかいろんな会合で話しているうちに「そういう人なら知り合いにいるから声かけてみるわ」みたいな感じで繋がっていって、その中で来てくれた人たち。そうやってきてくれた人はまず辞めない。ここ数年、定年退職の他には辞めてないですね。
― 比較的離職率の高い業界だと思っていました
ウチは居やすいんじゃないですか。僕はほとんど言わないから(笑)各管理者には売上の意識を持つように言ったりはしますけど、全体収支のバランス、コスト系はこっちが考えるからと言って動いているので、利用者を増やすことに集中できていると思う。あーせぇ、こーせぇと言ったり、両方を負わせると彼らに悪いんで(笑)全体がわかる僕は、「こっちを伸ばそう」とか「ここが下がってきたからここで補っていこうか」とか。ウチはケアマネと相談員が仕事を引っ張ってくるじゃないですか。僕もネットワークで訪問看護の案件とかを引っ張ってこれるし。それをウチだけじゃなくて他の事業所にも流したりするんです。そうすることで他の事業所と繋がれるので、「この案件はこっち、これはそっち」とかやるんです。余所さんも大事にしないといかんのです。そこから仕事が来ることもあります。やっぱり抱え込んだらウチの中でしか伸びないし、そもそも僕自身いろいろなところと繋がるのが好きなので、まぁ、飲み会に行ったりとかみんなで遊びに行ったりとかしてます(笑)
― この勢いだと、まだ何棟もアパートが必要になりそうですね
いやいや。3棟までやったので少しの間は。2年間投資をやったので、この2年は回収です。またその後は(笑)僕も60歳になってくるので、違うことをやりたいなとは思っています。
ひとつ思っているのは、事業者さんが集まれる場所を作りたいということ。コロナでみんなが集まる場所がなくなったんですよ。御託を並べて酒を飲んでとか、毎回来てくれるような場所を作りたい。だから、ゆくゆくは飲食店みたいなものをひとつやりたいなと。剣道ほどじゃなくても、みんなで集まってざっくばらんに話していたら、どこかで繋がりが見つかったりするじゃないですか。そういう繋がりで僕は仕事が増えてきたので、みんながそうなればいいなと思っています。
大学剣道部は数ヶ月で辞めた
帰ってきて拾ってくれた仲間のおかげで復活できた
― 失礼ながら、仁村さんの第一印象は「どこぞのサーファーか?取っつきにくいかも」という感じでした
よく言われます(笑)実際にサーフィンもやってます。サーフィンは大学のときからですね。僕は近畿大学なんですけど、大学剣道部に入ったものの、セレクション組みとの間に結構な差がありましたし、みんなものすごく稽古をする。この稽古をしていたら僕は午前の授業に出れなくて単位を落とすなと思って、早い段階で辞めました。それでバイトを始めたところ、そこにサーフィンをやっている子がいた(笑)
でも、薬学部に剣道の同好会があったんですよ。これもたまたまバイト先に薬学部の子がいて教えてくれて。僕は経済学部なので薬学部の同好会に所属はできないんですけど、たまに行かせてもらって楽しくやってはいました。
剣道自体を嫌になったことはないです。剣道が嫌だったというのではなくしんどかったのは高校ですね。当時の和歌山県は県立高校のどこにいっても逃げられる先生がいなかった。箕島高校は阿部先生、桐蔭高校は横尾先生、日高高校は西田先生と錚々たる国士舘出身の先生方。僕が行った耐久高校の竹内先生は日体大ですけど、いずれにしても稽古はきついし、当時の竹内先生は怖かったです(笑)

― 合宿寝坊事件というのを剣縁法人会員・太田シロアリの太田社長からお聞きしました
それは僕らの代です。教室に畳を敷いて窓を開け放して寝るんですけど、誰かが扇風機を消したんです。窓を開け放してるから蚊が入ってくるのに、扇風機を消してるから蚊を追い払えない。それで、やっと寝ついたときには起床時間(笑)そこに竹内先生がえらい剣幕で上がってきた。その後は全員グラウンドに集合させられて正座。当時はそんなことが許されてましたもんね。ただ、太田君たちは1年生だったので、僕らほどの被害は受けてないと思うな(笑)まぁ、そうじゃなくても僕らの代はよく怒られていました。
そこそこには強かったんですよ。僕は中学では剣道をやってないんですけど、有田選抜と和歌山選抜が全国大会の決勝を戦うくらいのレベルで、その有田選抜のメンバーが全員耐久高校に来てましたから。当時は和歌山東高校が全国レベルの強さでしたけど、その和歌山東とは毎回大将戦。僕のときも、副将の僕と大将でひっくり返された。だから近畿大会に出たのが最高。近畿大会に出られて「やった~」くらいの感じでしたから、奈良の正強高校にボコボコにやられました。
― 大学は一般受験で?
京都産業大学のセレクションは受けました。耐久高校のOBがコーチをされていて、「一人行け」と言われて行かされてんです。セレクションに落ちたものの公募制試験を受けたら通してやるとは言ってもらったんです。でも、参加した夏合宿がしんどかった記憶があって、無理だと思っていきませんでした。近畿大学は一般受験です。
大学を出た後はまったくやっていなくて、再開したのは和歌山に帰ってきてからです。30歳を過ぎた頃ですね。少年剣道に顔を出したら「お前も明日から来い」と言われて。少年剣道を教えながら少しずつ試合に出たりもするようになりました。ピークのときは週4回稽古をして週末は試合という感じでしたね。でも、下の子が小5くらいのときに部員が1人だけになってしまって、別の剣友会にいた後輩に預けました。
― いまは和歌山市がお仕事の拠点ですが、稽古もそうですか?
有田市に自宅はあるのですが、和歌山のグループホームの近くに家を借りていて、有田には週末に帰るくらい。仕事を終えて帰ってとなると、有田で稽古はなかなかできません。市立和歌山高校でやっている市高会という集まりがあるんですけど、下の子が和歌山市の東和中学校に行っていた頃に先輩から声をかけていただいて、それ以来もう十数年、毎週日曜にそちらに通っています。いつも20~30人くらい、いろんな人が来るので楽しいですよ。もちろん毎週昼飲みです(笑)ウチの顧問弁護士になってくれてる人もそこで。事業に必要な車も、借りている部屋の保険なんかもみんな市高会の仲間で。
有田で稽古ができないことを考えると、あのとき市高会に声をかけてもらっていなかったら、ほぼ剣道をやらずにきたと思います。やっぱり拾ってもらってよかったです。
もともとは野球をしたかったんですけどね。両親が剣道をやっていたわけじゃないし。親父はバレーボールで千葉県の国体代表選手。それに、仁村という名前でピンとくる人もいると思いますけど、プロ野球の中日とか巨人に仁村という選手がいましたでしょ。あの親戚筋に当たるんです。ところが、東燃剣道部が少年剣道クラブを作ってたので、仕方なく(笑)でも結局、同級生の中では一番長く続けてますね。

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