剣道が盛んな福岡県。その福岡市博多区で株式会社川内電気商会を営む川内義文さん。プライベートでは自身の出身道場・那珂南剣道南風会の代表を務めます。会社の経営者、そして剣道の指導者と二足の草鞋を履く川内さん。仕事でも剣道でも、川内さんが重要視しているのは「人として」ということ。川内さんの半生について話を聞いてみれば、たとえ剣道から離れていた時期であっても、つねに剣道の精神とともに歩んできていたことが分かりました。
プロフィール
川内義文(かわうち よしふみ) 1971年10月27日 福岡県生まれ。九州産業大学付属九州産業高校(福岡)から九州産業大学に進学。その後、生家が営む建設業・電気工事業の株式会社川内電気商会に入社する。小学3年生から始めた剣道は、大学時代のアキレス腱断裂によって中断。32歳のときに長男・光大郎さんが剣道を始めるのとともに出身道場である那珂南剣道南風会にて再開。少年指導に携わり、現在は主席師範を務めている。再開時二段だった段位はその後着々と昇段を果たし、2024年8月には六段審査に合格した。
那珂南剣道南風会
https://www.instagram.com/nakaminami_nanpu/

お礼や労いの言葉をいただけることが、なによりの喜びとなっている
―― 福岡県福岡市博多区にて川内義文さんが営む川内電気商会。会社のこと、そしてお仕事の内容についてお話をうかがえたらと思います
会社自体の歴史としてはすでに61年続いていて、父から会社を継いで私が二代目となります。私自身は22歳から会社に入っているので、もう勤務してから30年くらいが経ちますね。規模としては私を含めた3人でやっている小さな会社で、みんなで手を取り合いながらなんとか、という感じ。事業内容としては、官公庁関係、住宅やアパート、店舗関係などの配線工事が主な業務となります。
―― すぐにご実家で働かれたんですね?
いえ、ちょうど父が心臓の手術をしたのが私が大学4年生のとき。私自身はもともと、いずれ家業を継ぐにしても、大学を出てどこかよそで修行をしてから、という考えでいたのですが、当時は父も「手術後はまたまともに仕事ができるか分からない」と言うものですから、そこは家族を助ける意味でも、すぐに実家の会社に入社しました。

―― 非常に専門的なお仕事かと思いますが、その仕事ならではの大変さ、そして楽しさをお聞きしたいです
大変なところで言えば、たとえば「やり取り」の部分が挙げられるでしょうか。昔はお客さまと直接のやり取りが多かったのですが、いまとなれば間にハウスメーカーさんを挟むぶん、こちらの意見がうまく伝わらないこともある。配線に関係する仕事ですから、たとえば部屋のどこにコンセントが位置するのかなど重要なポイントですが、現場の我々の意図がダイレクトに伝わりづらい部分もあるので、その点にはいつも細心の注意を払っています。
難しさという部分においては、やはり専門資格の問題もあって、電気工事に携わるためには最低でも第二種電気工事士の資格を持っていなければならず、第一種電気工事士の資格があると高圧まで扱うことができるんです。私自身は第一種の資格を保持していますが、これを取るのが難しかったですね。私がまず第二種の資格を取ったのは高校時代で、高校は普通科に通っていたこともあって、当時は実家の会社から第二種の試験を受けて合格させてもらった。第一種はそこから実務経験を5年積まないと受けられないので、私自身は会社に入って実務経験を重ねて、働きながら8年をかけて取得しました。いまとなれば第一種の試験に合格して実務経験年数を満たせば自動的に資格が取れるシステムもあるのですが、当時はそれもなく、苦労しました。
楽しさ、という点では「名が残る」というところに非常に喜びを感じます。たとえば学校の玄関、街灯の一本であっても施工した業者の名前、「川内電気商会」の名前が刻まれる。後々まで残るものを手がけて、そこに名前が刻まれることにはやはり誇らしさを感じます。そして、やっぱりなによりもうれしいのはお客さまからのお礼や労いの言葉。施工しているときにお茶なんかを出していただいて「ありがとう」や「お疲れさま」という言葉をいただけることは、ささやかなことかもしれませんが、何年仕事を続けていてもうれしいものです。

―― お仕事の現状はいかがでしょうか?
いまのところ、波がある、という表現がもっとも正しいかもしれませんね。とくにいま、材料費がこれだけ高騰してしまうと一軒家というものがなかなか建つことはありません。そこで仕事の安定感を高めるためには、やはり公共工事を増やしていくかがポイントとなるので、今後はより注力していくことが重要だと感じています。それと同時に、一般のお客さまというか、もっと幅広く自分の仕事をアピールしていくことも考えていきたい。今回のこの剣縁さんの取材を受けたこともそうですし、私には剣道という特別なつながりがあることを、いままであまり意識せずに来てしまった。かつて名刺を配る相手はどうしても仕事に関連のありそうな業種の人ばかりだったのですが、剣道の縁を活かせば人脈は無限に広がることにやっと気がついたんです。もともと私は平六会(平成6年度に大学卒業及び昭和46年生まれと早生まれの昭和47年生まれを含む者が所属可能な有志の会)にも所属させていただいていますし、自分でも福岡で四十六年会(昭和46年生まれと昭和47年生まれの有志の会)というコミュニティもつくっている。今後はこちらの仲間たちを通じて、仕事のことも少しずつでもアピールしていきたいと思っています。
「ガムシャラ」を突き詰めていきたい
―― せっかくですので、今回も是非、ご自身のお仕事をアピールしてください
こういう小さな会社ですから、大企業のような立派な経営理念などはありません。私が大事にしているのは「その日その日の仕事を一生懸命やる。そしてそれを継続していく」ということだけ。私もときに経営コンサルタントの方の講習などを伺う機会はありますが、やはりそのお話の内容はウチの規模の会社では当てはまらないことも多いんです。そうなると、やはり自分自身で正しい判断をすること、がどうしても必要になってくる。そして、私自身が正しい判断を下すためには、いろいろなことにガムシャラに取り組むことが大切だと考えているんです。社長さんのなかには「ガムシャラ」を嫌う方も少なくはないですが、私自身はそれを突き詰めていきたいと思っています。その理由としては、やはり私には剣道があるから。剣道でも、私はとにかくひたむきに稽古に取り組んだ者は絶対に報われると信じているんです。
私自身は剣道は弱くて、段位も先日やっと六段に受かったような人間ですが、それでもガムシャラにやってきたことで多くの気づきを得ました。しかも自分で気づいたことというのは、誰かに言われたことよりもかなり受け入れやすくもある。ガムシャラに取り組んで気づきを得て、またその課題に取り組む。そんな流れを継続していくことこそが、仕事と剣道における私のポリシーでもあります。
―― お仕事に関しても、剣道がかなり影響を与えているようですね
剣道の影響は間違いなく大きいです。私はいま道場で少年指導に携わっていますが、競技が強い弱いはやはり関係なくて、一生懸命やることがなによりも大事ですし、そうすることで多くの子どもたちが道場の門を叩いてくれるのを実感しています。剣道の古い教えのすべてがいまの子どもたちに通用するとは思わないけれど、剣道の目的が人間形成にあるのは間違いのないことです。「人としてどうなのか」とつねに己を顧みることを求められる剣道の精神は、確実に仕事の分野でも活きてくるものだと感じています。



少年指導の目的は「人づくり」。
教え子たちには挑戦し続ける姿を見せていきたい
―― 川内さんの剣歴もお伺いしたいです。もともとのご出身となると?
この福岡市博多区で、もう53年間ずっと暮らしています。剣道を始めたのは小学3年生から。私は福岡市立那珂南小学校という学校に通っていたのですが、そこで親がなにか習わせたいと考えた。当時の選択肢としては剣道か体操のスポーツ少年団しかなかったのですが、ウチの町内にたまたま道場の館長先生が住まわれていたご縁もあって入会することになりました。
―― それが川内さんが現在主席師範を務められる那珂南剣道南風会なんですね
そうなんです。私自身は正直剣道なんてよく分からないまま入ったので、とにかく当時の稽古は厳しかったですね。いまのご時世ではあり得ないことですが、あの頃は先生からよく叩かれていましたよ。私自身はとくに剣道も強くなくて、小学生の間は道場の代表で試合に出た経験もありません。中学2年生の冬あたりからやっと大会に出るようになっていろいろな大会で優勝を経験することもできましたが、それは私の活躍ではなく、ほかのチームメイト4人が強かったから。私自身は負けか引き分けばかりでした。

そのあと中学校は地元の三筑中学校に進んで、ここでも剣道部に入部しますが、当時の顧問の先生は経験者ではない方で、学校の部活動を終えたら道場に走って向かって、また道場の稽古に参加するという日々を送りました。高校は筑紫野市にある九州産業大学付属九州産業高校に進学しました。剣道界では当時、福岡市東区にある九州産業大学付属九州高校が強豪校として有名でしたが、そことはまた別な学校です。とはいえ、剣道部自体は強化をしていて、私も道場のメンバーの活躍のおかげもあって剣道推薦で入学させてもらえた。家業のことを考えれば電気関係の知識が学べる学科を選ぶべきだったのでしょうが、推薦ということもあってここでは普通科に通うことになりました。
―― 当時の九産大九産はどのような剣道部だったんですか?
やはり活動は盛んだったと思います。私の同学年は20人もの部員が入部しましたし、入部当時の先輩方は3年生が9人、2年生が5人おられましたが、とくに3年生の先輩方が強くて、かつて福岡如水館で日本一を経験しているような先輩もおられました。しかし、やはり福岡は強豪校も多いですから、強い選手が一人二人いる程度ではなかなか試合では勝ち上がれないのが現状でしたね。
―― 稽古自体はいかがでしたか?
練習自体は厳しかったです。いっしょに入部した20人の同期も最終的には15人になりましたが、むしろこれはよくそれだけの人数が残ったなと思えるくらい、練習はキツかったですね。私の恩師は河津孝典先生とおっしゃって、もちろん現在はもう退官されていますが、当時はまだ20代。若くて熱心な先生だったので、それはもう鍛えられました。
―― その後に進学するのは九州産業大学ですね
これは高校が付属校だったこともあって、そのままエスカレーター式で進学をすることになりました。あの当時、もちろん剣道部には入部する予定で、大学では剣道に打ち込みたいがために、授業で多忙になりがちな電気の学科を避けて、あえて土木関係の学科を選んだほどでした。入学前、意気揚々と大学の稽古に参加したところアキレス腱を断裂してしまい、剣道の中断を余儀なくされ、そこからしばらくは剣道から離れることになります。

―― そうして実家で働き始めるようになるわけですね
仕事を始めてみると、まあ忙しすぎましたね。当時はウチの会社はコンクリートの打ち込みの仕事もやっていたのですが、やはり私もなにも知識がありませんから、最初はずっと兄弟子についていくわけです。朝の6時に仕事場に向かって、帰ってくるのは深夜の2時くらい。あのころの建築業界はどこもそうだったのですが、帰りが毎日午前様だったので、とても剣道どころではありませんでした。
剣道を再開するのは長男の誕生がきっかけです。結婚して、私が26歳のときに長男が生まれると、もうはじめから剣道をやらせたいという思いがありました。だから長男、名前は光大郎といいますが、彼が2、3歳になるころから小さな脚立に古くなった面をかぶせて、短い竹刀をつくってそれでポコポコと叩かせていたんです。
―― ご自身は離れていても、剣道にはいいイメージがおありだったんですね
学生時代までは厳しさばかりを感じることが多かった剣道ですが、社会人になってみると剣道をやっている人は周囲に非常にいい印象を与えることに気づきました。それは挨拶のときにしっかりと頭を下げることだったり、家や店に上がるときにちゃんと靴を揃えることだったり、食事の席でも周りの人の食べ物や飲み物に気を遣えることだったりと、剣道の世界では当たり前のことだけれど、一般社会ではそれができない人のほうが多い。剣道は「人をつくるもの」だなと改めて思いましたし、自分が経営者となって人材の採用などを意識するようになると、まさにその「人として」という部分が重要視される。だから、息子にも是非やらせたいと思いました。
そこで長男が8歳になったときに自分の出身道場である那珂南剣道南風会に通わせるようになり、32歳だった私も再開。その2年後には次男の竜吾も剣道を始めて、親子3人で剣道に取り組むようになりました。2人の子どもは現在長男が26歳、次男が24歳ですが、2人ともずっと剣道は続けてくれて、どちらも中学校の教員になり、それぞれの学校では剣道部の顧問を務めていて、またそれぞれの区で剣道専門委員も務めています。
―― とてもステキなお話ですが、お子さんたちは川内電気商会の事業については関わらない道を歩んだのですね
それはもう彼らにはすばらしい出会いがありましたから。2人ともに中学校は私と同じ三筑中に進学しましたが、長男も次男もそれぞれ、中体連の最後の大会が終わったそのタイミングで「中学校の教員になりたい」と言い出したんです。2人に影響を与えたのは三筑中で指導を受けた竹井雄士先生。実は私も彼に声をかけて、現在は道場の指導部長をお願いしているのですが、息子たちが三筑中在学当時、竹井先生は講師として学校におられて、2人をいい道へと導いてくれました。兄弟はともに高校は竹井先生の出身校である福工大附属城東高校に進学し、またその後に進んだ芦屋大学でも、竹井先生が学生時代にコーチとして指導を受けた伊藤武徳准教授に師事して剣道指導論を学び、人間性を磨いていただいた結果、教員になることができました。そもそも私自身も会社の将来を見据えるというよりは、いま現在どのように社会に貢献できるかを考えていることもありますし、会社については別に身内でなくともやりたいという人がいれば継承はできますから。
長男も次男も本気で生徒の指導にあたっているのが私にも伝わってきます。私自身も審判員として中体連の試合に出向くわけですが、長男は教え子たちに何度か県大会に連れて行ってもらっていますし、次男のほうは個人戦で県大会出場が狙える選手がいたけれど、当日調子が悪くてそれを逃してしまった。会場で次男が教え子とともに悔し泣きしている姿を見るとやはり私も感動しますし、いまの彼らのことを指導者としても仕事をしている人間としても尊敬しています。

―― ご自身のお子さんに対してもそれだけ尊敬の念を抱ける関係性がすばらしいですね。それでは最後に、普段はお仕事と剣道の今後の展望などをお伺いしているのですが、川内さんの場合はお仕事については今後も、ご自身のポリシーどおり、ということでしょうね
そうですね。その日その日の目の前にあることを一生懸命やる、と。そのスタンスを崩さずに、まっすぐやっていければと思います。
剣道については、道場は日本一を目標にしつつ、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という精神を掲げて、それが実践できるような団体づくり、人づくりに努めていきたいですね。自分自身の目標としては、一度でもいいから八段審査に挑戦をしてみたいですね。最高段位の審査会がどういうものか、その世界を体験してみたいですね。そのためにはまずは七段審査という非常に高い壁をクリアしなければならないのですが、何歳になっても挑戦を続けていきたいと思います。
それと、これは目標というか夢なのですが、息子たちの兄弟対決が見てみたいです。長男と次男と、それぞれ指導者としての教え子同士の対戦が見てみたい。お互い、家で顔を合わせると指導論をぶつけ合うこともあるので、親としてはその対決がとても興味深いです(笑)。
―― 剣道の楽しみがまた新たに増えましたね。ご自身は剣道を再開されてから、昇段審査にはずっと挑戦を続けていらしたんですか?
道場で少年指導に携わる以上、自分自身もなにかにチャレンジする姿を子どもたちに見せたいと思いました。再開したときは私は二段だったのですが、落ち続けても何度でも挑み続ける気持ちで受けさせていただいた結果、本当に運よく昨年8月の六段審査までは一度の受審で合格させていただくことができました。さすがに試合にはなかなか出る機会はありませんが、審査や審判員などはまだできる。子どもたちに頑張っている姿を見せたり、剣道界に貢献できることがあるならば、それは積極的にやっていきたいですね。
貢献という話で言えば、実は所属の博多区において我々の道場主催で錬成会をやっているんです。「雑餉隈翔き錬成会」という名称で、私たちの道場だけではなく地域全体のレベルの底上げのため、そして子どもたちの剣友の輪を広げるためにという意図で開催しています。参加チーム数こそまだ少数ながらも、日頃お世話になっている博多区、福岡になにか貢献できないかと考えた末のイベントで、今後もこれは定期的に開催していきたいと思っています。
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