〝人間形成〟の一環として、真摯に向き合う(中嶋寿晴/グランブリス・コンサルティング株式会社 代表取締役 グランブリス社会保険労務士・行政書士事務所 代表、中嶋佳代子/グランブリス・コンサルティング株式会社 取締役)

グランブリス・コンサルティング株式会社は2023年に設立された、まだ新しい企業です。
同社の代表取締役を務めるのは、中小企業診断士・社会保険労務士・行政書士の資格を持つ中嶋寿晴さん。
中嶋さんご一家は剣道一家でもあり、妻・佳代子さんも同じく剣道七段で、2人の息子さんは少年時代から大会で華々しい活躍をおさめ、現在はともに実業団剣士として活動しています。
大手企業に勤務していたサラリーマンとしての過去、資格取得への挑戦、独立の経緯、そして剣道への熱い想いを、中嶋さんにうかがいました。

プロフイール

中嶋寿晴(なかしま・としはる)
1968年山口県生まれ。三重県立四日市高校から早稲田大学に進学。
大学卒業後、松下電器産業株式会社(現パナソニック株式会社)に勤務。2021年に退職。2022年に中小企業診断士・社会保険労務士・行政書士として独立開業、翌2023年にグランブリス・コンサルティング株式会社を設立。剣道は小学校3年からはじめ、中学校では野球部に所属した後、高校で剣道を再開。現在、剣道教士七段。東松舘道場(後援会会長)。
 
中嶋佳代子(なかしま・かよこ)
1970年東京都生まれ。共立女子高校(東京)から共立女子大学に進学。大学卒業後、株式会社資生堂に勤務。結婚・出産を経て退職。2023年、グランブリス・コンサルティング株式会社取締役。現在、剣道教士七段。東松舘道場所属。
 
グランブリス・コンサルティング株式会社:https://grandbliss.jp/

「傾聴」と「共感」を大切に。
相談者に寄り添い、課題解決に取り組む


──中嶋寿晴さんが代表取締役、奥さまの佳代子さんが取締役をお務めになっているグランブリス・コンサルティング株式会社。ご夫婦そろって剣道教士七段、さらに2人の息子さんも実業団剣士として活躍する剣道一家という興味深い環境も含めて、今日はお話をうかがえればと思います。まずは現在経営されるグランブリス・コンサルティング株式会社の事業についてお聞かせください。

中嶋 私は大学卒業後に松下電器産業株式会社(現パナソニック株式会社 以下パナソニック)に就職してそこから長く勤務してきましたが、2021年に同社を退職。2019年に合格した社会保険労務士、1997年に合格した行政書士と中小企業診断士の資格を活かして2022年に独立開業、2023年にグランブリス・コンサルティング株式会社を設立したんです。
 主な事業内容としては、中小企業の経営・労務・法務を通じた事業の成長支援です。社労士(社会保険労務士)のベーシックな業務である社会保険・労働保険手続き、労務相談、就業規則作成などはもちろんのこと、資格をベースとする知識や知見だけでなく、豊富な事業推進やマネジメントの経験、困難を乗り越えてきた経験による、経営者に寄り添った事業成長サポートができることが自分の強みの部分です。わかりやすくいうと、「経営や補助金・許認可についても相談できる社労士」、「人材育成、人事制度に強い中小企業診断士」として中小企業支援に向き合っていきたいと考えています。

──前職のパナソニックでの勤務もかなり長かったのですね。すばらしい企業での勤務経験と、なぜそこから独立することになったのか。経緯などを教えていただければ。

中嶋 1992年から2021年まで勤務していたパナソニックでは、最初の勤務地は愛知県名古屋市だったんです。ガス業界向けの製品・デバイスを取扱う事業部に所属して、法人営業部門の営業担当を務めました。妻は東京都の出身で、彼女とは就職3年目で結婚。それから名古屋で勤務した間には長男、次男にも恵まれて家族4人で生活していました。東京への異動となったのが2006年のことで、当時はまず私が単身赴任で上京したんです。家族全員名古屋での暮らしに慣れていたこともありますし、ちょうど長男が中学校の進学を控えていたこともあって、彼が中学に入学するまでの2年間は私一人で東京で暮らそうと。異動に伴い、仕事では家庭用燃料電池エネファームの事業立上げに参画し、営業リーダー・責任者として、経済産業省や主要都市ガス会社・住宅会社との協働で家庭用燃料電池の普及促進に従事することになりました。
 その後、家族を東京に呼び寄せたタイミングで、滋賀県の本部部門への転勤を命じられましたが、そこは相談の結果、イレギュラーな勤務形態ではありますが東京と滋賀との兼務としてもらって普段の生活拠点は東京に置くことができました。2015年からは本格的に滋賀勤務となり当時は京都で単身赴任。そして再び東京に戻ってきて2021年に退職しました。
 資格の話で言うと、中小企業診断士と行政書士は私が28歳くらいのときに合格して、社労士は独立も視野に入ってきた2019年に合格しています。
 なぜ資格を取るようになったかと言えば、自分自身の経営観を養いたかったから。ようは大学であまり勉強をしなかったものですから(笑)たとえば会社で「松下電器ではこうやるんだ」と指導を受けても、そもそも原理原則はどうなのかという疑問があったのです。経営のことを体系的に学んでみたいと思ったことが、中小企業診断士の資格に挑戦するきっかけなりました。

──パナソニックでのキャリアは順風満帆に思えますが、なぜ退職されたんでしょうか?

中嶋 20代で行政書士・中小企業診断士の資格を取ったときにはすでに独立への思いはあったものの、当時は60歳以降の話だと思っていました。しかし時代の流れもあって、会社としても社員のセカンドキャリアを応援する制度もできましたし、2人の子どもたちも大学を卒業して社会人になっていた。タイミングとしてちょうど良かったんです。
 自分のライフプランを考えてみると、いまは人生100年時代と言われていますが、実際のところは男性の平均寿命は81歳くらい。さらに元気に活動できる健康寿命となると70歳代で、そこには個人差もあります。仮に私が65歳までは元気でいられると考えると、もし60歳で独立したとしてもがんばれるのはせいぜい数年になってしまいます。資格は家族との時間を少なからず犠牲にして取得したものですから、それを活かして働くならばせめて10年間はしっかりと取り組みたい。当時私は53歳でしたから「このタイミングがチャレンジのチャンス」と判断しました。
 日本国内の企業は約340万社あると言われていて、そのうち大企業は1万社強で、構成比としては0.3%ほど。つまり99.7%は中小企業で占められているわけです。日本にとって非常に重要な中小企業の成長を自分自身の知識、知見を活かして支援したい。そんな思いが独立の大きなきっかけとなっています。

──独立に伴い、当然のことながら日常生活にも変化はあるはずですが、そこにはどのような魅力を感じたんでしょうか?

中嶋 一番は時間のリソースの割き方。時間を自分が重要だと思うところにかけられることです。その時々の業務の重要性や優先度を整理し、最適な時間ポートフォリオやスケジュールを考えています。仕事も稽古も自分の裁量でマネジメントできる。それが可能なのが現在の環境の良さですね。

──なるほど。一方、独立にはまた大きな責任や課題も付き物かと思います。どのような
「大変さ」があるでしょうか?

中嶋 テーマに関わらず、中小企業の支援をするということはいろいろなタイプの経営者の方に寄り添って、その方が「どういうことを実現したいのか」をおうかがいしなければなりません。しかし、単純な言葉の表現のみで解釈してしまうと本来思われていることとは少し違ってしまう場合もある。「何を言っているのか」よりも「何を伝えたいのか」という本質に迫ることが重要です。
 私自身はどちらかというと論理的思考が得意なのですが、日常の妻との会話でもついつい課題解決をしようとしてしまって、妻から「そんな答えは求めていない。ただ話を聞いてくれればいい」と言われることがあるんです(笑)。経営者の方に対しても同じで、こちらから一方的に「その課題にはこう取り組むべきです」と提案しても、やはり腹に落ちなければ実現はされない。ですからお一人お一人のお話をまずはしっかりとうかがう。そして心の中でモヤモヤしていることを整理するお手伝いができればと思っています。
「相談」にあたっては「傾聴」と「共感」が重要だといわれていますが、私自身、違う捉え方をしていたところがありました。たとえば経営者の方からご相談を受けるとつい「私もそういう経験がありましたよ」なんて言ってしまいがちですが、それは一見「共感」のようでいて、実はただ自分の経験上同じようなことがあって同じように感じたという「同感」なのです。本当の「共感」というのはその人の立場になってみて相手と一緒の気持ちになって「それは困りましたね」と心底から感じること。そうすることで初めて経営者さんとの信頼関係が構築できるんです。仕事を通じての自分自身の「人間形成」の一環として、「傾聴」と「共感」を大切にしながらご依頼者様のお話をしっかりとうかがいたいと思っています。

──剣道と仕事の両方で「人間形成」を図る。すばらしい取り組みだと思います。ちなみに社名になっているグランブリスという言葉は?

中嶋 このブランド名は妻が考えた造語で、意味としては「最高の幸せ」といったもの。妻の実家もいくつか事業をやっていて、そのうちの不動産業でマンションの名前を考えなければならないことがあって。そこで妻から出たのがグランブリスという言葉。「意外といいのが出たな」と思って、それで使わせてもらっているんです(笑)。

大学卒業後すぐに松下電器産業(現パナソニック)に就職した中嶋さん。同社に長く勤務してきたが自身が取得した資格を活かして独立した。行政書士からはじまった資格への挑戦は、1997年に行政書士と中小企業診断士に合格。2019年には社会保険労務士の資格を取得した
写真左から、中小企業診断士、社会保険労務士、行政書士のバッジ

父親の影響で剣道をはじめるも、
中学生時代は野球部のエースに

剣道経験者の父親の影響で剣道をはじめ、小学3年生から地元富海のスポーツ少年団に入団した。少年時代は和気藹々とした雰囲気のなか、楽しく剣道に取り組んだという

──ご自身の歩んできた道、剣道のお話などもうかがえればと思います。もともとのご出身となると?

中嶋 山口県防府市の、富海という海水浴場のある場所の出身です。地元のスポーツ少年団に入団して剣道を正式にはじめたのは小学3年生のときですが、父が剣道をやっていたこともあってそれ以前から自宅の庭で素振りをやったりしていました。
 その後、父の仕事の都合で1年半ほど千葉県市川市で過ごすことになり、そこでは葛南地区の剣友会で稽古を続けました。
 小学6年生になると親の転勤で再度山口県防府市に戻って、もともと通っていたスポ少に通うことになります。
 中学校はそのまま地元の学校に進学しますが、ここでは野球部に所属しました。1学年に2クラスしかない小さな学校だったこともあって、部活動は野球部、サッカー部、卓球部の3つしかなく、そこで未経験ながら思い切って野球部に入部したんです。地域はソフトボールが盛んだったこともあり、部員のうち野球初心者は私を含め2人だけで、3年間試合には出られないことを覚悟しての入部でした。
 しかし大きな転機が訪れたのが2年生のとき。守備の技術もないものですから守れるポジションもなく、そこで先生から「ピッチャーをやってみるか?」と。チームにはスピードボールを投げられるいいピッチャーが2人いたので、「アンダースローをやってみろ」と提案されたんです。私自身は先生から指示をされれば、わりと黙々と練習するタイプだったので、来る日も来る日も走り込みと投げ込みを続けました。すると、球速はそこそこでもコントロールだけは次第によくなっていきました。そうして、何度か練習試合でも登板チャンスをいただくようになり、打たれても大きくは崩れない安定感を買われて最終的にはエースを任されるようになったんです。チームメイトたちの活躍や支えもあって、結果的には市の大会で30数年ぶりに優勝することができました。

中学校に剣道部はなかったために野球部所属。野球未経験ながらも努力を重ね、最終的にはエースピッチャーとして市の大会で優勝を飾るほどに(写真左、優勝旗を手にする中嶋さん)

──まるで野球マンガのような展開ですね。となると、その後野球を継続する流れにもなりそうですが。

中嶋 中学校の部活動を引退したタイミングで三重県に引っ越すことになって、高校は公立の四日市高校に進学しました。そもそも学業を優先した選択だったのですが、ここでは剣道部に入部しました。
 当時の四日市高校剣道部は、進学校という事情もあってなのか、不思議なことに3年生は新人戦を終えると引退する「習わし」になっていて、私が入部したときにはすでに3年生は引退している状況でした。
 顧問の先生はいるものの、先生は部活動にはまったく顔を出さないような状態で、基本的に部員が中心となって運営していました。そんななかでブランクはありながらも1年時からレギュラーになれたのは中学生時代に野球で体を鍛えることができたからでしょうね。
 2年生になるとキャプテンを任されましたが、頭を悩ませたのは指導者不在でどのように強くなればいいのかということ。そこで自分の地力を高めるために通うようになったのは四日市市にある和道館という道場でした。
 そこは父が通っていた道場で、父から勧めを受けて通うことにしたんです。指導に立たれるのは川口正人先生(教士八段)で、高校時代は週に2回ほどのペースで部活動を終えると道場へと向かって川口先生にご指導をいただきました。
 結局「習わし」どおりに、3年生のインターハイ予選を前に部活動引退したわけですが、最後の新人戦では団体戦で県大会ベスト8。出稽古での自分の成長が確認できたうれしい試合結果でした。
 
──大学は早稲田大学に進学されるんですね。

中嶋 私は1年浪人して大学に入学していますが、現役受験のときには東京大学を第一志望に据えて国立大学しか受験しなかったんです。
 2年目、今度は私立も含めて受験をして合格した大学のなかから選んだのが早稲田大学でした。
 剣道については受験勉強の間は剣道からは離れていましたが、大学ではぜひやってみたいと。そこでちょっと調べてみると体育会剣道部以外に同好会が存在することを知りました。体育会剣道部が当時50人ほどの部員数だったのに対して、同好会は100人もの部員が所属しているのを知って、高校時代は非常に少人数で稽古をしていた私からすれば「いろいろな人との新たな出会いを考えるならば人数の多い同好会がいいな」と。そこで同好会に入会することにしたんです。
 大学の体育の授業では剣道を選択して、そこでは当時体育会剣道部の師範だった安藤宏三先生(教士八段)からご指導をいただきました。安藤先生も四日市高校のOBというご縁もあって「いまからでも剣道部に入部してはどうか」とありがたいお誘いをいただきましたが、同好会でもすでにずいぶんお世話になったこともあって結果的には同好会で4年間をまっとうしました。
 同好会の稽古は週に3回ほどで、大学生らしく毎回稽古と飲み会がセット。お酒が苦手な人にはツラかったかもしれませんが、私はある程度飲むことができたので、先輩たちにはそちらでもずいぶん鍛えていただきましたね(笑)。

──奥様の佳代子さんとの出会いも学生当時だそうですね。

中嶋 同好会は毎回新宿剣道連盟の稽古に参加させていただいていたのですが、そこに当時共立女子大学剣道部に所属していた妻が出稽古に来ていたんです。

早稲田大学入学後は剣道同好会に所属。この時期に妻・佳代子さんとの出会いもあった

──現在はお住まいの東京都練馬区で、ご夫婦ともに名門・東松舘道場に所属されていますね。

中嶋 就職してすぐの1年目は会社の研修などで多忙だったこともあって剣道からは離れましたが、愛知に配属され、結婚をした就職3年目くらいから道場を探し出し、そこで見つけたのが蟹江剣友会という道場でした。その道場に夫婦で通いつつ、そのうち長男が生まれると彼がハイハイする頃には夫婦交代で面倒を見ながら稽古に取り組んでいましたね。
 その後次男が生まれると家に置いておくわけにもいきませんから、長男が小学校1年生、次男が幼稚園の年中になったタイミングで2人も剣道をはじめることになりました。
 蟹江剣友会で長くお世話になった後、東松舘に通うようになったのは私が東京に単身赴任をして2年後、家族をこちらに呼び寄せた時期からです。
 東松舘を選んだ理由は、すでに名門道場として名高い存在だったのはもちろんのこと、ちょうど中学校進学を控える長男が東松舘の佐々木陽一朗くんと同学年だということもありました。高校時代にはインターハイ個人戦を制して、その後は全日本選手権大会にも出場経験のある佐々木くん(現在順天堂大学勤務)は少年時代から全国レベルの大会で活躍しており剣道界では有名な存在でした。家族で東京で剣道をするにあたり、その強い佐々木くんと長男とをぜひチームメイトにできないものかという考えが私にはあったんです。
 私自身はかつてプレイヤーとして大会で活躍した経験はなく、高校時代も地方大会があることすら知らなかったほど。東海大会の存在を知ったのは、私の2歳下で剣道をやっている弟が、同じく四日市高校在学時に出場したことがきっかけ。そこで初めてそんな世界があることを知りました。ですから、もし自分の子どもに剣道をがんばりたいという意欲があるならば、親としてはそれを目指せるだけの環境づくりはしてあげたいという気持ちがあったんです。東松舘で佐々木くんや皆と日本一を目指して切磋琢磨することは、いわば「毎日が全国大会」ともいうべき夢のような環境だと考えました。

──そんな支援に応えるように、長男の俊樹さん、次男の優樹さんはそれぞれ東松舘の選手として活躍しましたね。現在も俊樹さんは三菱UFJ信託銀行、優樹さんは三菱商事に勤務して実業団剣士としてがんばっています。とくにご家族にとって大きなニュースだったのは次男・優樹さんが2021年に東京都代表として第68回全日本選手権大会に出場したことではないでしょうか?

中嶋 そうですね。息子は、社会人一年目で当時はコロナ禍での初挑戦。慣れない環境の中、チャレンジしてくれたことをまず嬉しく思っていましたが、激戦区の東京予選で準優勝し、代表権をつかめたことは、期待を超える結果でした。私自身も関係者も驚きましたし、それだけに喜びはひとしおでした。

──お子さんたちといっしょに中嶋さんご夫婦も東松舘に入門したわけですね。中嶋さんの現在の稽古のペースは?

中嶋 東松舘の一般部では、いまは週に2、3回くらいのペースで稽古をしています。道場以外にも定期的に開催される稽古会などに参加したり、ここ最近は稽古会や審査会などで大学の先輩方と会う機会も増えてきたので、また皆さんと竹刀を交えることができたらいいですね。

就職、異動によって生活環境は何度か変化したが、それでも夫婦2人剣道を続け、長男・俊樹さん、次男・優樹さんも剣道をはじめることに
愛知県勤務時期に家族で所属した蟹江剣友会。当時の指導者、仲間たちとの交流はいま現在でも続いているという
愛知から東京へ異動となると、少年剣道で輝かしい戦績を誇る名門・東松舘道場に家族全員で所属。2人のお子さんは同道場の選手として各種全国大会で活躍した
剣道一家中嶋家が大きく沸いたのが次男・優樹さんの全日本剣道選手権大会出場。激戦区東京都代表として本戦に臨んだ優樹さんは奮闘を見せベスト16へとコマを進めた

控える八段審査、孫との稽古を夢見て、
今後はよりいっそうの充実を

──それでは最後に、お仕事、そして剣道での今後の展望などをうかがえればと思います。

中嶋 まず仕事の面では「ビジネスのかかりつけ専門家」として、経営・労務・法務を通じて事業の成長を支援するサービスの価値を高めていきたいと思っています。補助金や許認可などのスポット業務から経営・労務顧問、社外取締役といったかたちで、企業の持続的な成長をサポートする伴走支援に力を入れていきたいですね。とくに、人事労務領域では、高齢者・女性など多様な人材が活躍するダイバーシティマネジメント分野でのサポート強化にも取り組んでいきたいと考えています。
 剣道については、今後もあらゆる世代の剣友たちとの交剣知愛を楽しんでいきたいですね。現在、私は段位は七段を取得させていただいているのですが、いよいよ3年後には八段審査を受審することができます。受けられる時期が来たからただ受ける、というのではなく、受審させていただくからには自分なりにしっかりと準備をして審査に臨みたいです。そして──実はつい最近、孫が誕生したんです。もしその孫が剣道をやってくれるようならば、いつか孫と稽古することを目標に、体力・気力をこれからよりいっそう充実させていきたいです。

──お孫さん、ぜひとも剣道をはじめてくれるといいですね。またご長男が東松舘に入門したときと同じかそれ以上に、熱烈な応援団となりそうです。

中嶋 そうですね(笑)。もうすでに道場OBの方々のどなたのお家に赤ちゃんが産まれたのか、ウチの孫と誰が同級生になるのかなどの情報をリサーチしはじめているんです(笑)。

3年後、最高段位である八段審査のチャンスが待っている中嶋さん。いままでの資格取得までの取り組みも参考としながら「準備万端で八段審査に臨みたい」と語る
中嶋家の2人のお子さんも社会人となり、そしてそれぞれが結婚。今年、中嶋さんは初孫にも恵まれることとなった

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