学習院大学在学中から「いつか飲食店を経営したい」と志を抱き、30歳で独立を果たした益川社長。夢を叶え、経営する餃子店やラーメン店のブランド力も育ってきた矢先、新型コロナウイルスが事業を襲いました。
しかし、コロナを逆手に取って「冷凍餃子の自動販売機」という全く新しい商品を開発し、大逆転を果たします。このドラマが生まれるまでに、いったいどんな道を歩んできたのでしょう。
学生時代の一風堂でのアルバイトや、カナダでのワーキングホリデー、会社を立ち上げ、そして「冷凍餃子の自動販売機」を開発するまでの道のりについて、余すところなくお話を伺いました。
プロフィール
益川 大平(ますかわ・たいへい)
1977年東京出身。学習院中等科・高等科を経て学習院大学経済学部に進学。卒業後、広告代理店にて新聞広告を担当。その後カナダに2年滞在。帰国後、株式会社SOBOを創業。代表取締役を務める。
▼ホームページ
株式会社SOBO
冷凍自動販売機 FROZEN24
一風堂でのアルバイト経験が、起業への大志を育んだ
──事業内容について教えてください。
飲食店の経営と、冷凍自動販売機による商品の販売、さらに自動販売機の設置・管理に関するコンサルティング業務を行なっています。
飲食事業は、都内に『赤坂ちびすけ』『餃子の金猫』『球場屋台大平ちゃん』『ロール寿司専門店 MOMOSUSHI』の4店舗を展開しつつ、楽天市場で餃子のインターネット販売も行なっています。
──どのような経緯で、飲食店を開業することになったのですか?
僕がまだ大学生の頃、一風堂が福岡から東京の恵比寿に進出してきました。その際、大学剣道部の先輩経由でアルバイト募集のお知らせがあったんです。同期の藤山が働くことになったので、みんなで部活後に足しげく通いました。あまりに頻度が多かったので、店長と仲良くなり、流れで僕もアルバイトをすることになったんです(笑)
当時の一風堂は、東京ではまだ無名でした。その一風堂がどんどん成長していくストーリーを間近でずっと見ていたんです。木曜日の夕方に稽古が終わって、そのまま夜のバイトに向かい翌日の朝練に参加するなど、バイトにも部活にも夢中の日々でした。
その頃から「いつか飲食で独立しよう」と、心に決めていました。株式会社SOBOの社名は、藤山と一緒に一風堂の厨房で決めたんです。明確な事業プランも何もなかったけれど…。
「いつか二人で、会社を立ち上げよう」と、そう約束しました。
──SOBOにはどんな想いが込められているのでしょうか?
由来は、僕がおばあちゃん子だったから。祖母は料理好きで、いつも真心のこもった料理を作ってくれました。祖母の料理のように、「温かい気持ち」を多くの方に届けたいのです。
──卒業後、すぐに飲食店を立ち上げたのでしょうか?
いえ、大学卒業後、僕は広告代理店、藤山は印刷会社にそれぞれ就職しました。
でも、起業への想いは変わらずあって、丸4年勤めた時に思い切って退職しました。その時は、「とりあえずニューヨークに行こう」と考えていました。日本の外に出て違う価値観に触れることで、何か見えてくるものがあるんじゃないかと考えたんです。しかし、テロの影響でビザがどうしてもおりませんでした。
たまたまワーキングホリデーを検討していた友人の影響もあり、エージェントに相談したところ「まずワーホリでカナダに入って、それからアメリカに移動すればいいのでは」とアドバイスをもらいました。
起業のアイデアを求め、防具を持ってカナダへ!
──カナダでのワーキングホリデーは飲食系ですか?
そうです。ワーホリは1年だったのですが、居心地が良くて結局カナダには2年滞在しました(笑)
この時期は、飲食の研究や英語学習の他に、剣道もたくさんしました。大学同期のつながりでカナダの道場を紹介していただき、入国時から防具を持って行ったんです。
──やる気満々ですね!
はい(笑)僕は当時五段だったんですけど、向こうだと重宝していただいて…。先生がいない時は拙い英語ですが、指導も担当させていただきました。カナダやシアトルの大会にも参加しましたし、カナダの代表チームの練習にも参加させてもらいました。行くところ行くところで剣道で繋がってて、本当に楽しい2年間でした。
──カナダの剣道で印象に残っていることはありますか?
礼儀や所作について、真剣に考えて実践しているところですかね。特に、試合前に15分くらい黙想している姿が新鮮でした。
映画『ラスト サムライ』を彷彿させる荘厳さがあるというか…。日本でも試合前に黙想することがありますが、彼らほど僕は真剣にやっていただろうかと顧みるきっかけにもなりました。
剣道の実力に関しては、日本と差があるかもしれないけど、剣道への向き合い方に関しては学ぶことが多かったです。
──仕事面では、カナダで過ごした日々はどうでしたか?
「日本に何を持って帰るか」を日々、考えていました。
当時、僕が滞在していたバンクーバーにはラーメン屋がなかったので、飲んだ後はベトナムのフォーやホットドックがシメ。当時日本にはフォーの専門店がなかったので、「日本に戻ったらフォーのお店をやろう」と考えていました。
もう一つ、北米のフードコートには寿司屋があって繁盛していました。だから、逆輸入みたいな形で日本のフードコートにカリフォルニアロールを持ってこようと考えていました。この2つが当時の僕のアイデアですね。
学習院剣道部の縁で餃子事業をスタート。一風堂の店長とも再会
──日本に戻ってきたのは何歳の時ですか?
28歳です。本当はもっとカナダにいたかったんですけど、当時83歳の祖父から「帰ってこい」と手紙をもらったんです。祖父から手紙をもらうなんて、初めてのことでした。
祖父は僕の叔父とともに病院経営をしていました。手紙の内容は、その経営を手伝って欲しい、というものだったんです。
日本に帰ってきてからは、病院業務のかたわらベトナムにフォーの研究にも行きました。でも、当時はいまみたいにインターネットも普及していないし、ゼロから飲食専門店を立ち上げるには情報も少なくて…。病院の仕事も忙しかったので、なかなか会社の立ち上げができなかったんです。
そんな時、30歳ほど年上の大学剣道部の杉本先輩から「一緒に餃子屋をやらないか」とお声がけいただきました。そのお店は『赤坂ちびすけ』といって、先輩が脱サラして始めたお店でした。僕は、そこに客としても通っていましたし、事業に興味もあったので色々お話を伺っていたんです。
先輩には息子さんが3人いるんですけど、ある日、息子さんたちがお店を継がないことがわかったんです。それと同時に、僕がなかなかフォーのお店を立ち上げられず苦しんでいることも知ってくださっていました。僕も餃子に興味を持ち始め、一風堂のように店舗展開していきたいと考えるようになった時期だったので「ぜひこの餃子を広めることを、一緒にやらせてください!」とお願いしました。それが、餃子の世界に入ったきっかけです。
──剣道部の先輩のおかげで道が拓けたんですね。
はい。当時『赤坂ちびすけ』には、池袋餃子スタジアムから出店のオファーが来ていました。僕の最初の仕事は、池袋餃子スタジアムでの店舗立ち上げです。
池袋餃子スタジアムは、集客力が物凄くて、たった3坪のお店で年間1億近い売上になりました。初年度から大きな実績ができたので、金融機関と事業計画の話をする際も好材料でした。
──ラーメン事業はいつからスタートしたのでしょう?
餃子の仕事を始めたのが30歳で、その時に藤山と合流して会社を立ち上げました。でも、当時は「ラーメン以外で一風堂のようになりたい」と考えていたんです。
池袋での成功を受け、『赤坂ちびすけ』は色々なところからお声がけいただけるブランドになりました。でも、もともとは「お酒を楽しみたいお客様に提供する餃子」で、そのスタイルに合わせてメニューを組み立てていました。
それがいきなり大きな施設に出店することになり、同じ商品で、全く違う場所で勝負することになったんです。今度は、フードコートに来るファミリー向けのメニューを作らないといけません。
最初は「和の餃子」を目指していたので、焼きおにぎりセットや餃子定食を出していました。でも全然売れなくて。ある日思い切ってチャーハンを出したら、これが大ヒット!むしろチャーハンでお客さんが来てくれるようになりました。そして、チャーハンに続く秘策としてラーメンを解禁しました(笑)
──お客さんの需要に応える形でラーメンに進出したのですね。
実はこの時、ラーメン開発のきっかけを作ってくれたのが一風堂なんです。
偶然訪れた展示会で一風堂の子会社がブースを出していました。一風堂のノウハウをもとに中小の飲食会社にコンサルを提供する会社で、たまたまその時の社長が学生時代にバイトしていた一風堂恵比寿店の店長だったんです。
社長は展示会にはいなかったのですが、後日、藤山と一緒に銀座の本社を訪ね、20年ぶりに再会しました。そして「餃子とチャーハンの組み合わせで行き詰まっている」と相談したところ、一緒にラーメンを開発していただくことになったんです!
その後、一緒にお店も作ることにもなり、豚骨ラーメン屋を開業しました。藤山は最近までずっとSOBOの副社長だったんですけど、2年前に退社して、その豚骨ラーメン屋の代表をやっています。そこには、弊社の自販機も置かせてもらってますよ。
東京ドーム内ライトスタンド側にある球場屋台大平ちゃん(とんこつラーメンと餃子のお店)も、一風堂との共同開発です。
逆風を追い風に。冷凍自販機で餃子を販売し大ヒット
──餃子の自販機事業は、どういった経緯でスタートなさったんですか?
コロナの影響で大きなイベントも中止になり、お店を出店している東京ドームもナンジャタウンも休業。なんと10万個の餃子が余ってしまったんです…。
──もの凄い数ですね…。その餃子は、どうなったんですか…?
剣道関係者の方がSNSで拡散してくださって、3日で10万個が完売しました!!
──凄いですね!!
それまで僕は積極的にSNSをやっていなかったのですが、その時はインターネットと剣縁に救われました。それが2020年3月・4月ごろで、そこからインターネット通販に力を入れるようになったんです。
しかし5月に緊急事態宣言が発動されて、Stay Homeが叫ばれるなか、いよいよ「飲食やばいぞ」という雰囲気になってきました。一番苦しい時期だったかもしれません。
でもそんななか、何の宣伝活動もしていないのに、唯一売上が向上しているものがあったんです。それが工場直売の餃子販売でした。直売の売上が月100万円を超えた時、「この餃子を自販機で売ろう」と決意したんです。
──「餃子の自動販売機」は、どこから着想したのですか?
何年も前に、横浜の中華屋さんがお店の前に自販機をおいて冷凍餃子を売っているのを見たことがあったんです。それを思い出して調べたところ、どうやら自販機を改良して作ったそうで。
だから自販機を改良できる会社を探して問い合わせをしました。でも、反応はありませんでした。そりゃそうですよね。いきなり「自販機で冷凍餃子を売りたい」なんて言われても訳がわかりません。
──問い合わせしても返事がなかったのに、どうやって開発に行き着いたのですか?
6月に群馬県の餃子工場を訪問したことがターニングポイントとなりました。餃子工場の2代目が僕と同い年で仲が良くて、お昼にトンカツを食べながら、彼に「餃子の自販機を開発して、都内に設置していきたい」と話したんです。
そしたら、なんと彼はバイトで自販機を作った経験がありました。
「群馬県は自販機の製造も設置も昔から盛んなんだ。コンビニみたいに自販機のスタンドが沢山あるよ。群馬で一番大きい自販機製造の会社は…サンデンかな」
それを聞いて、アポなしでサンデンさんを訪問してみることにしました。
──アポなし訪問でも大丈夫でしたか?
テレワークで誰もいませんでした(笑)でも、警備員さんがパンフレットを持ってきてくれて「自販機部門は分社化して秋葉原にあるから、秋葉原に問い合わせして欲しい」と教えてくださったんです。でも、僕は以前すでに秋葉原に問い合わせをしていました。
「わかりました。秋葉原にもう一度問い合わせをしてみます」と伝えたところ「念のため名刺を置いていってください」と言われました。そしたら、その名刺が巡り巡って、当時の部長さんの元に届いたんです。
僕は今までの経緯を説明し、自販機で自分の餃子を売りたいこと、売れる可能性があることを力説しました。サンデンさんもちょうどその時期、大きい冷凍食品を売るための開発について考えていたんです。
そこで「開発のために僕らの餃子を使っていいので、餃子の冷凍自販機を開発して欲しい」と交渉しました。
そこから一緒に開発をするようになったんです。一番の課題は「落下」でした。袋状だと、引っかかったり、途中で止まったり…何100回もの落下テストをしても、どうしても数回落ちてこないことがあるんです。辿りついたのが、商品をフードパックに入れる販売方法。
僕が探し当てた、サイズも強度も冷凍自販機にピッタリの透明パックです。本当は「海苔巻き3本用」に作られたニッチな容器なんですが。これを僕らは通称『SOBOパック』と呼んでいます。現在、1300台の冷凍自販機が全国に設置されましたが、ほとんどの冷凍自販機が『SOBOパック』を使っています。
ここに入るものだったら、餃子ではなくてもなんでもいいんです。冷凍自販機に関するお問い合わせがあったら、「このフードパックに入るならなんでもいいですよ」とお伝えしています。さらに容器メーカーとも試行錯誤し、今は冷凍でも割れない最強フードパックが完成し、世の中にリリースしました。
──凄いですね。コロナを逆手に取って全く新しいプロダクトを開発したんですね。
もともとは、うちの餃子を売りたくて手がけた仕事でしたが「それだけでは、つまらないな」と考えるようになりました。
例えば群馬の餃子工場には、点心系だけでも100種類以上のメニューがあります。「色々な餃子や焼売、春巻き、ラーメンを冷凍自販機で販売できるようになったら、ミニ中華街になる!」と閃いたんです。
僕は自社の餃子も大好きですが、他社の餃子も個性があって大好きです。そして飲食店側にも確かなニーズがありました。コロナの影響でお店を開けないし、餃子でも春巻きでも「売れるものは全部売りたい」状態だったんです。
そこで色々な会社に提案して、勝手に保健所も回りました。「これならいける」と断言できるところまで計画を描き、サンデンさんと一緒にシミュレーションを作り始めたんです。これが2020年7月くらいの話です。
もともと飲食店事業は厳しい状況でした。でも、コロナがきっかけで新規事業を手がけ、冷凍自販機で有名店の取引先のラーメンを集めたら大ヒットしました。企画すればするほど、自販機が売れてメディアからの取材も増えました。
──大逆転ですね。
本当に厳しい時期を経てここまで来ました。恥を忍んで「会社を買ってくれませんか」と決算書を持って知り合いの方々に相談に行ったこともあるんです。いまはその方々が応援団になってくださっています。
これまで10数年自分のお店だけやってきて、外との繋がりは業者さんやディベロッパーさんくらいだったんですけど、自販機事業を始めてから繋がりが多岐にわたるようになりました。
新しい分野で話題なので人も集まってきます。できるだけ多くの方に喜んでいただきたいので、相談やお話は全部受けているんですけど、手一杯になってしまって…。徐々に他の担当に割り振ったり仕事を任せていくことが今後の課題です。
そして、繋がりが増えることで色々な方からアドバイスをいただく機会も増えました。耳が痛いご指摘もあり、聞いている時は正直すごく居心地が悪いのですが…(笑)もともと他人から何か口出しされたり注意されるのが嫌で自分で決めたいタイプなんですが、今は皆さんのご意見を出来るだけ聞いて、そして自分の判断をするよう心がけています。話を聞くと「こういうやり方や考え方もあるのか」と勉強になります。今更ながら。
──剣道関係の先輩に相談したり、アドバイスをいただくことも多いのでしょうか?
行き詰まった時、僕はまず学習院剣道部の先輩に相談することが多いです。剣道部の人間関係にはずいぶん助けられました。コロナで辛い時に最初に相談に行ったのも先輩方のところです。
最近は仕事集中期と捉えとにかく会社業務中心の日々で、剣道の稽古量はだいぶ減ってしまいました。小1から始めて、カナダでも仕事が忙しい時も中断したことはなく、細々でも継続第一で続けてきたのですが…。
母校では高校剣道部のコーチをやらせていただいてるのですが、いまは若手のコーチに託しています。ただ、今年はしっかり稽古量を増やし、七段審査に心身ともに向けたいと思います。
飲食業界を明るく照らす夢。冷凍自販機をインフラに!
──今後の展望について教えてください。
冷凍自販機事業に関しては、ここまできたらインフラにしたいと考えています。飲料と同じくらい、もっと多くの場所に設置される未来を思い描いているんです。
餃子とラーメン以外にも、お好み焼き、パスタ、スイーツ…駅ナカや駐車場、商業施設、ビジネスホテルにも設置したいですね。そのためにも、自販機オーナーやその先の消費者に喜ばれる商品を開発し、自販機自体の販売にも取り組みたいです。
冷凍餃子の自販機から色々な食料品にアイデアが広がるので、取り組みがいがあります。飲食業界自体の助けにもなったら嬉しいし、ここからまた新たなビジネスが生まれる可能性を想うと、ワクワクします。
──コロナを逆手に取って新しい事業を始め、さらに他の飲食業の方々の助けになる事業展開をなさっていて、正に三方良しですね。本日はお話をお聞かせいただき、ありがとうございました!
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