こだわりとチャレンジ精神で挑む老舗経営。常連さんや同志・戦友との絆が支え(柴田伸太郎/株式会社岡半 代表取締役)

1964年の東京オリンピックで外国の方を迎えるために国の威信を賭けて建設されたホテルニューオータニ。その一隅に静かに、それでいて日本の食文化の代表たる佇まいを見せる、すきやきの老舗「岡半」。代表取締役の柴田伸太郎さんは、時代の移り変わりを強く意識しながらも、すきやきという食文化の継承、岡半という老舗がお客様の期待に応え続けるにはどうあるべきかということに並々ならぬ情熱を注いでおられます。狂牛病やコロナといった厳しい局面を、常連さんの支えと学習院剣道部の同期の絆で乗り越えられたと語る柴田さん。取材は原則NGという岡半・柴田さんの希少なインタビューです(笑)。

ホテルニューオータニ岡半の入口。額装されているのは北大路魯山人さんが店の障子に戯れに書いたものだそう。
柴田さんの後ろにある写真は作家の吉川英治さん。
創業者・岡副鉄雄さんが吉川英治さんから「岡副の道、いまだ半ばなり」と奮起を促す言葉を授かり、店名を「岡半」とした

プロフィール

柴田伸太郎(しばた しんたろう) 1976年10月2日 東京都千代田区生まれ。学習院初等科から学習院大学に進み、卒業後はJTBに就職。15年の勤務を経て家業である株式会社岡半へ。現在は株式会社岡半の経営の舵を取る傍ら、(一社)国際観光日本レストラン協会の理事も務め、日本の食文化の発展と飲食業界の地位向上にも尽力している。剣道は小学1年のときに地元の道場で始めて以降、初等科4年から大学まで学習院剣道部一筋。剣縁法人会員の株式会社SOBO・益川代表と同期。大学時代はレギュラーとして全日本学生剣道優勝大会に出場。最近お嬢さんが剣道を始めたことで本格的なリバ剣となり、五段取得に挑戦中。

当店は取材が原則NGなんです(笑)。新聞、雑誌、テレビ、いずれも一切お断りをしています。というのも、私どもの方針としてはやはり常連のお客様を大事にしている店なので、どうしてもテレビ等に出てしまうと瞬間的にバッとお客様がいらっしゃるわけですけど、そうすると常連さんが食べに来られなくなる。ただでさえ小さな店なものですから、そんなふうにさせていただきたいなと思ってるんです。

「店は主の魂。魂はひとつだから1店舗で頑張る」という岡半の歴史

店を構えているホテルニューオータニは1964年の東京オリンピックのためにに建ったホテル。この一等地にこれだけの広大な敷地。さすがに国を挙げての一大事業だけありますよね。

そのあたりの時代の流れでいうと、岡半という屋号は昭和28年(1953年)から。もともとは新橋の料亭・金田中というところがスタートなんですけれど、そこの初代が岡副鉄雄と申しまして、彼は当時の尋常小学校しか出ていなくて「包丁一本で身を立てる」ということで出身地の三重から大阪に出て修業をしまして、戦後東京に出て金田中をやる。彼の晩年は新橋演舞場の社長をしたりで、もう実業家のような感じでしたけど。

実は、戦争から帰ってきた私の祖父が岡副のカバン持ち兼運転手兼秘書みたいなことをしていたんです。柴田というのは岡副のお嫁さんの実家で、祖父は柴田の本筋の方で岡副の甥っ子にあたるという関係。そんな中で昭和28年に岡半が銀座で開業しまして、そこからすきやき屋を一生懸命やっておりました。そして昭和39年(1964年)にニューオータニさんからお声をかけていただいて、そのときに祖父がこちらの方の初代社長という形で来て、まぁ暖簾分けみたいな形ですね。そこから柴田の家でこちらの経営をやらせていただいている。なので、私はニューオータニの方の岡半としては三代目なんですが、岡副を岡半の初代と数えると四代目になります。

―― 株式会社岡半は、銀座の岡半本店とニューオータニの岡半の2店舗をやっておられる?

経営は別々で、いまは1店舗でやっています。ウチの祖父の考えで、祖父は「岡副の遺志を継いで」と言ってますけど、岡副自身が禅問答みたいな感じで「お店とは何ぞや」自問したときに、やっぱり「魂」だと。「店は主の魂。魂はひとつだから1店舗で頑張る」というところに行きついて、それが基本なんだそうです。2店舗目、3店舗目とやることが悪いわけではないんですけど、魂を分けることはできないので、そのときは信頼を置ける他の者がきちっとやると。それで店舗を増やすならいいけれどもって話だったものですから、祖父も1店舗、父も1店舗を守ってというふうになっています。

ただ、時代が時代ですので、すきやきだけで1店舗でやっていくには限りがあるものですから、いろいろな業態も含めてチャレンジしていきたいなとは思っていて、で、一生懸命やってお金を貯めるんですけど、コロナでどんどん吐き出して、やっとコロナが終わってその続きをやっているという段階ですね。

コロナのときには、本当に常連さんというのが有り難いなと思いました。一見さんはどうしても来なくなるんですけど、常連さんは来てくださる。常連さんに支えていただいてコロナを乗り越えることができた。本当に有り難い。

座敷の額装は創業者・岡副鉄雄さんの書

「食事」は「人に良い事」と書く。
人の口に入るものを提供させていただく仕事なので、気持ちが大切

新規で店を出すにしても、なかなか眼鏡にかなう物件がないんです。難しいですね。ショッピングモールなんかが盛んなので引き合いもありますけど、既に別のすきやき屋さんが先にお店を出されていたりすると、そこに後からは出せない。「食事」って「人に良い事」と書きますけど、人様の口に入るものを提供させていただく仕事なので、我々には気持ちがとても大切。単に競争して勝ってお金が入ればいいというものではないです。

―― そうすると、海外からの引き合いなんかがあっても難しそうですね

おっしゃる通りです。この店はニューオータニの中にあるので、一定割合で海外のお客様がいらっしゃって、海外からの出店依頼ももちろんあるんですね。いまはすべてお断りさせていただいているんですけど。というのも、心のこもったおもてなしというものが、その国のレベルでいえばできるかもしれないですけど、日本で我々がやっていることをそっくりそのままやれるかというと、それは無理なんですね。

いまは冷凍とかの技術もすごく進歩しています。物流も進歩しているので、日本から和牛を持っていくことはできるかもしれないんですけど、現地でいろいろと代替のものを調達するとなるとウチのクオリティが出せないので、海外に需要があるのはわかっているんですけども、難しいなぁというのが正直なところです。

「日本のおもてなしの心を体現している」と評される岡半の仲居さん

「接待」の始まりは切腹も辞さない覚悟で臨む場だった。
現代の接待もそういう意気込み。その場を提供する責任の重い仕事

こういう話になったのでウチの店の特性をお話ししますと、ご接待であるとかそういった場面の多い店なので、着物姿の仲居が最初から最後まで付いてお鍋のお世話をするというのが基本的なスタイルなんですね。

向笠千恵子さんというフードジャーナリスト・食文化研究家がいらっしゃるんですが、婦人画報という雑誌で『世界をもてなした鍋、「すき焼き」物語』という特集が組まれたときに彼女が、「外国人をすきやきで“おもてなし”するとなれば大切なものは何か?」と書いた後に、ウチのこのスタイルを、「とっておきのおもてなし」であり、仲居衆は「すき焼き劇場」のヒロインで、日本のおもてなしの心を体現していると書いてくださったことがあるんです。仲居がシェフ兼エンターテイナーだったり、そういったホスピタリティの接客をするという部分が特性としてあります。

―― お客様はハイエンドな方が多いと思いますが、その方々からの仲居さん評はどんな感じですか?

本当にマチマチなんですけど、ウチは仲居さんを指名できるものですから、やはり「このお姐さんじゃないと嫌だ」ということで、もちろん味の面もあるとは思うんですけど、そういった空気感というか雰囲気というか、そういったものを重要視する方も多いですね。特に経営者の方なんかは拘られますから。

それとまた、経営者ではなくて幹事の方ですよね。経営者や役員の方々が接待で会食をするのをセッティングする側の幹事。当店の場合は部長さん・課長さんが多いんですが、言い方は悪いんですが、その方が失敗しないようにお手伝いをさせていただいているような。接待となると、場合によっては緊張してあまりお食事の味がわからないというような場面もあると思いますので、そういった場面の接待が無事に終わるようにお手伝いさせていただくという、そんなことを私も含めて従業員一同、考えてやっております。

テレビか雑誌で見た知識なんですけど、日本の戦国時代、武力で領土を奪い合うような時代に、武将どうしがお互いに隣りの領土に行って武力ではなく交渉をする際にいわゆる接待の場というのが設けられて、双方が場合によっては切腹も辞さないというような覚悟をもって臨む場だったと。それが接待の始まりだみたいなことを豆知識で得まして。いまの接待でもそれに通ずるものがあるのかなと。会食ではありますけど、社運を賭けてとかそういった思いでお相手の会社様と場を持つっていう、そういう意気込みでされていらっしゃる。そんな場を私どもが提供するということは、責任がある思い仕事だなと感じたんです。従業員教育もそのようにはしているつもりなんですけど、まだまだ道半ばです。

小学生のお嬢さんをもつ柴田社長。「いまのところ“おとこ女将”としてちょっと代役を務めている」と笑う

旦那は外で顔を売るのが料亭の商売がうまくいくコツ

―― 老舗の店主さんの心意気を強く感じます

私はたまたま剣道をやっているのでそういうことがあるのかもしれないですね。実は、料亭というのは、旦那は外で遊んでいるのが商売がうまくいくコツなんです。お店で重要なのは女将さんで、旦那はカネ勘定と、逆にカネ勘定で余裕があるぶん外で遊んで、いろんなところでいわゆる広告塔として会社を宣伝する。「あぁ岡半の柴田が来てるな」と岡半を周知する。本当に、昔から名のある料亭というのは、旦那衆は昼行燈でお店にいなくて、女将さんがすべてを取り仕切ってまとめ上げるというのが、いわゆる名料亭の条件だというふうに聞いたことがあります。岡半に関しては、私の子どもがまだ小学生なものですから、若女将つまり私の妻はお昼だけで、夜はなかなか店に出られないので、私がいまのところ“おとこ女将”としてちょっと代役を務めております(笑)。

大女将つまり私の母は年齢的にもう店に立ちませんが、母は一人娘でして婿養子をもらったんです。母も女将をやっていたんですけども、性格的にあまりお客様の前に出たくないということで、結婚した父が後から“おとこ女将”になって。母が財布のヒモを握って父が“おとこ女将”という逆転現象ですね(笑)。そんな流れでやってきました。なので、いずれにせよ「現場が大事」ということですね。

学習院剣道部の同期がとても頼りになる存在。
剣道部同期と常連さんのおかげでピンチを乗り越えてこられた

―― ご両親のお話が出たので、柴田さんご自身のお話を少し伺いたいです

私は小学校1年生から剣道を始めたんですが、父は野球、母はスキーという体育会の家に生まれました。母は結構厳しい人だったので習い事をたくさんやらされた中でラグビースクールにも行かされてたんですけど、小学校受験で辞めなければならなくなった。でも何か運動をさせるということで、気が付いたら道場に連れていかれてました。でも、剣道が性に合っていたんでしょうね。やっていく中で大変なこと辛いことはもちろんありましたけど、剣道のおもしろさにだんだん惹かれていった次第で。

私はたまたま学習院という学校に入ったわけですが、学習院は初等科4年生から学校に剣道部があるんです。そこに入部させていただいたんですが、地元でやっていたこともあって最初からレギュラーのような扱いで、初等科全体の剣道大会とかも4年時から出させていただいてました。初心者の中に経験者が入るわけですから当然勝つんですけど、各学年に一人は強い人がいたので、4年と5年が準優勝、6年が優勝。まぁ勝つと嬉しいですよね、楽しいですよね。なのでそのまま中学でも剣道部に入る流れになるわけです。

ただ、初等科の剣道部の中でちょっと天狗になってたんですね。中学に進んで益川君(法人剣縁会員・株式会社SOBOの益川代表)が入ってきて、「世の中、上には上がいるんだな。強いやつがいるんだな」と思いましたね。そこにもう一人、榎本君という人がいまして、彼はご実家が華道の家元なんですが、中高大とずっと益川君がキャプテン、榎本君と私が副キャプテンという関係で、幼馴染でもあり且つ同志というか仲間。コロナのとき、もちろん先輩・後輩にも助けていただいたんですけど、やっぱり同期というのは頼りになる存在なんですよね。マーケットは多少違いますけれども3人とも経営者というか舵を取っている者たちだったので、コロナの間も定期的に、榎本君のところの広い華道の教室でソーシャルディスタンスを確保しながら出前を取って、情報交換をしたりこれからどうやっていこうかなんて話をしてました。そういう長く一緒にやってきた戦友みたいな仲間とお互いに励まし合い、アドバイスをし合いということができたので、それで乗り越えていけたかなと思います。

ピンチということでは、ウチでいうとやはり狂牛病。狂牛病で大きなピンチを乗り越えて、その後、リーマンショックのピンチを乗り越えて、またコロナでピンチを乗り越えて。そういった大きなピンチをなんとか乗り越えてきたわけですけど、乗り越えるときには必ず常連さんの存在がありました。狂牛病のときも、「狂牛病が騒がれてるけど、ここの肉は大丈夫だ、安心だって僕は思ってるから通うよ。だから頑張れ」と言ってくださった社長さんがあって、その社長さんはいまでも来ていただいていて、本当に足を向けられない。先ほども同じことを言いましたけれど、本当に常連さんというのは有り難い存在なんです。

すきやき。厳選された最高級霜降り肉を、熟達した焼き手が顧客の好みに合わせて焼いていただける
しゃぶしゃぶ。煮立てだし汁に薄く切った特撰黒毛和牛をくぐらせ、特製の胡麻だれとポン酢でとろけるような口あたりを楽しむ
オイル焼き。とろけるような極上のフィレ肉を新鮮な大根おろしやレモン汁で楽しむ贅沢な和風ステーキ(炒り焼き)

メニュー表をみて“ホテル価格”のひと言で済ませるのは簡単。実際は…

―― その牛肉についてですが、創業者が三重県のご出身ということならばメインは松阪牛ですよね?

初代の思いとして三重県の美味しいものを東京の人に食べてもらいたいと。で、三重県の美味しいものは海産物とかいっぱいありますけど、有名なのは何?といえばやはり松阪牛で、松阪牛を使ったものといえばすきやき。そういう発想ですね。祖父の時代は有名な和田金さんの牧場から肉を入れていたんですけど、やはり時代とともに一ヵ所だけでは追い付かなくなって、また松阪牛だけでなく他にも一生懸命頑張っている生産者さんがいらっしゃいますし、そういった美味しいものをということで、父の代からは田村牛、私の代ですと山口県のまつなが和牛やそのときどきの美味しい和牛を仕入れて、やらせていただいています。

―― お肉というか生産者さんを選ぶポイントはどういったところにあるのですか?

お肉について特にこだわっているのは、抗生物質を使っていない生産者さんから仕入れること。我々が口にするものですから。牛肉はなぜ高いかというと、豚とか鶏のように多産ではなくて基本的に年に1頭しか生まれないから貴重なわけです。特に黒毛和牛というのは、繁殖農家さんがたくさんのお金をかけて頑張って飼育して、それでできた子牛を飼育農家さんが買い取って育てるんですけど、そのときに大事になるのが育つ環境とエサなんですね。そのエサの部分に気を遣わなくてはいけない。田村さんとか松永さんはエサに大変気を遣っておられる。我々人間が食べても大丈夫なような、そういったエサを使って育てていらっしゃるので良いお肉ができる。そういうところなんですね。信頼を置ける生産者さんから、信頼を置ける仲卸業者さんを通してお肉を仕入れるというのが大事なところで、抗生物質を使っていないところから仕入れたい。これも主の思いですね。そういった流通ルートはやはり高くなりますし、正直、ウチのメニュー表を見て「ホテル価格」ってひと言で済ませるのは簡単なんですけど、実際にはそうではなくて、いまお話ししたようなこだわりがあります。

よく「命のバトンを繋ぐ」って言いますけど、年に1頭しか生まれない貴重なものをいただくということなんですね。なので、「いただきます」って挨拶をしますけれども、それって本当に命をいただくというのがメイン。加えて私が従業員とか子どもに言うのは、「作っていただいた人の命もいただいているんだよ。それを感謝しなさい」ということ。人の寿命って80年なら80年という時間の積み重ねじゃないですか。その時間の積み重ねの中でその人の時間を奪うというのはとてもよくないこと。なぜ「時間に遅れちゃいけない」とか「時間を守りなさい」と言うかというと、相手の命を奪うことなんだということを意識していかなきゃいけない。お料理というのはその最たるもので、家でお母さんに「いただきます」って言うわけですけれど、牛なら牛の命をいただくということに加えて、お母さんが作ってくれる時間つまりお母さんの命をいただいて我々は生きているわけなので、それを忘れちゃいけない。それが「いただきます」ということの意味だと思うので、それだけ生産者さんを大事にしているという意識はありますし、年に1回とか2回生産者さんのところになるべく行って、「ウチはこういう牛を入れてほしい」「こういう牛を育ててほしいと」いうことをお伝えして、実際がそれが入ってきて出せているという自負はあります。

牛と併せて他の食材もそうなんですが、お野菜って季節の旬とかがあって難しいんですけど、いらっしゃるお客様は「いつ来ても岡半は美味しいものを出してくれる」と期待されるので、お野菜も通年で、いつ来てもいつも同じものを出せる努力をしようということでやっています。

―― お野菜を通年で同じものを出しておられるんですか?!

“変わりザク”といって季節ごとに旬のものを出すすきやき屋さんも多いですが、ウチは基本的に通年変えずにやっています。そんな中でも最たるものは玉葱。ウチは淡路島から仕入れているんですけど、淡路島の玉葱は大半が関西で消費されちゃうんですね。ただ淡路島の玉葱は特別に美味しいんですよ。なぜ美味しいかを話すと長くなっちゃうので割愛させてもらいますけど、それを何とかウチで出せないかと。

この旬の時期(注:インタビューは5月上旬)は新玉葱が東京の方にも入ってきて、豊洲で買おうと思えば買えるんですけど、安定して買えるわけではない。なので、私が岡半に入ってすぐに単身で淡路島に行って、アポなしで一軒一軒農家さんに伺って、「こういう理由ですきやき屋をやっているので、淡路島の玉葱を通年で仕入させていただける契約ができませんか」と。そうすると1軒だけ「ウチでよければ」と言ってくれた農家さんがあった。

その農家さんには体育館みたいに大きな冷蔵庫があるんですよ。新玉葱が4月下旬からゴールデンウィーク明け、で、玉葱自体は6月いっぱいくらいまで収穫できるんですけど、その後は二毛作で、淡路島の場合は米を植えて地元で消費できるくらいの米を秋に収穫する。そしてまた秋に玉葱を植えるという流れなんです。で、獲った玉葱を岡半専用に1年分ストックしておいてもらって、それをちょっとずつちょっとずつ直送で送ってもらう。そんなこだわりをしています。シイタケも私の方で徳島に交渉に行きましたし、春菊もお豆腐も、こだわりを一応もって。こだわったものを使ってすきやきをやっているという次第なんです。

菊の間。広さは6畳で掘りごたつの仕様。2~6人での利用に適している
梅の間。8畳の広さで畳の上にテーブルと椅子の設え。定員は6人

飲食業でワークライフバランスに取り組む。
若い人が入社してくれるようにもなって良い傾向にある

―― 話は変わりますが、健康経営優良法人の認定証をお持ちいただいています

私は大学を卒業して15年間、JTBに勤めたんですね。そのJTB勤務の最後の方にワークライフバランス、働き方改革のパイロットグループをやらせていただいて、非常に興味を持ったんです。当時はいろんなことがありましたし、
旅行業界は日本経済の中であまり高いステータスではないのかな、なんて当時思っていたんです。サービス業全般がそう見られちゃってるなと。その中でさらに飲食業に移ってきて、もっと低いようなイメージを受けてしまったんですね。それがいまの人手不足とか給料面とか、そういうのにも通ずるのかなと。しっかり休みを取らないと、自分が楽しくないと仕事っておもしろくないし長続きしないので、そういうのをちゃんとした職場を目指したいなと思いました。

大学卒業後はJTBに15年間勤務。そこでのワークライフバランスの取り組みを飲食業でもトライ

実際に採用の面接で、「ウチはこうですよ」っていろいろ言ったとしても、「なぜ前の会社を辞められたんですか?」という話になったときに、「入ってみたら聞いていたことと違った」と言われることが多くて。飲食業では週休1日なんてことがザラにあったので、それはいかんということで、世の中の週休2日に合わせて、年休もちゃんと取得できるようにしなきゃいけない。ウチの場合は幸いなことに繁閑の差がハッキリしていて、秋冬は忙しいんですけど春夏は閑散期。そういった部分においては連休が取りやすいし、取ってほしい。地方から来ている人には帰郷もしてほしいですし、旅行に行くにも連休が必要ですしね。そういったことから2年半くらい前に健康経営の話を聞いて、今年取得することができたんです。こういうことをやると従業員にも少なからず意識してもらえるようになりますね。それに、これのおかげかどうか目には見えませんけど、最近は若い人も入社していただけて、いい傾向かなと思っています。

実はこれを紹介してくれたのも、アクサ生命にいる剣道部の同期なんです。もともとはこっちの話ではなくて、我々のような老舗経営の一番の問題である世代交代、事業継承のアドバイスをもらうということだったんですけれども、話しているうちに「こんなのがあるよ」ということで。私の根底にあった潜在ニーズなので、これはこれで発展したというわけです。

―― 事業継承というのは重たいテーマです

私はこういうふうに引き継いだんですけど、技術があったり伝統があったりして、ファンもいて黒字なのに閉店する老舗さんがたくさんあると伺っていて、非常にもったいないと思っています。

(一社)国際観光日本レストラン協会に青年部という50歳以下の集まりがあって、任期満了で去年退任するまで、その青年部長をやらせていただいてたんですね。抱えている課題と言うのはみんな一緒なので、そういった世代交代、事業継承をうまくできるようにいろいろ企画させてもらっていました。

私が父の後を継いでレストラン協会に入ったときには青年部はなかったんです。ただ事業継承という課題はレストラン協会にあったので、「じゃあ青年部を創ろう」と。私はいま本体の理事をさせてもらっていますけど、本体には雲の上の存在のような重鎮方がおられて、そうすると意見が言いにくかったりもするじゃないですか。なので青年部を創って、青年部の中だけでも議論を活発にしていこうということで。事業継承をするためには若いうちから取り込んでいこうと。一番難しいのは、息子がいるけど継がないケース。飲食は儲からないから継がないとか、安定したサラリーマンに慣れたから継がないとか。そういったことに対して、我々のような後を継いだ者が「こんないいところがあるよ」とか「こんな楽しいことがあるよ」というのを伝播するだけでも、継ぐ人がいないから閉めるみたいなことが少しでも減るのかなってことで青年部を創らせていただきました。

青年部としては年に2回の集まりを中心に、いろいろな企画とか情報提供をしていたんですが、これもコロナのときには有り難かった。よく言われることですけど、やっぱり経営者は孤独だと思うんですね。最終的には頼れるのは自分しかいないので。繰り返しになりますけど、そういった局面で同じ経営者の人と繋がっていられるというのは、やっぱり精神的にも安心感があります。

松の間。28畳の広さがあり8人から最大35人まで利用できる

岡半には接客マニュアルがない

―― 若い人が入社してくれるようになったと伺いましたが、採用は職種別ですか?

基本はまず仲居さんからです。イレギュラーな中途もありますけど、新卒は基本的に仲居さんをやっていただいて、やはりお客様の気持ちを汲み取れるようになってから、その上でやりたいことや希望があればという感じです。

―― 新人が仲居さんからスタートするとなると、お客様のご理解も重要になりますね

おっしゃる通りです。お客様が岡半を評価してくださるポイントを考えると、無論、味とか美味しさというのはあると思いますけど、私が感じるのは、お客様は十人十色、千差万別で、そのお客様に合わせた接客方法ができることなのかなということですね。

良い意味でウチにはマニュアルがないんですよ。お掃除でやることの項目とか、そういうのはあるんですよ(笑)。では何のマニュアルがないかというと、接客マニュアルがない。焼き方に関しても基本的なことは岡半流としてお姐さんたちに教えますけど、ある程度お姐さんたちの年次が重なるにつれてアレンジが加わってきます。ウチはお客様がある程度仲居さんを選ぶことができるので、それぞれのお客様に合った応対ができるというのが、ある意味で岡半流なのかな。追いつけ追い越せじゃないですけど、そういったお姐さんみたいになれるように、みんなが向上していただけるといいなと思いますよね。

なので、我々はお客様に育てていただくというふうにも思っています。無論、新入社員であってもベテランのお姐さんであっても、お客様がお支払いされる金額は変わらないし、ましてや高い金額なので、お客様の前に出たら1年目であってもプロとして一生懸命に務めなければならない。味にも差があってはお客様に申し訳ない。なので、若手の教育を一生懸命やらなければというのは我々も肝に銘じています。

―― 志の高い人でなければ務まりませんね

若い人は大変だと思います。ただ、年に1人とか2人しか採っていませんけれども、お陰様でいまのところ辞める子はいないです。飲食業界って、ステップアップするときに店を変えていくんですよ。ひとつの会社に長くいるということが極めてまれな業界なんです。なので、岡半がゴールという人もいれば、ウチからさらにステップアップしていきたいという人もいる。その観点からすると、お店としてのレベルを上げていくと、ステップの上の方にくる人たちを採用できるようになるわけですよね。ウチは新卒採用に振り切りましたけど、新卒でも同じだと思います。仕入とか食材、そのへんは幹部がしっかりやっていればある程度キープできますけど、人だけはなかなか、初めから担保できないものですから、人だけはやはりしっかり育てていかなければならない。そこを頑張っていかないとお客様の期待に応えられませんから。

我々は基本的にOJTですが、小さい店でもあるので、私の眼が行き届くようにしています。手前味噌になりますが、私がいままでに剣道で培ったことやJTBの15年で培ったこと、それらを基にして、無論私も自分のスキルを上げるために勉強はしていますけど、そういった自分の部分で従業員に教えられることを教えながらやっている。そういう状況ですね。アナログですよ(笑)。中小企業でオーナー会社の良いところは、私の向く方向にみんなが向いてくれると強い組織になるというところ。そうなるために、「僕はこういう考えなんだよ」「僕はこうしたいんだよ」ということを発信しますし、みんなにも発信してほしいですね。

ケガと挫折の剣道人生。
でも、それによって培ったものはものすごく大きく有り難い

―― 剣道で培ったものというお話が出ましたので、中学以降の剣道に話を向けたいと思います

我々は中高では目立った成績を上げられませんでした。手前味噌ですけど、高校時代は結構強かったんですよ。高3の公式戦は国士舘と高輪にしか負けてない。それでも目立った成績を残せなかったのが悔しくて、その悔しさがあったからみんな大学で続けたんだと思っていて、結果としてはよかったと思います。

自分は大学時代に全日本学生剣道優勝大会にも出られましたけど、実は中学、高校、大学と一度ずつ大きいケガをしてるんです。中学では複雑骨折、高校ではアキレス腱、大学の選手権前には靭帯。ケガをすると休まなきゃいけないので、その度にレギュラーを外れるじゃないですか。でも、その度ごとに頑張って復活してレギュラーに返り咲いたっていうのが、挫折を乗り越えるというすごく良い経験。大学時代も最後レギュラーとしてやらせていただいたというのは自分の中では自信で、且つ全日本ではベスト32なので大した成績ではないんでしょうけれども、それでも、そこまで行けたというのは続けてきたからこそだと思っています。

大学の選手権前に靭帯をやってしまったんですけど、ちょうど就職活動の時期に松葉杖(笑)。就職氷河期と言われた中で就職がうまくいったのは剣道のおかげだと思っています。剣道をやっていてよかったなと一番思ったのは就職活動のときだったかもしれない(笑)。当時、履歴書に書くことといったら、剣道四段で全日本に出ましたってことしか自慢できることがないわけですよね。面接官から「何をやってきましたか?」って言われても、「剣道を頑張ってきた」と。「あなたの自己PRは何ですか?」って言われたら、「継続は力なりです。6歳から剣道を頑張り続けています」と。「あなたの強みは何ですか?」みたいに言われても、「剣道で培った集中力があります」とか、何でも剣道に結びつけられたじゃないですか。6歳から大学までずっとやってきてある程度の実績があったら、自信をもって面接のときに言えるというか、筋が通っているという部分で採用してくれたのかな。そんな感じで、剣道人生でいうとケガと挫折。実際、大した戦績を残すことはできなかったけれども、それによって培ったものというのは大きくて、有り難いなと本当に思いますね。

フランスでのオープン大会に同期3名で出場。学習院大学チームとしても柴田さん個人としても3位入賞を果たした。
異国で剣道をするという経験はとても人生のプラスになったとのこと

娘が剣道を始めたことで、本格的なリバ剣へ

―― 大学卒業後の剣道はいかがですか?

つい最近のリバ剣でして(笑)。JTBに入った当時は剣道部がなくて、後に剣道をやりたいという後輩が入ってきて創部はしたんですけど、休みの日もみんな仕事になっちゃって集まれないし稽古もできなくて、試合にだけ出るみたいな感じ。社会人15年間は年に何回竹刀を握るかな、、、くらいのレベルでしたね。岡半に入ってからも、たまにかわいい後輩を見に行く程度だったんですけど、実は去年から娘が剣道を始めまして。それで、娘がやるからには私も娘と一緒にイチからのつもりでまた基本からやっています。段位も学生時代に取った四段のままなので、まず五段を目指しています。その先は、死ぬまでに七段に挑戦できたらいいな。やはり、やるからには目標がないとですね。

娘が剣道を始めたわけですけど、女の子で天邪鬼なので「剣道部に入れ」とか一切言わなかったんですよ。本当に。ただ、娘も母校に入ったので、4年生になるちょっと前くらいに私が剣道をやり始めて(笑)、それを見て剣道部に入ってくれました。で、私も本格的にやろうと。

たまたま先日、鍋山先生がお見えの稽古会に参加する機会を得たんです。そこで鍋山先生に掛からせていただいて、当然のごとくボコボコにされたわけですけど、ただ一本ですね、本当にたまたまの偶然だと思うんですけど、小手を取らせていただいたんですよ。そしたら鍋山先生が稽古後の懇親の場で、一緒にいた益川君に、「彼、昔は強かっただろ?あのときは俺の手が浮いとったんだなぁ。いいところを押さえられた。いまは稽古をしてないから飛距離は全然出ないけど、近間に強いから現役時代は結構強かっただろ?」なんて言われて。それだけでモチベーションが上がったっていう有り難いことがありました(笑)。

学習院の宣伝をちょっと(笑)。私はJTB時代に都内のいろいろな学校を見させていただいて、学習院は非常に良い教育をしているなって思っていて、そういったこともあって娘を学習院の初等科に入れちゃったんです。で、学習院剣道部の良いところだなと思っているのが、合宿とか寒稽古とかを初等科から大学までみんな一緒にやるんですよ。いまは就職活動の時期が変わったりしてちょっと違うんですけど、大学生が各科にコーチとして派遣されていて、自分の後輩たちの面倒をみるんですね。学習院って、一応試合のときには“学習院「中」剣道部”というふうになりますけど、学習院では剣道部のことを初等科から大学までをひっくるめて“学習院剣道部”という言い方をします。なので、自分のように初等科から学習院にお世話になっている者も、途中から学習院に入ってきた者も、みんな同じく学習院剣道部。そういう伝統は受け継がれてほしいと思いますね。本当に、学習院で同志というか戦友、仲間に恵まれたと思っていますから。

オール学習院の集いで行われる「野試合」。初等科から大学までが一堂に会して風船をつけて戦う。いまも続く伝統行事
寒稽古に皆勤するともらえる記念の盃。学習院の桜花の院章に剣の文字が入った学習院剣道部のマーク。
裏には開催年が記されていて、大きさが大中小の3種類ある。例えば中等科の3年間を皆勤すると大中小ワンセットが揃う仕組み

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