法律は常識の集合体だと考える。常識を自分が見失わずに仕事に臨めば、それは法に則った結果になる(後 亮/公園前法律事務所 弁護士)

和歌山市内で「公園前法律事務所」の所長を務める後(うしろ)亮さん。弁護士として活躍するなか、毎週日曜の仲間との稽古を楽しんでいます。実は高校2年生以来、29年の時を経て剣道を再開したリバ剣組。いまでは旅行にも防具を担いでいくほど、人生に欠かせない趣味となっているそうです。そんな後さんに、これまでの剣道人生やお仕事のことをお聞きしました。

プロフィール

後亮(うしろ りょう) 1972年4月13日 大阪府吹田市生まれ。大阪教育大学附属高校天王寺校舎から京都大学工学部へ進んだ後に法学部へ転部。平成17年の司法試験に合格し、令和3年から和歌山市に事務所を置く公園前法律事務所の所長弁護士。剣道は小学6年で始めて大学入学後に中断。47歳でリバ剣の道に入り、現在は和歌山市で有志の稽古会・洗心館で稽古に励む。剣道四段。

「後さんは声がいいよね」って言っていただける

―― 現在、稽古はどのようにされているんですか?

毎週日曜日に市立和歌山高校の 道場をOBの方が借りてくれて、15人前後で稽古をしています。道場の建物の名前をいただき「洗心館」という名前で活動していて、朝10時から正午まで稽古をしたあと稽古仲間で飲みに行くのが週に一度の楽しみです。

―― もともと剣道はいつから始めたんですか?

小学校6年生から始めました。 興味を持ったのは小学校4年生の時に読んだ漫画の「六三四の剣」ですね。六三四が高3の最後のインターハイで日本一になる場面や、六三四のお父さんが亡くなってしまうシーンに心動かされました。 僕らの世代には多いと思うけど、 あれで剣道を始めたいと思ったんです。ただ、 当時は京都に住んでいたんですが、学習塾にも通っていて近くに道場もなかったので始められなかった。6年生になって、今も実家がある大阪市内に引っ越したのを機に、塾をやめて、代わりにと始めることができました。

鶴心剣友会という道場で、今も僕が小学校の時に教わった澤田豊先生が代表で活動をされているようです。もともとはどこかの会社の仲間内で剣道をやったことある人たちが大阪拘置所の道場を借りてやっていたらしいんです。そうしたら大阪拘置所の当時の師範の西善延先生が、「私が師範になるから道場を開いたらどうだ」と言って始まったと聞いています。鶴心剣友会入門後の1年間は小さい技は何一つ教えてもらえず、とにかく大きい面打ち、大きい小手打ちのような基礎をみっちり叩き込まれました。今思えばありがたいですけど、 当然試合では勝てませんでした。

そのあとは中学高校と剣道を続けました。部活でもほぼ面しか打てず、応じ技もほとんどできなかった記憶があります。下手の横好きで、戦績らしい戦績は残してないんですが、当時から身長が高かったのでうまくハマると豪快な面がバチンと決まりました。中学時代、忘れられない思い出があります。神戸、大阪、京都の三都市対抗の試合の予選会があって、そこで清風中学に当時在籍してた今泉龍朗先生(現.教士八段)と試合したんです。構えた時の声にまず圧倒されて、すごい声を出されてたんですね。 完敗したんですけど、 そこから声を出すことはすごく頑張るようになりました。 今もいろんな方に稽古をつけていただくと 「後さんは声がいいよね」って言っていただけるんですけど、 その試合がきっかけです。 そこでやっぱり発声の重要性に気づいたんです。

僕の高校は部活をやっている子も一応勉強もしっかりやろうねという校風だったので、 高校2年生までやって引退しました。大学は東大か京大かどちらを目指すか少し悩みました。 東大の剣道部に高校の先輩が何人がいたので、東大に行ったら剣道部に入ろうかな、と思ったんですが、結果的には京大を目指すことにして工学部に入学しました。

京大の剣道部には先輩もいなかったので、せっかくなら別のスポーツをということで、体格も生かせると思い強豪のアメフト部「ギャングスターズ」に入部しました。 ただ腰を痛めてしまって2回生の途中で辞めることになりました。そこからは司法試験の勉強もあり、スポーツから離れてしまいました。

弁護士が詐欺呼ばわりされるわけにはいかない。
3年間の葛藤を経て、47歳でリバ剣の道へ

――  長い期間を経て剣道を再開することになったきっかけは何だったんですか?

8年前に知り合いにとある居酒屋に連れて行ってもらったんですが、 そこが剣道関係者の集まる居酒屋だったんですよ。 マスター自身も市立和歌山商業(現.市立和歌山高校)の剣道部を作った方で。あとお店で知り合う常連さんも剣道をやる方ばかりで、行くたびに「 やろうよ、やろうよ」と。 しきりに誘われたんですが、 防具も 義理の弟にあげてしまって「またそろえるのにお金もかかるしなぁ」という感じでしばらく踏ん切りがつかなかったんです。3年くらいやろうかやるまいかっていうのが続いてですね。 そうしたらとうとうそのマスターや常連さんたちもしびれを切らせたのか、冗談で「 やるやる詐欺やな、お前」って言うようになって。 これは一法律家として「ちょっとアカンな」と。弁護士が詐欺呼ばわりされるわけにはいかない(笑)。ということで 今から5年前、47歳のときに再開しました。

その時の誘い文句で魅力的だったのが 水滸杯剣道錬成大会でした。京都の武徳殿で、毎年6月に開かれる大会なんですが、「それに出られるぞ。武徳殿で試合できる機会なんてそんなないで。一緒に出ようや」っていうのが、一番刺さりまして。 実際もう3回ほど出ました。

パートナーとして仕事のことも家庭のことも支え合う夫婦の関係

―― お仕事の方では弁護士としてご活躍されていますが、目指したきっかけを教えてください

大学生になって、最初は公認会計士の勉強を始めたんです。ただ、どうせなら当時国家試験の中で一番難しいと言われていた司法試験にチャレンジしようと思い、工学部土木工学科から法学部に転部して勉強を始めました。でもしばらくはなんちゃって受験生でした。まともに勉強もせず受験回数だけが増えていくような感じで。ただ、さすがに真面目にやろうと本腰を据えて、それでも5回かかりましたが平成17年の司法試験で合格を果たしました。

受験時代の最後の方は、家賃以外の生活費を全て妻が面倒を見てくれていました。まだ籍を入れずに同棲生活をしていましたが、論文式試験の合格がわかったときは、口述試験があるにもかかわらず、妻の仕事中にかまわず電話をかけてプロポーズしました。実は合格した年の論文式試験の前日に高熱が出て、妻に座薬を入れてもらいました。一番の得意科目の時間には座薬が切れてしまって意識もうろうだったんですけど、なんとか合格できたのも妻の座薬のおかげです。合格前の私を養うために仕事をしてくれた妻には今も感謝しています。妻も税理士として事務所を開業しているんですよ。 事業譲渡の案件を一緒にやったり、夫婦というだけでなくパートナーとして 仕事のことも家庭のことも支え合うという関係です。

頭の上がらない妻ですが、なぜか僕が剣道をすることにはとても寛容で剣道の関係なら稽古も飲み会も「行っといで、行っといで」と言ってくれる。これも剣道を続けるうえで大きいです。

法律というのは常識の集合体だと思っている。
常識を自分が見失わずに仕事に臨めば、法に則った結果になる

合格してからは姫路の事務所に就職しましたけども、妻の地元でもあり司法修習の時にかわいがってもらったご縁で和歌山市の現在の事務所に従業員弁護士、いわゆるイソ弁として入りました。 入所してから5年、平成25年の1月からパートナーになって、 4年前の令和3年3月に僕を育ててくれた所長が急逝し、 所長を引き継ぐことになりました。 仕事は地方都市の弁護士がやる いわゆるマチ弁としての仕事が多いですね。そのような中で、離婚事件は関わることが多くて、弁護士になって初めて離婚事件を受けてから現在に至るまで離婚事件を抱えていない時期はないですね。自分の性格として、「人」が好きなので、企業からのお仕事も多いんですが、人と人との間の気持ちが関わるようなトラブルを解決に導いているときが「ああ、弁護士してるな」って実感できてやりがいがありますね。

―― 後さんが弁護士として大切にしていることはなんですか?

依頼者の 正当な利益を実現することです。 依頼者の利益を何でもかんでも守るのであればただの示談屋と一緒だと思うんです。私は襟にバッジをつけて仕事している以上、法に則った 正当な利益の実現に努めたい。法律というのは常識の集合体だと思っています。その常識をちゃんと自分自身が見失わずに仕事に臨めばそれは法に則った結果になると考えているので、それは常に意識していますね。依頼者の要望が正当な利益ではない場合は「そんな主張をせんほうがいいよ」となだめることもあります。そうすることで依頼人の方も気づいてくれます。

温厚な人柄の後さんだが、時折見せる鋭い目つきにバッジを付ける仕事のプライドが覗く

―― 信念をもってお仕事をしているのがよくわかりますね。でも、人の深刻なトラブルを解決するのはなかなかのハードワークだと思います。週に一度の剣道はいい息抜きになっているのではないですか?

そうですね。本当に良い趣味、良い仲間ができたなぁと思っています。剣道を始めてからは、よく憂さ晴らしでいっていたカラオケも必要なくなりました。中学高校の時と変わらないのは仲間に恵まれていることですね。だから剣道が楽しんやろうなと思います。稽古の後に稽古をした仲間とビールを飲むのが最高の時間です。今では剣道仲間と年に2回ほど、武者修行と称して防具を携えて旅行に出かけています。縁をたどって稽古できる場所を探してこれまで九州に2回、東京に1回行きました。

―― もっと早く始めればよかったくらいですね。

本当ですね。大学でアメフトをやめてから47歳まで体を動かすことは何もやっていなかったんです。再開した当初はウルトラマンよりタイマーが短いって言われていました。 すぐに息が上がっちゃって3分もたないんです。実はこれも本当に恥ずかしい話なんですが、 必死になりすぎて息をしてなかったんですよ。 ある時、それに気づいて居酒屋でマスターや仲間に言ったら大笑いされて。 試合でも「息しろ!息!」って応援の声を受けましたよ。 構えたら声出すだけ出すでしょう。それで終わっちゃうんですよね。息をはいてそのあと 吸ってないみたいな。頑張って打とうと気負っていたんでしょうね。週に一回の稽古ですが、いまだに筋肉痛は激しいです(笑)。僕、筋肉痛は当日になるんですよ。 当日出て、次の日の昼ぐらいまでは大体治ってる。これだけの稽古で筋肉痛になるのかって仲間にはからかわれます。

息子と同じチームで試合に出るのがひとつの夢

―― 最後にこれから剣道で目指すところを教えてください。

今稽古をしていて、子どもの頃より頭を使ってやっている気がします。昔はただただ打っていっていましたけど、 いろいろな駆け引きがあんねやとか、そういうことを ちょっとずつ分かり始めたかな。
今中学一年生の息子も剣道部に入ってくれました。 僕の剣道に関する夢の一つが息子と同じチームで試合に出ることなんですよ。 一緒に居酒屋に行って僕はお酒、息子はジュース飲みながら「これがパパの夢だよ」って話しています。
再開した時は二段だったんですけど、 去年の11月に四段を取ることができました。 再開する時に武徳殿での試合に出ることと五段への昇段を目標にしましたので、 そこまでは必ずやろうと思ってます。そのあとはなってからどういう風景が見えるのかなっていう。まずは五段になって、さらにその上の風景を見たいなとなったら目指していくのかなと思っています。
今回、剣縁に入会したということでまた剣縁メンバーのみなさんとの稽古も楽しみです。鍋山隆弘先生が稽古会にいらっしゃっていると聞いて、お会いできるかもしれないとワクワクしています。われわれ世代にとって、鍋山先生は憧れの選手でしたから。

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