愛する宮崎県をゴルフで活性化したい!(大森大二郎/株式会社ソアリング 代表取締役社長)

2025年1月、南国・宮崎県宮崎市にオープンしたゴルフ専門店「LIT GOLF(リットゴルフ)」。
インドアゴルフ練習場・セレクトショップ・ゴルフ工房が一体となった、この画期的な店舗を運営するのは株式会社ソアリング。その代表取締役を務める大森大二郎さんは、大阪府出身の剣道家です。高校、大学と剣道部で鍛え、会社員となって以降も稽古を続けてきた大森さん。なぜいま九州の地で、竹刀をゴルフクラブに持ち替えるに至ったのか。宮崎の人・土地を愛してやまない大森さんに、ご自身の半生をうかがいました。

プロフィール

大森大二郎(おおもり だいじろう) 1970年11月12日 大阪府生まれ。大阪府立千里高校から関西大学に進学。大学卒業後、外資系製薬会社に勤務し営業職に就く。その後、同じ製薬業界内で転職を経験。2019年に転勤で宮崎県を訪れると、現地の気候や人に魅了されるとともに趣味のゴルフにも熱中、同地への移住を決意する。宮崎でのゴルフ人脈を築き上げたタイミングで勤務会社を退職。宮崎県出身のトップアマゴルファー・甲斐大喜選手とともに宮崎市にて株式会社ソアリングを設立。2025年1月に、インドアゴルフ練習場・セレクトショップ・ゴルフ工房が一体となった「LIT GOLF(リットゴルフ)」をオープンした。小学3年生からはじめた剣道は現在五段。自身の主な戦績には全日本学生優勝大会出場、関西学生優勝大会ベスト8などがある。

LIT GOLF
https://lit-golf.com/

明るく快適なゴルフ空間を演出
「とくに女性が過ごしやすい場所であるように」

特徴的でオシャレな外観の「LIT GOLF」。規模としては宮崎市では一番の広さを誇る

―― 今年(2025年)1月、宮崎県宮崎市に「LIT GOLF(リットゴルフ)」というお店をオープンされたという大森大二郎さん。ぜひ大森さんご本人から、このお店の特徴をご紹介いただければ

インドアゴルフ練習場とゴルフウェアなどのアパレルショップ、そしてゴルフ工房とが一体となったゴルフの専門店です。その三つの施設が一体となっているお店は宮崎県には他にありませんし、おそらく都会であってもそれほど多くはないと思います。

インドアゴルフ練習場に導入しているのは「TRACKMAN(トラックマン)」というシュミレーターで、いまやプロゴルファーならば1人一台は持っているような、非常に正確な情報を即時に提供してくれる優秀な機器で、これを全4打席に設置しています。そもそもインドアゴルフ練習場自体はいま全国的にはたくさんできているのが現状ですが、経営的な面から無人でされているところが多いように思います。また、そのつくりはというと、どうしてもゴルフシュミレーターの画面が見やすいように照明を落としているところがほとんど。店舗の前に立ってもなかに誰がいるかも分からなくて、しかも室内は暗いとなると、これは男性の私でも入りづらく感じますし、それが女性であればなおさらのことでしょう。

ここでちょっと宮崎のゴルフ事情をお話すると、やはり都会と比べるとゴルフをやることへの敷居はとても低いんです。たとえば都会に住んでいてゴルフ場に通おうと思えば、やはりその行き帰りだけでもかなりの時間がかかりますし、当然それなりのお金もかかってしまう。しかし、宮崎の場合は市内から高速道路を使うことなく車で30分圏内にゴルフ場がいくつもあって、なおかつプレイ代も安いんです。となれば、やはり自然と敷居も低いものとなり、宮崎ではゴルフは老若男女誰もが楽しめるカジュアルスポーツになっています。とくに女性の場合、20代、30代の独身で働かれている方ならばいいですが、家庭があってお子さんがいて、となると時間も費用もかかるゴルフをやることは普通は難しい。しかし、そこは宮崎には恵まれた環境がありますから、たとえばお子さんを幼稚園、学校、塾などに送り出してからラウンドに行っても、ちゃんと子どものお迎えには戻って来ることも可能なんです。だから、とくに宮崎には女性のゴルファーの方が非常に多くて、このお店はそんな方々にフォーカスしたお店でもあるんです。

この店舗自体は、もともと雑貨屋さんをやられていた建物で、外観もオシャレで目立ちます。また、目の前に通る道も地元の方々がよく利用する道路で交通量も多い。そんな条件から、すぐにこの建物に決めたのですが、いま宮崎市内のインドアゴルフ練習場としてはおそらく一番規模の大きい店舗だと思います。規模自体が大きいですから、それぞれのスペースも贅沢に広めに取ることで、開放的で女性でも利用しやすい店づくりを徹底してみました。その結果、おかげさまで会員になってくださっているお客さまの4割ほどが女性の方なんです。

―― 詳しいゴルフ事情を知っているわけではありませんが、最近のゴルフウェアは男性用も女性用もオシャレなものが増えてきていますよね

そうですね。昔のゴルフウェアはスポーツブランドが出しているものがメインでしたが、現在では多くのアパレルブランドからもゴルフウェアがリリースされています。おっしゃるとおり、かわいいウェアが増えてきたこともまた女性ゴルファーの増加にひと役買っている大きな要素なのですが、いままで宮崎ではゴルフウェアの取り扱いはスポーツ量販店がほとんどで、どうしてもスポーツブランドのものばかりだったんです。アパレルブランドのウェアも百貨店などに置いてはあるのですが、それでも2ブランド程度。だから多くの方がネット通販を利用するのが現状でしたが、やはりゴルフウェアも決して安いものではありませんから、ウチではぜひ商品を実際に見て触っていただいて、ご納得の上でご購入いただけたらいいなと。そんな思いもありますから、これまで宮崎県内には入ってきていないブランドのウェアなども厳選して取り揃えています。

インドアゴルフ練習場に導入されているのは多くのプロゴルファーが愛用する「TRACKMAN」。これが全4打席に設置されている
セレクトショップには宮崎県初登場のブランドや取り扱いの少ないブランドが取り揃えられている

―― ゴルフ工房というものはどのような施設なんでしょうか?

ゴルフクラブの調整や組み立てなどをするところです。剣道でもご自分の使う竹刀には細かなこだわりを持っている方も多いかと思いますが、ゴルフされている人の中でもある程度の腕前の方は自分に合ったクラブを使いたいと思うケースは多い。そんな方々のご要望にお応えできる施設ですね。

私は「LIT GOLF」を運営している株式会社ソアリングの代表取締役を務めていますが、その共同経営者となるのが宮崎生まれのゴルファー・甲斐大喜です。彼との出会いが宮崎に移住するきっかけとなり、また現在のこの事業のきっかけともなったのですが、甲斐はトップアマというか、20代の頃はアジアンツアーにも参戦していた選手で、彼ならではの人脈や信頼があるんです。だからこそ、「甲斐選手にだったらクラブを調整してほしい」というお客さまも多くて、それはこのゴルフ工房の大きなセールスポイント。とくにウチの場合はインドアゴルフ練習場も併設しているので、そこでクラブを試しながら調整することができますから、お客さまの納得のいく数値が出せる仕上がりをご提供できるんです。

―― お話をうかがっているだけでもお客さまに対して実に誠実に向き合っていることが分かります

ゴルフクラブもスポーツ量販店さんであれば、どうしても会社の方針やメーカーさんとのしがらみなどから、お客さまに対してはある程度杓子定規な勧め方しかできないのは仕方のないところ。しかし、たとえ同じ道具を使ったとしても、その振り方には使う人それぞれの個性があるものですから、目指す数値が出るかどうかは人それぞれ。個々のお客さまの求めることにきちんと対応できる、ということは、量販店さんと差別化を図れる大きなポイントとなっています。

いまお店をオープンして数ヶ月経ちました。オープン当初こそ、新しいモノ好きな方々が集まってくださいましたが、時間が経つと利用者さんの伸びるスピードはさほど速くはないのが実感です。しかし、いまは自分の好きなことを仕事にしている喜びがあります。お客さまと毎日好きなゴルフの話をしてコミュニケーションを取れることはなによりの幸せ。いままで宮崎にはなかったゴルフの新たな楽しみ方をぜひ皆さんに提案していきたいです。

―― 会社、お店の共同経営者である甲斐さんとの出会いは?

私はもともと製薬会社に営業として勤務していて、宮崎に来た理由もその会社の転勤だったんです。それがコロナ禍前の2019年のことでした。もともとゴルフは会社員時代からやっていて、いまではゴルフ歴は32年くらいになりますか。先ほどお話ししたように、宮崎のゴルフ環境はとてもいいですから、こちらでもゴルフ会員権を購入して楽しんでいたんです。そこで出会ったのが、私の所属倶楽部のチャンピオンだった甲斐でした。スゴい実績を持つアスリートでありながら、彼はとても気さくな人柄だったこともあって親しくさせてもらうようになりました。

交流が深まるうちに、彼なりに地元宮崎になにか貢献したいという思いがあることを知った。当時ちょうどインドアゴルフ練習場が急増していた時期だったこともあり、甲斐自身も宮崎になにか新しいゴルフ施設ができないものかと模索していたんです。そこで出たアイディアがアパレルと工房もいっしょになった店舗でした。甲斐のそんな話には大いに魅力を感じながらも当時は私も会社員。そのまましばらく時が経ったのですが、ある日勤務する会社で早期退職の募集があったんです。もう何年か宮崎で過ごしてみて、とにかくここが魅力的な場所だと知りました。気候はよくて人も穏やか、食べ物も美味しいし物価も安い。そして趣味のゴルフも楽しめるのですから、老後を暮らすのにはなんて理想的な場所なんだろうって。さらには甲斐から聞いたプランもありましたから、もうこれはいいタイミングだと早期退職を決意して、この宮崎で事業を起こすことになったんです。

ユーザーそれぞれのこだわりを実現してくれるのがこのゴルフ工房。
インドアゴルフ練習場の「TRACKMAN」でスイング、弾道データを解析することで、一人ひとりの個性に合わせた細かな調整が可能となる
目指したのは女性でも入店しやすい、明るく快適な空間。入り口付近のスペースも広く実に開放的
株式会社ソアリング、「LIT GOLF」の共同経営者である甲斐大喜さんと。甲斐さんとの出会いにより、大森さんの運命は大きく変わった

「どこがゴールか分からない」
永遠に突き詰められるところが剣道とゴルフとの共通点

―― 剣道経験者である大森さん。この宮崎での稽古環境は?

実は宮崎に来てから一度も竹刀を握っていないんです。2017年に心筋梗塞で倒れてしまって、実際にはそれほどのダメージは残らずに済んだのですが、当時はとても危険な状況だと言われました。倒れたのがその年の11月末で、年が明けた段階でそろそろ体が動かしたいなと思ったときにお医者さんに相談した結果、「室内ゴルフだったらいいよ」という回答をもらったことが、はじめてインドアゴルフ練習場を利用するようになったきっかけです。それからもお医者さんと相談をしながら、ゴルフコースに行けるまでには回復したんですが、お医者さんから注意されたのは「くれぐれも競技はしないように」ということ。聞けばゴルフは突然死が多いらしくて、ティーショットやパターのときなどに過度な緊張から血圧が一気に上昇するらしいんです。ゴルフですらそんな状態なので、剣道となるとやっぱりちょっと怖い。いま自分の体調になにか不安があるのかと言われれば、ありがたいことになにもないんですけど、剣道のあの激しさを考えるとやっぱり恐怖心は拭えないですね。

―― そういうご事情があるならば慎重になるのも納得です。現在は竹刀からゴルフに持ち替えられたわけですが、ゴルフのどんな部分が大森さんを魅了したんですか?

それはもしかしたら剣道と非常に似ている部分かもしれません。剣道もゴルフも、どこまでやっても満足できないところが魅力です。どこがゴールなのかが分からない。ひとつできるようになると、またひとつ課題が出てきて、永遠に突き詰めていかなければならないところがある。自問自答しながら楽しめるところがゴルフの魅力で、それはきっと剣道も同じですよね。

―― 非常に剣道に似ていますね。それでは大森さんご自身の、剣歴、現在に至るまでの歩みを教えていただければ

大阪府の出身で、吹田市で育ちました。剣道を始めたのは小学3年生に上がるときで、私はもともと病弱で喘息持ちだったんです。私自身は当時野球が大好きだったのですが、祖父が剣道をやっていたこともあって、それならば剣道をやるか、と。祖父は月に1回か2回くらいのペースで公園で子どもたちに剣道を教えていたんです。たまたまそこに通りかかったのが近所に住まわれている道場の先生で、小学3年生に上がる直前に祖父が亡くなったこともあって私はその道場に入門することになりました。いまはどうか分かりませんが、私のときは始めてから1年間は防具を着けさせてもらえなかった。体操をやったり、腕立て伏せとかキツい体力向上のためのトレーニングばかりで、子ども心には楽しいと思えなかったのが正直なところです。小学校高学年くらいになると、運動神経がよかったこともあって、地区の大会で上位に進出したり道場内では一番、二番を争うくらいにはなりましたが、なにか大きな大会で活躍したようなことはありませんでしたね。

中学校は地元の学校に進学したのですが、中学最後の吹田市長杯という大会で優勝することができたんです。そのときに会場で「高校はどこに進学するんだ?」と声をかけられたのが、千里高校の監督の浅井憲司先生でした。千里は私立の強豪校が猛威を奮っていた当時の大阪の高校剣道界において、公立の強豪として存在感を見せていた高校。学力でも学区内では進学校で、私自身はもともと千里よりもひとつレベルが下の高校に進学するつもりだったんです。そのことを千里の先生に伝えると「その学校に合格できるならば、千里だって受かるだろう」とお誘いを受けてしまった。ですから、そこからどうにか勉強をがんばって受験に臨んで、結果的には合格することができました。

千里に入学してみると、稽古はキツかったですね。浅井憲司先生は大阪体育大学卒で当時は赴任して3、4年目。部の目標を「インターハイ出場」と掲げていましたし、実際に女子の先輩が個人戦でインターハイ出場も遂げていました。公立高校ということもあって、学校の施設を使う時間が限られているわけですが、それだけに授業前には朝稽古、昼休みにはみんなが自主的に集まって素振りをしたり、放課後は放課後で使用時間のギリギリまで稽古をしたりと、使える時間は目一杯剣道に費やしましたね。結果的に高校時代はとくに大きな戦績を残すことはできず、大阪でベスト8に入った程度でしたが、それでも大阪のトップレベルの高校剣道に触れることができましたし、稽古量についても私学の強豪と比べても遜色はない、と誇りに思えるほどの経験を積ませていただきました。

大阪府立千里高校時代の一枚。公立の進学校ながらも厳しい稽古で鍛え、激戦区大阪でベスト8に進出した

―― 高校卒業後に進学したのは強豪の関西大学です

伝統がある剣道部で、いま現在も後輩たちが頑張ってくれている大学ですが、私が学生当時は剣道によるセレクションなどは行なわれてはいませんでした。私自身も普通に受験をして入学したのですが、実は本当は他大学が第一志望だったので、高校卒業後は一浪して1年間は予備校通いをしていました。

―― それでも浪人の末に関西大に合格すると、しっかりと剣道部には入部したのですね

当時の監督は、かつて全日本学生選手権大会を制している白藤一郎先生でした。実は白藤先生とはご縁があって、私の祖父がかつて公園で子どもたちに剣道を教えていたと言いましたが、その輪のなかにいたのが子どもだった白藤先生。祖父はもちろんのこと、私の母ですらも白藤先生とは顔見知りだったんです。近しい関係だけに多少迷った部分はありつつも、やはりご縁もあったので剣道部には入部しました。

当時の関西大剣道部の目標は「関西大会制覇」。とはいえ、部内には高校時代にインターハイや国体で活躍したような選手はいませんから、とにかく大学時代は剣道一色でしたね。休みといえばテストのときくらいで、毎朝8時から10時までが朝稽古で、その後は最低限の講義だけ出て、また16時から19時までが稽古。まあ、剣道以外なにもできない生活が続きました。学生時代の大会の成績でいえば関西大会ベスト8があるくらいですが、入学当時に目標のひとつとしていた全日本学生東西対抗試合に出場できたことはいい思い出です。当時4年生でキャプテンも任されていたこともあって、西軍の一員として夢の大会に出場できた。それに加えてうれしいニュースとなったのは、東軍西軍合わせて千里高校の卒業生が4人も出場できたこと。これは当時全盛を誇っていたPL学園高校(大阪)や高千穂高校(宮崎)の出身者を上回る最多人数であり、母校の先生も大いに喜んでくれたようでした。

―― 大学卒業後、製薬会社に就職されたんですね

外資系の製薬会社に就職しました。当時は実業団剣道部のある企業からもお声がけをいただいたのですが、あの当時は剣道のしがらみを一度ふりほどいてみたかった。ですから、ここでは仕事面での条件のみを重視して選んだ就職でした。とはいうものの、私の最初の赴任地は愛知県名古屋市だったのですが、その職場の先輩から「担当している医師の先生が剣道をやっている。だからお前も稽古に行ってこい」と言われて、その先生がいらっしゃる稽古に参加することになりました。参加してみればほかの製薬会社で剣道をやっている人や地元の愛好家の方などもいて、自然と剣道を継続することになりました。地元の剣道連盟の稽古にも参加するようになると、当時はまだ四段でしたから「せっかくやっているならば五段も受けてみようか」と。20代半ばくらいはそれがモチベーションとなって剣道に取り組んでいましたね。

結局名古屋には11年ほどいて、その間には結婚もして五段も受かってと自分の人生にも動きがありました。その後、やっと転勤を迎えたのですが、今度の転勤先は地元である大阪。となれば、とくに剣縁の濃い土地ですから、ここでも剣道を継続。大阪は2年ほどの短い勤務で、そのあとは高知県に転勤となり、これでいよいよ剣道の縁も切れるかと思ったら、高知県警の剣道特練に後輩がいて「先輩、稽古に来てください」と(笑)。週1回程度と細々ながらも、剣縁によってずっと稽古を続けることになりましたね。

―― 剣道の縁はなかなか切れないものなんですね 

そうなんです(笑)。私はそこで同じ製薬業界で転職をしたのですが、その会社の最初の赴任地はまた名古屋となりました。縁のあった名古屋ですが、このときは剣道のつながりを自ら求めることはなく、ゴルフ熱も高まってきたこともあってそちらに夢中になっていたんです。するとなんの運命か、三菱電機に勤務していた高校時代の後輩が名古屋に転勤してきて「先輩、三菱電機の道場に来ませんか?」って(笑)。そこからまたちょっとだけ剣道を再開しましたが、本格的に稽古をしていたのはその当時くらいまでですね。

―― 大森さんの、これからの剣縁はどうなっていくでしょう?

いま剣道の仲間たちを見て思うのは「スゴい」のひと言。ここまで継続していること自体スゴいですし、たとえ学生時代に華々しい活躍を収めていない方でも、いまでは七段になり八段に挑戦されている。そんな姿を見ていると、もし私の体の調子が戻って剣道を再開したとしても、とてもじゃないけれど皆さんには追いつけるわけがない。先輩、同期、後輩の誰を見ても尊敬の念を抱くことしかできないです。だからこそ、そんな魅力的な人たちとの縁は今後も大切にしていきたい。懐かしい剣友たちは皆さんすばらしい剣道家でありつつも、やっぱり実際に会えば関係性は当時のまま。あのころの厳しい稽古の記憶なども共有できますし、私自身にとっては剣道家の方との出会いは非常に刺激的で楽しいものになっています。

―― それでは、最後に今後のお仕事の展望、希望などを伺えたらと思います

基本的に、いま自分の好きなことを仕事にできていることが本当に幸せですし、ありがたいと感じています。私自身、これからもずっとこの宮崎で生活していくつもりですし、共同経営者の甲斐もまた宮崎で生まれ、宮崎のゴルフ界で育んでもらったという恩を感じています。ですから私も甲斐もともに考えているのが、何らかのかたちで宮崎のゴルフ界に恩返しをして、ひいてはそれが宮崎市、宮崎県の活性化につながるように。今後はそんな活動をしていきたいと考えています。

関西大学剣道部では4年時にキャプテンを務めた。
大会での思い出もさることながら、警視庁に一週間遠征して日本トップレベルの剣士たちと竹刀を交えた経験も印象深いと大森さんは語る

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