ゴルフ場システム開発のパイオニアである三和システム株式会社は、水戸市と那珂川を挟んだひたちなか市(旧.勝田市)に本社があります。水戸といえば、現在に至るまで各方面で歴史に名を刻む人物を多数輩出し続ける土地柄。代表取締役の西野社長は、文武両道の名門、水戸第一高校のご出身。同校剣道部の全盛期のお話や西野社長が強く影響を受けておられるお父上のことなどを、水戸烈士のイメージとは違う満面の笑顔でお話しいただきました。
プロフィール
西野好海(にしの よしみ)。1947年3月12日、茨城県勝田市(現.ひたちなか市)生まれ。
西野家は勝田市史にも「前九年の役土着」と記される旧家。好海社長は、茨城県立水戸第一高等学校から慶應義塾大学商学部に進学。大学卒業後は高島屋ショッピングセンター等を経て1982年1月に三和システム株式会社を設立し代表取締役社長に就任。剣道は小学4年のときに父・恒郎氏に教えを受ける形で始め、高校3年時にはインターハイ茨城県予選で準優勝。
三和システム株式会社
https://www.sanwasystem.com/
マーソ株式会社
https://www.mrso.jp/

勝田若葉会の一期生になり損ねた
あまり長いこと剣道はやってないから恥ずかしいですけど、親父が剣道をやっていて。親父は海軍兵学校を出て病気で生き残ったんですけど、子どもの頃から剣道の大会に出てるのを見てたんです。
4年生になったときに、若葉会が一期生を募集してると聞いて、家も近かったので親父に「やりたい」と言ったんですが、親父は「う~ん」で考えちゃった。親父も若葉会の創設メンバーだったはずなんですけど(笑)
たぶん、私が痩せてヒョロヒョロだったからかもしれませんが「ちっちゃくまとまっちゃうから、もう少し大きくなってからやった方がいいと思う。2年後に入ったら?」って言われた。
ただ、そのときに「俺が教えてあげるよ」ということで家で素振りや基本は教えてもらっていて、6年生になったときに3年下の弟と一緒に若葉会に入った。そこでは結局1年だけやったんですけど、6年生だとみんなはもう2年やってますから、実戦をやっていて強くなってるんですよね。なかなか勝てないんですよ(笑)
それで、中学生になったときにやめちゃったんです。
水戸一高のインターハイ予選3連覇を止めてしまった
ただ、このままにしたらいけないな、高校に入ったらもう一度剣道をやろうと思ってました。親父も、旧制水戸中学で全国大会に行って先鋒で大活躍したんだって自慢気に話してるんですね。なんでやめちゃったんだって感じで(笑)
それで水戸一高に入ったんですけど、入った途端の5月に水戸一高は関東大会で優勝したんですよ。そのときに同じクラスの人見ってのが次鋒だったかな、1年生で選手になっていて。彼は3年間全国大会に出たんですが、そういう縁で一生懸命やるようになった。水戸一高は当時、インターハイ予選を2連覇していて、私たちの代もなんとか大丈夫だろうと言われてた。私も地区大会とかほとんど負けた覚えがないんですが、一番目標にしていたインターハイを目の前にした決勝戦で、私は先鋒だったんですが相手に逃げ回られちゃったんです。徹底的に逃げ回られた挙句、延長戦で抜きドウを取られたんです。そしたら、あれれって感じで後ろも負けて。
全盛期といえる時期で3連覇すべきところを私のせいで…って責任というか、ずっと思っていて、大学の途中で剣道をやめた理由のひとつにはそういうのもありました。
― 西野社長はいつ頃からレギュラーになられたんですか?
2年の二学期、新チームになってからかな。新チームになる前、インターハイ予選を2連覇したチームでは補欠の一番手だったんですけど出番はなかったですね。2年のとき関東大会優勝チームで日光の武徳殿で試合があったんです。2対2の大将戦でうちの大将が抜き面を取ったんですけど、取り返そうと必死な相手の物凄い体当たりで痛んで、もう一人の補欠だった小泉先輩(映画監督の小泉堯史氏)と「どっちかが出なくちゃならんですね」と話してたんですけど、棄権することになって出番はなし(笑)
いろんな後輩とか剣道関係の人と話をする機会があるんですけど、1学年下に結構強い人、有名な人がたくさんいるんですよ。そういう人と話をすると、「いや~水戸一高に行きたかったんだけど入試で落ちちゃったんだ」という人が2~3人いるんですよ。そうすると、その人が入ってたら私は補欠になっちゃってたなって感じ。

― 水戸一高の剣道部誌をご用意いただいています。高校でこれだけ立派な部誌というのはすごいですね。

私たちの頃の水戸一高は東武館の小澤武次郎範士が教えてくださっていたというのも勿論ありますけど、親父の頃からもともと強かったというのが、この部誌を読んでよくわかりました。OBに範士が8人もいますし。
この部誌は去年のいま頃発刊したんです。私じゃなくて実行委員会の人が編纂してね(笑)
ちょうど部誌を作って予約販売するという案内が来たときに、私も亡くなった友だち―大曽根君というんですが―彼のための本、彼が常陽銀行が出している月刊誌に40年間書き続けた風土記みたいなものがあるんですけど、彼が表には出ていなかったので、同級生の福田君(現.株式会社アダストリア会長)がクラス会幹事の私に電話をかけてきて、大曽根君のための本をなにか最低一冊でも我々で出してあげようって。そんなタイミングで剣道部誌の案内が来たんで、同窓会とか学校が本をだすってのはどういう手順でいくらくらいの予算でやればいいのか、実行委員会の人に聞いて参考にさせたもらったりもしました(笑)
実は昭和8年の優勝の写真があるんですけど、この頃も連勝してるんですね。親父も写真に写ってますけど、この写真を息子(恒五郎氏。現.マーソ株式会社代表取締役社長)に見せたら、下の孫にそっくりだって(笑)
― 皆さんがしっかり寄稿されていて、名門を背負うってすごいことだなと思います。
70人のキャプテンが当時のことを書いています。すごいというか、校歌を見てもわかると思うんですけど、これをいまでも歌ってますからね。いま甲子園で歌ったらすごいことになるんだろうなってみんなで話してます(笑)

父.西野恒郎が書き残したノート
剣道部誌のタイトルが「文武一塗」。文武は一緒だと。どっちかに偏ることを戒めてるわけですよね。会澤正志斎の文章からとったもの。
水戸は、親父が昭和10年に海軍兵学校に入ったとき、昭和11年2月が二・二六事件でしょ、その前に昭和7年のことに橘孝三郎さんの愛郷塾が五・一五事件を起こしたり、血盟団とかやってるんですよね。ですから、うちの親父も水戸の人間だから軍人の中でもちょっと危険人物に見られてたらしいです。剣道が好きで、兵学校でどういう修業をしたとかいう剣道の話をたくさんしてくれたんですが、あまり具体的には話してくれなかったんですよ。でも、軍事の専門家というのもありますけど、こういう文句とか精神みたいなものは染みついてたんでしょうね。
実は、親父が死ぬまでに2~3回、私から話を持ち掛けたことがあって、例えば『坂の上の雲』を私が読んだときに、親父は読んでないんですけど、私がいろいろと「どう思う?」っていう話をしたんです。親父も突然言われたもので逆に「それ何のこと?」って聞いてくる。私も一度読んだきりであんまりわからないから「まぁいいや」って感じで中途半端にしちゃったんですけど、惜しかったなって、あのときもっと聞いておけばよかったなって。
そうしたら、親父が書き残してたんですよ。
書き残したっていうのは、茨城海軍三校会(兵学校・機関学校・経理学校を出た茨城県人の同窓会)の会長を親父がやっていて、会報に自分が海軍でどういうことをしたとか、どういう風に思っているとかいうことを書いたんですけど、その下書きのノートがあったんです。それで、亡くなって2~3年経って初めて、それを読みだしてから、なるほど剣道とか軍人の考え方っていうのをわかるようになってきて、まぁ剣道そのものですね、親父の考え方は。
ただ、忠義ということがわからなくなったらしいです。朝夕に軍人勅令とかを読むのに、そういう疑問をもっちゃったから、どんどん仲間外れみたいになっていって。そのときに剣道で救われたようなんですよね。中馬兼四っていう、あのシドニー湾攻撃した鹿児島出身の方が剣道が結構強くて、よく稽古をしたらしいです。
― お父上はそうやってご苦労されて、終戦まで軍籍にいらっしゃったんですか?
はい。日中戦争では結構戦ったんですよ。中国と戦うというよりは南京政府の援助に行ってたんですね。イギリスとかアメリカが反乱側に武器を渡すのを防ぐための海上警備を2年くらいやってた。そこを離れて、12月8日のときは海南島からコタバルへ、シンガポールを目指す陸軍の人を20隻くらいの船で送って、そこで血を吐いて。結核だってことで入院して、1年くらいで復帰して教官になりました。横須賀と浜名、防府と8カ月くらいの単位で赴任してたようです。
最初の事業は塩
防府が塩田の町で、そこで塩の作り方とかを見てきたんですかね。私が生まれた頃、昭和20年12月に帰ってきて、21年の12月頃に東海村で塩の事業を始めたんです。防府の通信学校の人たちを何人か呼んだりして塩を作ってたんですね。当時は冷蔵庫がない時代ですから、何でも塩漬けにしないと腐るし、ものすごく儲けたらしいですよ。でも、儲けたけど、騙されるのも激しかったって(笑)
― お人柄がまっすぐでいらっしゃるから
武士の商法だから、「売ってきてあげる」って言われたら「はい」って渡して、持ち逃げされちゃうと。それがずっと続いたって。それが抜けないって最後まで言ってましたね(笑)
他にはダンスホールがありました。自衛隊を誘致して、彼らを相手にダンスホールとか雀荘とか。倅に「おじいちゃんはこんなことをやってたんだよ」って言ったら、「ヤクザのコンビニだ」って言ったことがある(笑)
雀荘は子どもの私が寝ている隣りの部屋で、ワーって大騒ぎしてしてるんでちょっと襖を開けてみたら、足を切られて血だらけになってたなんてことも。そういう時代だったんですよね。みんな特攻隊帰りで次男三男。周りの農村はみんなお兄ちゃんがやって、次男三男は駅の近くに少しずつ土地をもらって、それぞれがやれる商売を何でもやって。気が荒いというか、あの大人たちも戦争の話くらいしかできなかったんですよね、たぶん。私が「戦争ってどういうこと?」って聞いても、「いやぁ、蛇とか虫を食べてたんだよ」とか言って。食べ物の話ばかり聞いてたような(笑)
― その環境で水戸一高に入るだけの勉強ができたのがすごいです
これは小学5年までね。親父が選挙に出て負けて、その後は母の実家の布団屋の支店として駅前の方で店を。私は中学からおばあちゃんの家に行ってました。

三和システムの話も実は親父が持ってきた
私が30代の頃、茨城青年の船ってのがあったんですよ。3年に一度くらい、茨城県の青年250人くらいを連れて船で中国に行ってたんです。その頃、青年会議所の方で町づくりのスライド映画を作って、それをいろんなところに見せていたこともあって、講師団の一員として私も行ったんです。講師団の中では一番若かったくらいかな。
話は逸れますけど、その街づくりのスライド映画は本当に名作ですよ。見れば見るほどわかってくる。斎藤次男という「男はつらいよ」のプロデューサーなんかもやった人 ― 山田洋次監督と松竹の同期かな ― にお願いしたんですけど、町づくりには町の歴史を知ることが大事ってことで、八戸でやっていたのを見て勝田でもお願いした。
第一部が「海と神々と太陽の大地」ってタイトルで、全6巻まで作ったかな。宝永の一揆なんかは、水戸の人が見たら、水戸黄門をけなすな!って怒るかもしれない(笑)
話を戻すと、そのときに大連の副市長が、改革開放と町づくりをテーマに町を見渡せる工業団地で話してくれるってことになった。でも話が始まったんだけども、明日は大連から船に乗って帰るという日なので、茨城の男が話そっちのけで女の子と追いかけっこをしてるわけ(笑)実際には農村の若者の婚活で行ってるようなものだから仕方ないですけど。
で、副市長もこれはダメだと思ったんでしょうね。途中で不機嫌そうに話を切り上げたんです。そうしたら県の職員が慌てて「西野さんちょっと来て」って。私はその頃NECの名刺を持ってたんですよ。茨城代理店・三和システムっていうのを。副市長が、エレクトロニクス産業の誘致を是非したいということで、これを機会に是非、この新興工業団地に持ってくるように動いてくださいとか言われて。「会社に話しときます」と言ってそのまま(笑)一介の、代理店にもならないくらいの取次店なので、そういう話を支店長に持っていくなんてできない。
― そのときには三和システムという会社はあったんですね
そうですね。この話は親父が持ってきたんですよ。NECの上の方に結構生徒がいたんですよ。防府の通信学校とかで教えてましたから。そういう関係で、「コンピュータのソフトを、ハードは簡単にたくさんできるんだけどもソフトの会社がなくて困っているから、息子さんとか若い人にやらせてくれ、ちょっと声をかけてくれないか」って言われて、そんな話があって始めたんです。
自分は営業をやるつもりで、あとは技術者を何人かNECの方から紹介してもらってやればいいんだろうってことで始めたんですけど、昭和57年頃かな、その頃一般小さい企業はほとんどコンピュータを使っていなかった。売る方も導入する方もチンプンカンプンで(笑)でもまぁ、NECの人がちゃんと教えてくれたんですよ。業種毎に、例えば旅館はこういう画面で登録するんだとか。
10年くらいは赤字でしたよ。やっとできても見積りのギリギリいっぱいで、その後もずっと保守が続く。保守は契約していないから料金がもらえない。ソフトの保守がそんなにかかるってNECもわかんないんだよね。だから、その保守が開発と同じ以上にかかるというのはわかったんだけれども、料金がとれないんで。必ずOSが違うから一回作ったシステムは同じ器械でやらないとできないし、一回掴めばもう永久的に4~5年毎に器械を取り換えたときに開発費としてまたもらえるから、それでやってくださいということだったんです。
それが10年くらいしたらバブル崩壊が起きて、バブル崩壊とオープン化が同じようなときに来た。で、我々はそんなにお客さんがいなかったというか、失敗ばかりしていたし、早くやめたいと思ってたから(笑)、だからもう、いろんなことをやらずにひとつに絞ろうと。じゃあ、ゴルフ場を20~30件やってたから、ゴルフ場だけに絞ろうってことで。社内でも意見が割れましたけど、別れる人が古いお客さんを持っていってくれたんで、早くオープンの世界に切り替えられたんですね。それが幸いしました。
― ゴルフ場だと、これから先の新設とかビジネスモデルの転換とかは少ないように思います
ゴルフ場だけだとそうですね。でもね、病院とか自治体とか大きいところは必ずどこかがやっていて入る余地はないと普通は思うじゃないですか。ところが病院はIT化が遅れてる。基幹部分が遅れてるから細かいシステムも遅れている。行政も同じ。農協なんかも、金融とか保険はある程度統一できたけども経済活動の面は全然統一できていない。だから、開拓の余地はたくさんある。


『システム導入記』という手記を書き綴っている
タイトルでわかると思いますけど、最初は会社のことだけを書き連ねていたんですよ。けれど、親父のノートが出てきてから戦争の話とか親父に関することが増えちゃった。
例えば第39に「金は阿堵物(あとぶつ)と教えられた」というのがあります。これ、私が高島屋ショッピングセンターに入って初任給の話をしたときに、「俺は、金は阿堵物って教育を受けたんだ」っていう話で。金は後からついて回るものって思っていたんですけど、汚いものの意味。親父が悩んでたことも少しずつわかってきたし、この手記、なかなか自分でも面白いと思ってるんですよ。もう何回も「完」にしてるんですけどね(笑)
今回の取材をきっかけにして、新たに西野家の剣道歴を書いたんです。これが第45になる。二人の孫がともに剣道を頑張っているので、これからの活躍と成長がとても楽しみです(笑)
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