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子どもも大人も笑顔でいられる場所をつくりたい(戸田徹弥/学校法人SEiRYO学園 オルタナティブスクールToy-A シェルパ)

千葉県船橋市、新京成線・東葉高速鉄道北習志野駅から徒歩5分という好立地にあるのが、オルタナティブスクールToy-A(トーヤ)。
「新しい選択肢の学校」を意味するオルタナティブスクールには、多様性あふれる指導を求める子どもたちが集います。同校で担当教諭を務める戸田徹弥さんは、18年もの間、公立小学校で教員として勤務してきた経歴をもちます。
「学ぶ、ということは本来楽しいもの」
 という信念を持つ戸田さんは、今日も集まる子どもたちの一人ひとりに深い愛情を注ぎます。
過去には足立学園高校(東京)、拓殖大学と、伝統ある剣道部に在籍。
193cmの長身で堂々たる上段の構えをとる戸田さんに、自身の剣歴と教育に懸ける熱い思いを尋ねました。

プロフイール

1978年千葉県生まれ。足立学園高校(東京)から拓殖大学政経学部に進学。大学卒業後、千葉県浦安市の小学校教諭として18年勤務したのち、2021年3月末日に退職。同年7月に、自宅を拠点にフリースクールを開校する。学校法人SEiRYO学園の運営のもと2024年4月から千葉県船橋市にオルタナティブスクールToy-Aをオープン。同校にて担当教諭を務めている。小学4年生から始めた剣道は、中学、高校、大学、社会人と継続し現在五段

オルタナティブスクールToy-A:https://toy-a.org

コロナ禍、小学校教員を退職。
「学校の新しい可能性」を求めて

インタビューに同席してくれたToy-Aに通う「イッサくん」(写真右・小学4年生)と「ムラッチ」(写真中央・中学2年生)の2人。
共に、Toy-Aの中心的メンバーだ。
取材場所であるToy-Aはビルの3階にあり、2階には同じ学校法人SEiRYO学園が運営する「民間学童保育 KOSO Living Lab」がある。

──千葉県船橋市にて活動する学校法人SEiRYO学園 オルタナティブスクールToy-A(トーヤ)。同校にお勤めの戸田徹弥さんにお話をうかがいます。

戸田 まず、オルタナティブスクールは「フリースクール」と呼称されることもありますが、あくまでToy-Aでは「オルタナティブスクール(新しい選択肢の学校)」という呼び方にこだわっています。

 もともと私は、18年間千葉県浦安市の公立小学校の教諭として勤務してきましたが、2021年3月末日に退職をしました。

 同年7月には、市川市にある自宅を拠点に、フリースクールを開室します。当時、フリースクールに通ってくれる子どもたちとキャンプに行った様子をフェイスブックにアップしたところ、その投稿を見て連絡をくれたのが、以前から交流のあった学校法人SEiRYO学園のいぬかい良成理事長でした。

 千葉県船橋市に本部を置く学校法人SEiRYO学園は、アトリエバレリーナ幼稚園をはじめ、東京・千葉に認可保育所、学童保育所などを運営しています。いぬかい理事長は、ちょうどオルタナティブスクールを開校しようとしていたタイミングだったそうで、私のフリースクールでの活動をご覧になって、運営に携わらないかというお誘いをいただいたというわけです。

 現在私は、このToy-Aと同じく、学校法人SEiRYO学園が運営する「民間学童保育KOSOLiving Lab」のバックアップやフォローを行ないつつ、Toy-Aでは先導者を意味する「シェルパ」、いわゆる学校の担当教諭の役割を務めています。

──Toy-Aならではの特徴などあればぜひ教えてください。

戸田 まずはスタッフの100%が教員免許を所持していることです。それによって学習指導要領に則った指導をできることがアピールできるポイントのひとつですね。

 我々が子どもたちと共に大切にしていることが3つあります。

 一つめは「安心して過ごせる場所を創ること」

 二つめに「失敗を糧にして、挑戦を続けること」

 三つめに「社会に貢献できる優しい人を目指す」です。

 子どもたちにとって安心できる場所を提供すること、そして挑戦することの重要さは言わずもがなですが、とくに私自身が子どもたちによく言っているのは

「人とのご縁を大事にしよう」

「最終的には自分でしっかりと稼げるようになって、社会に貢献できる優しい人になろう」 

 ということです。今日、このインタビューにも2人の生徒、中学2年生の「ムラッチ」と、小学4年生の「イッサくん」が同席してもらっています。これには「たくさんの大人たちと出会って、社会を知り、自分の世界を広げてほしい」という願いがあります。

 私は、子どもたちと積極的に外に出るのですが、その理由のひとつには、多くの大人と出会うことで、色々な生き方があることを知ることができます。そのことによって、将来、自分に合った仕事を見つけられるのではないか、と考えています。

 実際に子どもたちには、それぞれすばらしい個性と能力があります。例えば「ムラッチ」は、みんなの兄貴分として頼りになる存在ですし、魚をさばくのがとても上手で、ブリも見事に3枚におろすことだってできます。「イッサくん」はキレイ好きで、今日もお客さまが来るということで、部屋のディスプレイの整理を率先してやってくれました。彼らと日々接していると、その未来には無限の可能性があると感じます。

──戸田さんがおっしゃるとおり、Toy-Aではキャンプや遠足など、外に出て、自然と触れ合う機会をはじめ、いろいろなイベントの実施や体験にも積極的に取り組んでいるようですね。

戸田 校外学習については、私がどこに行くのかを押しつけるのではなく、どこに行きたいかを必ずみんなで話し合って決めるんです。例えば、先日遠足を実施したのですが、これは中学生の子が発案したものです。

「TikTokで40km遠足をしている子たちを見た」

 と言ってきたものですから、

「それならみんなでやってみようか?」

 ということで、浦安駅から往復40kmの距離にある場所をピックアップして決まった目的地が秋葉原でした。

 私自身、ロードバイクを趣味にしていて、過去には200km以上も走ったこともありますから「徒歩での約40kmなんて余裕でしょ」と思っていました。ところが、10数kmを過ぎた時点で、信号のたびに、みんなで地面にへばりつくような状態になりました(苦笑)。かなりキツい遠足になったけれど、子どもたちにとっては、本当にいい経験になったと思います。実際に体験してみて、その大変さを身をもって知ることができました。数字や地図上の印象のみで判断するのではなくて、経験によるしっかりとした物差しを得ることができたわけですから。

 私自身、面白そうと感じたことには、積極的に取り組むようにしています。もちろん安全面には最大限の配慮をして実行に移していますが、それでも保護者の方々の中には

「ウチの子には、かなりハードルが高いかも……」

 とおっしゃる方もいました。しかし、子どもたちは、大人が設定した限界値をいともカンタンに超えてくるんです。保護者の方はもちろん、私自身も驚くことも多いですし、なにより子どもたち同士や本人だってビックリしてます。そんな成長を目の当たりにするたびに、やはり、子ども達が、つねに挑戦できるチャンスを、大人達は創り続けることが大切だと思っています。

 実はいま、みんなで剣道にも取り組んでいるんです。これも私が剣道経験者ということを知った子どもたちが、自分たちから「やってみたい」と言ってきたことです。そこでSNSで「もう使わなくなった剣道具を寄付してください」と呼びかけたところ、多くの剣士の皆さまからご支援をいただきました。

 道具、会場の用意が整うと、生徒達には、剣道の礼儀・礼節の部分はもちろん大切にしつつ、練習初日からいきなり試合をました。基礎・基本は剣道でも重要視される部分ですが、まずはみんながイメージする「剣道」の姿であり、真剣勝負ができる試合からあえて取り組んでみました。その結果、子どもたちからは

「楽しい! ちょっと痛いけど……」

 と好評の声が聞かれたため、今後も継続して稽古していく予定です。

──戸田さんのお話からは子どもたちへの深い愛情を感じます。それだけに、かつて勤務していた小学校教員から独立した理由がやはり気になるところです。

戸田 当時はちょうどコロナ禍のど真ん中の時期でした。日々目まぐるしく変わる情勢に学校の職員、保護者、生徒のすべてが振り回されて、みんなのストレスが高まっていくのを感じていました。その結果、子どもたちからどんどん笑顔が失われていった気がします。子どもの時期は人生でも一番無邪気に笑っていて良い時期です。それなのに子どもたちが笑顔になれていないのならば、それはもう国なり、学校なりのシステムに限界に来ているのかもしれないと感じたんです。

 私にとって、教師は天職だと思っていた職業でした。しかも、念願の教師になって18年も経つのですから「辞める」という選択をすることには大きな葛藤がありました。学校は本来楽しいところだし、私自身はそれをみんなで創っていく教師でありたいと思っています。それが公教育の現場で実践することが難しいのであれば、もう外の世界で、その場を創ろう、と決断しました。

 フリースクールやオルタナティブスクールは、教育の新しい可能性を秘めている場だと感じています。「学ぶ」ということは本来「楽しいこと」。それを感じられる新しい選択肢があるということを、世の中に広く発信していきたいです。

スクール内にはカードゲームや本など、子どもたちの好奇心や発想力を刺激するアイテムが揃う。
今回の取材用に改めてディスプレイをしてくれたというが、これを手がけたのは「イッサくん」。
まるでお店のディスプレイのようなレイアウトにセンスを感じさせる。
コロナ禍、長く勤めた小学校教員の職を辞することは、大きな葛藤の中での決断だった。
「いまだに学校現場の多忙感、ストレスの中で踏ん張っている先生方も多いはず」と教育現場の「いま」を憂う戸田さん。

進学・進路に迷った人生。
教育者になる夢は高校時代に定まった

「稽古のあとにアイスクリームをもらえる」と聞いて剣道をはじめたのは小学校4年生のとき。地元松戸市にある高塚剣友会に入門した。
入門してすぐの「初級者コース」では楽しく稽古ができていたが、「中級者コース」に上がるや稽古の厳しさは増したという。
しかし、当時の厳しい稽古こそ自分を支える礎となっている、と語った戸田さん。出身の高塚剣友会には現在も時折稽古に通っているという。

──それでは戸田さんの現在に至るまでの道のりと剣道歴などもうかがえればと思います。

戸田 私はもともと千葉県松戸市の出身で、両親と兄2人という家庭で育ちました。

 私の身長は193cmと高くてビックリする方も多いのですが、2人の兄も長男が196cm、次男が188cmと高身長兄弟なんです。その兄2人は高身長を活かしてバスケットボールをやっていましたが、厳しい練習でなかなか苦労をしていました。そんな兄の姿を見ていたので、バスケではなく私は剣道を選びました。

 剣道は小学4年生からはじめました。きっかけは単純で、当時いっしょに遊んでいた友だちが剣道をやっていたから。彼から

「稽古が終わるとアイスクリームを奢ってもらえる」

 という話を聞いてとっても羨ましく感じちゃったんです。アイスを奢ってもらいたいという一心で地元の高塚剣友会に入門しました。

 入門してすぐの「初級者コース」では実際に稽古後にはアイスをもらえましたし、練習も厳しくなくて楽しかった思い出があります。しかし、それも「中級者コース」になるまでの話。「中級者コース」になるといきなり稽古が厳しくなりました。

 あのころは稽古に行くのがイヤで仕方がなかったです。けれども、不思議なことに少年時代の記憶としてはその厳しい「中級者コース」での日々が鮮明です。当時のあの経験がなければ、きっと高校でも、大学でも、厳しい稽古に耐えられなかったと思います。

 小学校卒業後は、地元の松戸第五中学校に進学しました。道場の先輩もいましたし、稽古も楽だと聞いていたので完全に油断していました。実際には剣道五段のバリバリの先生が赴任しておられていて、チームも市内大会で優勝するくらいに成長しました。チームはレベルアップしましたが、私は剣道をやる気がまったくなくて、いつも部活の時間に脱走を企てては、部員仲間に追いかけられて指導教官室に連れ戻されるという日々でした。

 私は、その後の高校、大学も剣道部に所属しましたが、ずっとレギュラーになることはなく、高校時代もやっと5人制の7番手に入ったくらいで、大学でも選手になる機会はありませんでした。中学生時代も団体戦の選手に入ることはなかったのですが、最後の松戸市の大会で個人戦でベスト8に進むことができたのは、中学生時代のいい思い出のひとつです。

──しかし高校は東京都の剣道強豪校・足立学園に進学しますね。

戸田 中学生時代の僕は周囲から心配されていました。なぜなら

「勉強できない」「運動できない」「根性がない」

 の三拍子が揃っていたからです。ですから、高校受験となり、狙える地元の公立高校となると、ほとんど選択肢がありませんでした。そんなとき、担任の先生から「明日までに返事をくれれば推薦試験で進学できるかもしれない」と紹介されたのが東京の足立学園高校でした。足立学園については、当時はなんの知識もなく、もちろん剣道に熱心な学校とも知りませんでした。唯一の情報は、担任の先生からもたらされた「ちょっと進学校っぽい」という頼りないものだけでした。しかし、選択肢のない私にとってはまさに「渡りに船」。帰宅して母親に相談したところ、

「ぜひ行きなさい」

 と承諾も得られたこともあり、足立学園を受験し、無事に合格することができました。いまになってみると、この時の母からのひと押しには、感謝してもしきれません。

 足立学園に入学してみると、予想外のことがいくつもありました。剣道部の顧問の先生が新入生の剣道経験者をリサーチしていて、すぐさま入部を勧められました。いざ入部してみると、私のような一般推薦ではなく剣道推薦で入ってきた生徒がたくさんいて、部員たちのその強さに驚かされることになります。

 あの頃の足立学園剣道部は、東京都でベスト8あたりのレベルで、都大会での上位入賞が当時の大きな目標だったように思います。もちろん私自身は実力がありませんから、やる気はそれほど高い方ではありませんでした。しかし、仲間たちと過ごす日々により、最後まで剣道をやり遂げたい、という気持ちが芽生え、練習をサボらず参加する日々を送りました。

 私はいま上段に構えているのですが、それは高校2年生の頃からです。多くの上段の方の場合、先生からの勧め、あるいは自ら志願して上段を執るのが通常でしょうが、私の場合は同期の仲間から勧められたことがきっかけでした。

「戸田は上段にしたほうがいい。だから先生に言いに行け」

 と言ってくれる仲間がいたんです。その勧めに対してためらう私に

「言いに行かないなら殴るぞ!!」

 とまで言ってくれた彼は、きっと私の特性を見抜いてくれていたんだと思います。結果的に私は上段に転向して以降、少なからず勝ち星に恵まれるようになりました。当時の彼には感謝の思いしかありません。

 上段に構えるようになった私は、それでも選手には入れずにいましたが、最後のインターハイ予選に向けた部内戦で奇跡が起こり、2位に入賞することができました。その結果を評価してくれたのか、最後のインターハイ予選では7名の選手に抜擢されたんです。しかも監督は

「戸田は秘密兵器だから決勝戦で出す!!」

 と言うのですから、周囲の部員はもちろん、私自身も驚きました。

 むかえた東京都のインターハイ予選で、準決勝までコマを進めた足立学園は、優勝候補の国士舘高校に対して、代表戦にもつれる熱戦を展開しながらも、最後の最後で競り負けることになります。仲間たちの奮戦には胸に熱い思いが込み上げつつ、私自身は出番がなく終わってしまったことにどこか悔しさを感じていました。あのときの未練から「大学でも剣道がやりたい!!」という考えが頭に浮かぶようになりました。

意図せず入学したのは東京都の剣道強豪校・足立学園高校。
193cmの長身を誇る戸田さんだが、写真のとおり高校生当時から周囲との身長差は歴然。
高校3年時、それまで選手入りを果たすことができなかった戸田さんだったが、最後のインターハイ予選では7人の選手に抜擢。
この大会ではチームは奮戦し3位入賞を果たした。

──それ以前は高校卒業後の進路をどう考えていたんですか?

戸田 もともと少し料理に興味があったので、料理の専門学校を目指そうかと考えていました。だから大学受験の勉強はまったくしていなかったので、慌てて大学を探すところからスタートです。

 いろいろな大学を調べた結果、私が候補に挙げたのは拓殖大学でした。説明会を聞きに行ったところ、当時は論文入試が採用されており、勉強こそ苦手でしたが文章を書くことが好きだった私は、そこに望みをかけたんです。

 しかし、大学入学の話を担任の先生に相談したところ返答は

「ムリだ」

 のひと言。その先生は国語が担当の先生でしたし、私自身も成績の低さに自覚はありますから「そりゃそうだ」と納得して帰路に着くことにしたのです。ところが、そこで偶然出会った先生とのやり取りが僕の運命を大きく変えることになりました。

 帰り道に出会ったのは国語の女性の先生で、先生には以前からなにかと可愛がってもらっていたんです。挨拶がてら進路の話題になり、そこで担任の先生とのやり取りを伝えたところ

「なぜあなたの人生の希望を『ムリだ』のひと言であきらめさせるのか!!」

 と怒りを露わにしてくれました。先生は私にすぐに入試に向けて論文を書くように命じると後日それを添削してくれて、さらには面接の練習までしてくれたんです。

 そうして臨んだ大学受験はどうにか合格。そこで私が感じたのは「教師ってなんてスゴいんだろう」ということでした。一度は「ムリだ」と言われたことを完全に覆し、生徒の人生を変える手伝いをしてくれた。こんなすばらしい職業があるのかと感動をして、それから私は教員を目指すようになったんです。

──拓殖大学での日々はいかがでしたか? 教員免許取得を目指しつつ、剣道部にも入部したわけですよね?

戸田 将来的には高校教員になって剣道部の指導にあたることを目標にしていたので、大学では中学校社会科、高校地理・歴史科、公民科の教員免許を無事に取得しました。

 剣道部にはインターハイ選手がゴロゴロいるような環境だったので、選手になることは叶いませんでした。いま振り返ってみると、自分自身のメンタル部分での弱さに気づかされますね。毎回稽古には出ているものの、いざというときのガムシャラさが足りなかったように思います。そこに悔いが残りますね。

──大学卒業後の歩みは?

戸田 講師をしながら教員採用試験に挑戦する日々を送るんですが、1年目、2年目と合格できずにいました。そこで、取得していなかった小学校教諭免許を取るために、千葉経済短期大学部の初等級科に通うことになるんですが、3年目の挑戦も失敗に終わりました。 

 当時、社会科系の高校教員の倍率は高く、それに比べて小学校教員はそこまでではありませんでした。4年目、5年目と不合格を繰り返していたところで、

「このまま一生正教員にななれないのかも?」

 という思いも頭をよぎりましたが、6年目の小学校教員の試験に挑戦したところ、やっと合格することができました。それから千葉県浦安市にて念願の小学校教諭となったのです。

 社会人になってからも、剣道は、ご縁のおかげで細々ながらもずっと継続はしてきています。稽古を続けていくと、新たな出会いもあり、千葉県、東京都の道場、稽古会との繋がりができるようになりました。自分のもともとの出身である高塚剣友会でも稽古するようになり、現在に至るんです。

──剣道も継続しつつ、ずっと子どもたちの育成にも努める戸田さん。今後の展望などがあればぜひうかがいたいです。

戸田 Toy-Aのような、「子どもたち、そのご家族もが笑顔になれる場所」をもっと増やしていくのが私の夢です。新しいスタイルの教育で育った子どもたちが、社会でどんどん活躍して、それをみんなが認めてくれる世界にしていきたいですね。その教育の一環として、人間形成の道である剣道も大切にしていきたいと思います。

 私は、Toy-Aで子どもたちと剣道をやるようになって、ひとつ自分の夢が叶ったことに気がついたんです。かつて私は、高校教員になって剣道部の指導をすることを夢見ていましたが、結局それは叶わなかったと思い込んでいました。けど、子どもたちと稽古をするために武道場の扉を開けたとき、

「あれ? この子たちってもしかして私が立ち上げたチームなんじゃないか?」

 って気がついたんです。高校の部活動でこそないけれど、それでも「剣道部の指導者になりたい!!」という夢は叶っていたわけです。私の夢を叶えてくれた子どもたちには感謝しかないですし、剣道の未来という意味でも、この子たちのことを大切にしていきたいと思っています。

小学校、中学校、大学と戦績にこそ恵まれないながらも剣道は継続。
戸田さんは剣道への思いを「ダメだと思うことの多かった自分に、剣道は自信を与えてくれた」と語る。
指導者を志してきた戸田さんはいまToy-Aでついに自身のチームをもつに至った。

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