日本人、外国人問わず、
多くの観光客で賑わう東京スカイツリー。
そんな東京の象徴を見上げる好立地にあるのが、
韓国家庭料理&焼肉「豚キホーテ」です。
サムギョプサルをはじめとしたおいしい韓国料理とお酒が楽しめる
豚キホーテ。
お店を営むのは、
韓国から来日して20年になるキム・ジンギュさんです。
過去には韓国トップチームに所属していたキムさん。
現在は日本で剣道の修行に励みつつ、
多くのお客さまにおいしい本場韓国料理を提供しています。
キムさんに、ご自身の華々しい剣歴、来日の経緯などをうかがいました。

プロフィール
金振奎(きむ・じんぎゅ)
1979年7月8日韓国生まれ。退溪院高校1年時から剣道をはじめ、大邱大学、実業団チームと選手として活躍。実業団チームを退団後に来日、日本語学校と調理師学校で学び、調理師免許を取得。韓国家庭料理&焼肉の店「豚キホーテ」を開店させ、現在に到る。自身の主な戦績は、高校時代、大学時代、実業団時代すべてで韓国の全国大会での優勝経験を持つ。剣道教士七段
韓国家庭料理&焼肉 豚キホーテ
https://donkihote.jp/
インスタグラム「donkihote0364561020」
https://www.instagram.com/donkihote0364561020/
本場韓国料理が堪能できる人気店。
オススメ料理はサムギョプサル!

――― 都営地下鉄浅草線・本所吾妻橋駅にある韓国家庭料理&焼肉の「豚キホーテ」。駅からのアクセスもよく、さらに東京スカイツリーからも徒歩7分という好立地。このお店を営むのが株式会社JKの代表取締役であるキム・ジンギュさんです。キムさんからぜひご自身のお店のアピールをうかがえればと思います。
キム 韓国料理を中心に提供させていただいているお店で、メニューのなかでは自家製のキムチ、チーズ海鮮チヂミなどが人気商品です。お店のイチオシで、とくに人気なのがサムギョプサル。お客さまの7割がご注文くださるこのサムギョプサルは、千葉県産のマーガレットポークという豚肉を使用しているんです。全国各地の豚肉を僕自身が試食してみた結果、行き着いたのがこのマーガレットポーク。このお肉の特徴は、その名のとおりマーガレットの花をエサに使用して育てられた豚のお肉だというところ。植物性乳酸菌入りの飼料によって育てられた豚のお肉はとても柔らかく、油にしつこさや臭みがないんです。お肉選びの過程では、全国的にも有名なブランド豚なども食べてみたのですが、たしかに味こそおいしいものの、価格の高さと油の多さが気になるポイントでした。その点、このマーガレットポークはその2点の課題をしっかりとクリアしているうえに味もとてもおいしい。このお肉を生の状態で仕入れして、お店で1日、2日ほど熟成させてからお客さまに提供させていただいています。
お店ではランチ営業もやっていますし、団体のお客さまのためにお得な宴会コースプランも準備してあります。宴会コースプランはとても人気で、8名以上のお客さまであれば幹事の1名分は無料になるので、ぜひ皆さんにご利用いただければと思います。
飲食店となると、お店によってはお客さまの年齢層が限られる例も多いですが、ウチは年齢層が幅広いのも特徴かなと思います。とくに週末となればそれも顕著で、若い方もいらっしゃれば高齢の方もいらっしゃるし、家族連れも多い。いろいろな年齢層の方が来られるところもアピールしたいポイントです。
――― お店のメニューがとても豊富ですが、これらはキムさんが考えられたものなんですか?
キム まずは僕が考案して、それをスタッフたちと試食。それからさらに改良を重ねて決定しています。
僕はもともとは韓国のソウル出身。長く韓国で生活していて、日本に来てから今年でちょうど20年になります。韓国ではずっと剣道をやっていて、大学を卒業したあとには実業団チームに入って剣道を続けていました。日本で実業団といえば企業のチームになりますが、韓国での実業団チームは官公庁所属のチームを指すんです。その活動は日本の警察の剣道特練と同じような感じで、専門的に剣道に取り組める立場にありました。
その実業団チームを辞めて、日本に来たのが26歳のとき。母親が日本で生活していて、こちらで日本人の方と再婚していたこともあって、僕は母を頼って日本に来たんです。日本に来てみると、母の友だちの紹介でいろいろな飲食店でアルバイトをすることができ、多くの料理を勉強しました。そもそも僕自身、大学では寮生活でしたし、実業団チームでもメンバーたちとマンションで共同生活を送っていたので、その当時からよく料理をつくっては仲間たちに振る舞っていたんです。もともと料理することが好きだったし、ずっと得意だったんですよね。
日本の飲食店でバイトしている間に日本語学校に通っていたのですが、そんなとき、韓国人の後輩が「日本の調理師学校に通いたいんだ」と言い出した。彼から「いっしょに調理師学校の体験入学に行きましょうよ」と誘われて、いくつかの学校に通ううちに「俺もやってみようかな……」と思いはじめた。そうして僕も調理師学校に通うようになって、無事に調理師免許も取得しました。日本での飲食店でのバイト経験、韓国での自炊の経験が大いに活かされたと思いますし、かつて僕が所属していた実業団チームのある光州(クァンジュ)というところは、韓国内でもご飯が美味しいことで有名な地域なんです。毎日練習を終えたあとにはチームのみんなと美味しいお店を食べ歩くのが趣味でしたから、味へのこだわりが自然と強くなっていたんだと思います。
――― お店のお料理メニューがお客さまに好評なのは、キムさんのそんなこだわりや料理の知識、腕前が大きく影響しているんですね。
キム 韓国料理もスタンダードなメニューのレシピは存在しているわけですが、やはりそれを自分が求める味にする、「自分のモノにする」作業はとても大切なことだと思います。僕はずっと剣道をやっているけれど、それは剣道でもいっしょ。いま道場では小学生にも指導しているんですが、子どもたち全員が同じ剣道のスタイルになればいいとは思わない。人それぞれ自分自身に合うスタイルはあるのだから、それぞれの個性を活かしていけばいいと思っています。剣道でいえば基本、料理でいえばレシピをちゃんと大事にしながらも、そこに工夫や研究、アレンジを加えることでその人なりの味、その人なりの剣道になる。そこの努力を怠らなかったからこそ、僕の店を「好きだ」と言ってくれる人が増えているんだと思うんです。
――― 調理師学校ではいろいろな料理を学ばれたことと思いますが、やはり故郷の韓国料理を選んだんですね。
キム そこは、韓国人なのだから韓国料理のほうがお客さまも来てくれるだろう、というシンプルな発想です(笑)。いまの店舗は別の場所から移転してきた場所で、以前の店もこの店の近くにあったんです。だから昔からの地元のお客さまはいまも変わらず通ってくださいますし、地下鉄のアクセスがよいのも好条件。とくにインバウンドで海外からのお客さまも増えているので、東京スカイツリーの観光とあわせてご来店いただけるケースも増えてきました。街自体は古いのですが、近年はどんどん開発も進んで、若い方もたくさん住むようになった印象がありますね。
――― 今年、初のアジア・オセアニア剣道選手権大会が開催され、改めて韓国代表がその強さをアピールしました。韓国出身で、韓国トップレベルの実業団チームで活躍してきたキムさんが、なぜわざわざ日本に移住することになったんでしょうか?
キム 僕が実業団チームで活動していた期間は2年半くらい。実業団の先輩、大学や高校の先輩の多くは韓国内で剣道の道場を経営しているのですが、当時はそんな先輩たちに頼まれて、道場の一般の方々に指導をする機会があったんです。実業団選手といえば国内のトップ選手ということもあって、稽古をすればやはり一般の方々には喜んでいただける。稽古が終われば皆さんとの食事会となるのですが、剣道の話については僕が自信を持って皆さんにアドバイスできるものの、いざ剣道以外の話となると皆さんのお話に僕がまったくついていけないんです。道場の門下生の方々は、お医者さんや会社経営者、学校の先生などしっかりとお仕事をされている方ばかりで、それぞれ社会的な地位も高い。一方、当時の僕はまずは剣道が生活の中心。稽古が終わればすぐにお酒を飲みに行ったり友だちと遊んだりで、まるで世のなかのことに関心がありませんでした。しかし、先輩の道場でいろいろな方と話をするうちに「俺は今後どうして生きていくんだろう?」と悩みはじめるようになった。韓国で剣道だけで生きていくには、選択肢には限りがあります。自分で道場を開くのか、既存のチームの指導陣に空きがあればそこに入るのか、そのどちらかしかなかった。道場の皆さんから刺激を受けた僕の頭に浮かんだのは「いまこのタイミングで決断しなければ、違う選択肢を歩むことはできない」ということでした。
僕の家は、母と僕との親子二人暮らしで、ずっと母といっしょに暮らしてきましたが、僕が大学に進学してしまうと母は一人暮らしになり、生活が一気に寂しくなってしまった。母は以前日本で仕事をしていたこともあって、日本語もしゃべれるし友だちもいる。また、韓国社会はどうしても人目を気にする風潮が強いので、母は「日本のほうが私には合う」と。そんないくつかの理由もあって母は日本に移住することになり、こちらで生活していました。僕も自分の将来を考えたとき、やはり日本の環境のほうが自分自身を出して生きていけると思った。それに日本であれば好きな剣道も継続することができる。そこで実業団チームを辞めて、母のもとに来ることになったんです。

日本のインターハイを見て急成長。
韓国トップの活躍を収める

――― なかなかお聞きすることのできない韓国の剣道事情を含め、ぜひキムさんの剣道歴もうかがえればと思います。
キム 生まれはソウルで、育ったところは京畿道(キョンギド)という場所。京畿道では、小学校から高校を卒業するまでを過ごしました。
僕が剣道をはじめたのは高校1年生からで、これは日本の剣道事情と同様に、韓国においてもだいぶ遅めのスタートになります。僕が進学した退溪院(テゲウォン)高校剣道部は、韓国内の大会ではいつも優勝候補に挙がるような強豪チームで、学校自体は小学校から高校までの一貫校。僕自身は中学校からの入学者で、当時から剣道部の存在は知ってはいたものの、そのころはあまり剣道には興味がありませんでした。子どものころから運動自体は大好きで、サッカーやバスケットボールもやっていましたし、一時期はボウリングにも夢中で取り組んでいたのですが、ウチの高校ではどの運動部よりも剣道部が一番強かった。それもあって高校に進学するとなんとなく剣道部に興味が湧き、最初は体験入部のつもりで部活動に顔を出したら自分でも分からないうちに正式に入部することになっていました(笑)。
初心者ですから最初は小学生の部員たちといっしょに基本練習からのスタート。当然のことながら1年生、2年生まではなかなか試合に出るチャンスはなかったのですが、それでも自分なりに努力を重ねた。練習を休むことは絶対になかったですし、自主練習も手を抜くことはありませんでした。そんな姿勢が先生にも認められることになって、2年生の秋くらいから少しずつ試合に出られるようになったんです。
僕自身が大きく変わったきっかけがあります。それは高校2年生の夏のことで、僕は日本に来て山梨県で開催されたインターハイを見学したんです。僕の高校の先生はもうメチャクチャ怖い人だったのですが、僕は先生のことが大好きで、いまでも連絡をしますし機会があればお会いするほど慕っているんです。実はウチの高校と日本の甲府商業高校(山梨)が姉妹校の関係にあり、先生が甲府商業高に行くということで、日本語ができる僕の母に通訳を頼んだ。そこで特別に、当時2年生だった僕もいっしょに日本に連れて行ってもらえることになったんです。
生まれて初めて見た日本の剣道大会は、とにかく僕にとっては衝撃的でした。試合のレベルの高さはもちろんのこと、立派な開会式や閉会式、観客席の応援の熱気など、そのすべてに驚かされました。当時の男子の優勝校は阿蘇高校(熊本)で、白い道着、白い袴姿で戦う姿がとてもカッコよかったのを覚えています。この経験が僕にとってはかなりの刺激となり、大きく意識が変わった。この体験がきっかけとなって、韓国に戻ってから少しずつ試合でも勝てるようになったんです。
――― 高校時代の最高戦績は?
キム 韓国の高校生の大会は、年間で5つしかないんですが、そのひとつである春の高校選抜大会で高校3年生のときに団体優勝できました。僕自身も負けた試合はなく、勝ちと引き分けだけというまずまずの結果で大会を終えることができたんです。
――― 高校1年生から剣道をはじめたのに全国優勝とはすばらしい成長です。高校卒業後の進路は?
キム 高校の先生のはからいで、大学は韓国で一番強い学校に行かせてもらったんです。大邱(テグ)大学という学校なんですけど、ここの剣道部は高校の全国大会個人戦で1位、2位になった選手だけが行けるようなトップレベルのチームで、韓国でも一番稽古量が多いと言われていました。僕自身は高校時代の個人戦績はベスト8が2回あるくらいですから、そこまで名前は売れてはいなかった。それだけに大学に入学してみると、「お前は誰? なんでいるの?」みたいな感じで、先輩たちからはずいぶん厳しくされましたね。
大学の特待生制度はとても恵まれていて、学費、寮費、食堂での食費がすべて免除で、普通に生活するぶんにはいっさいお金がかからない。それだけに、部員も各学年4人のみ、全学年合わせても16人という少数精鋭で、9人の選手の枠を争う競争はとても激しいものでした。死に物狂いで稽古をした結果、最初は交代メンバーとしての起用でしたが、3年生の秋くらいから試合には出場できるようになりました。4年生になると僕はキャプテンに任命されたのですが、実は2、3年生のときはウチの大学は団体優勝を逃してしまっていたんです。だから、キャプテンになった僕はその権限を最大限に利用して、後輩たちに「みんながもし大会でがんばってくれたら、そのぶん休みの日を増やすよ」と(笑)。その結果、出場した4大会のうち3大会で優勝することができて、キャプテンとしてホッとひと安心したことを覚えています。

――― 大学を卒業したあとは実業団チームに進むんですか?
キム いえ、韓国には徴兵制がありますから、僕は大学卒業後すぐに軍隊に行くことにしました。韓国の学校は2月が卒業式なので、そのあとの3月にはもう入隊したんです。それが2002年の日韓サッカーW杯のときでした。
軍では主に運転が専門で、トラックで物資を運んだり人を運んだりしながら2年2ヶ月の期間を過ごし、2004年5月に徴兵を終えます。
徴兵を終えたあと、ちょうど欠員の出た実業団チームにタイミングよく入ることができたのですが、そこは剣道のスタイルの違いからあまり長い期間在籍することなかった。その次に入ったのが光州市庁でした。光州はソウルから4時間くらい離れたところにあるチームで、ここで春の団体優勝を達成。こうやって振り返ると、僕は春にばかり優勝していますね(笑)。この光州のチームで2年ほど過ごしたあとに日本へとやって来たわけです。
日本語がまったくしゃべれない状態での来日だったので、剣道は日本に来てから1年ほど経ったころからはじめました。いまも所属している浅草田原道場は、母の友だちで剣道をやっている方から紹介してもらった道場です。僕にとって運がよかったのは、自分の剣道スタイルが攻撃型だったこと。町の試合に出場したときでも、どうしてもガツガツとやってしまうので自然と目立ってしまう(笑)。その結果、「あの人は誰?」と注目され、そこで声をかけていただいたのが谷中道場の福本滋彦先生(教士八段)でした。福本先生にかわいがっていただいたおかげで、多くの有名な先生方とのご縁もできました。講談社の野間道場の会員にもなって朝稽古に参加するなど、稽古環境についてはとても充実していたのですが、やはり商売をしながら剣道をするのはとてもタイヘン。とくに飲食店は、予約でもない限りはいつお客さまが来るかわからない。いまはやっと社員やアルバイトにも手伝ってもらうようになって、自分の休みも少しは取れるようになってきたのですが、稽古のペースとなると週に1回、2回できるくらいですね。
そんな忙しい状況のなかでもなんとか時間を見つけて続けているのが、韓国から剣道チームが来日したときのサポート。稽古場所を紹介したり、チームを案内しつつ自分もいっしょに稽古をして交流をはかる。向こうからのお願いがある限りは、こういった韓国チームへのサポートはずっと続けていきたいですね
――― 日韓の架け橋にもなっているキムさん。それでは最後に、お仕事、そして剣道の今後の目標を教えてください。
キム 僕ももう50歳が近い。それだけに、いまは第二の挑戦をするタイミングだと思っていて、自分の希望としては今年か来年あたりにもう一店舗をオープンできたらいいなと考えています。
剣道については、まだまだ時間はありますが、八段への挑戦が控えているのでその審査に向けてがんばりたいです。おかげさまで八段の先生方と知り合うチャンスにも恵まれていますし、先生方と親しくお付き合いさせていただくなかで八段への憧れの気持ちも強まってきました。僕自身、安住しているのはどうしても苦手で、つねになにかに挑戦をしていたい性格。目標さえあれば、人は何歳まででもがんばれる。そんな意識でこれからも努力を続けたいですね。


































この記事へのトラックバックはありません。