伝統に自己流を加え、さらなる事業拡大も視野に(松岡勝彦/株式会社松岡工務店 代表取締役

情緒あふれる倉敷美観地区を誇る岡山県倉敷市。
同市にある株式会社松岡工務店は
社寺建築で培った伝統構法技術を活かし、
神社・仏閣の改修工事はもちろん、
注文住宅の新築、古民家修復リフォームと
幅広く手がける総合建設の工務店です。
現在代表取締役を務めるのは松岡勝彦さん。
家業である工務店を松岡さんが継いだのは38歳のとき。
それまでは大阪の地でまったく別の道を歩んでいました。
仕事も剣道も、地元密着の活動を精力的に続ける松岡さんに、
自身の歩んできた道のりをうかがいました。

プロフイール


松岡勝彦(まつおか・かつひこ)
1967年岡山県生まれ。関西高校(岡山)から大阪産業大学に進学。大学卒業後は職員として大阪電気通信大学に勤務、同大学剣道部の監督も務める。その後、父の体調不良により岡山に帰郷。生家が営む松岡工務店を引き継ぐ。剣道は5歳からはじめ、高校時代にはインターハイ団体戦出場、中国大会団体戦2位。大学時代は全日本学生優勝大会出場、全日本学生選手権大出場などの実績がある。現在は自身の出身道場でもある児島武道館団長、児島剣道連盟会長を務めている。剣道教士七段 

株式会社松岡工務店:http://www.matsuoka-koumuten.com/

大阪時代の「剣縁」を支えに
伝統工法技術を継承

家業を継いだ松岡さんだが、もともと大阪産業大学卒業後は大阪電気通信大学に職員として勤務。38歳で帰郷し、生家を継ぐこととなった

──株式会社松岡工務店の代表取締役を務める松岡勝彦さん。まずはお仕事について、現在に至るまでのお話をうかがえればと思います。

松岡 もともとこの会社は僕の父親がはじめたものです。父は職人で、宮大工の技術を活かして神社や仏閣の改修工事などを手がけていました。最初は個人でやっていましたが、いろいろな工事を請け負えるようにと平成7年に有限会社を立ち上げ、その後、僕が岡山県の実家に戻ってきてから株式会社となり、もう17年が経過します。ウチの会社の規模であれば株式会社化する必要はなかったんですが、やはり大手の下請けをしようと思えば株式会社である必要がある、と判断したからですね。

──「実家に戻ってきた」ということは、もともとどちらかで働かれていたんですね。

松岡 僕は大学は大阪産業大学に進学したんですが、実家の両親からは「家業は継がなくていい」と言われていたこともあって、大学卒業後も大阪に残って大学の職員として働いていたんです。しかし、大阪で16年ほど働いたタイミングで実家の父が倒れてしまった。松岡工務店はもともと父と母親とで切り盛りしていたんですが、家族や親族とも今後のことを話し合った結果、僕が実家に戻って家業を継ぐことを決めました。それが19年前のことです。
 当時僕はすでに38歳で、大阪での仕事も充実していましたから、そこから実家に戻るにはやはり相当の勇気が必要でしたね。しかももともと家業を継ぐ気がなかったものですから、現在の仕事の専門知識もなく、イチから勉強しなくてはいけませんでした。

建築関係の専門的な知識もないまま、家業を継ぐこととなった松岡さん。会社を経営するにあたっては、やはり勉強は欠かせなかったそうだ

──充実していたという大学職員時代はどのようなお仕事を?

松岡 僕が勤務していたのは大阪電気通信大学で、そこでは長く就職課で働いていました。学生の就職を支援する仕事は僕の性に合っていたのか、とにかく楽しかったですね。学生たちを就職まで導くことが僕の仕事の目的ではありましたが、結果のみにとらわれて誰彼構わず企業に紹介してしまうようでは学生の将来にもつながりませんし、採用への道もいずれ途絶えてしまいます。学生とそして企業の適性、相性をしっかりと見極めることがとても重要で、その作業が僕にはとても楽しかったですね。

 その当時は仕事を通じて、普通に働いていてはとても会うこともできないような企業のトップの方々とのご縁にも恵まれました。実際、僕が大学職員を辞めて岡山に戻ると決めたとき、今後必要になるであろう「営業」の知識をレクチャーしてくださったのは某大手家電メーカーの方でした。もともと学生の就職支援の仕事で知り合った方ですが、個人的なご厚意で月に1回ほど営業の基礎からを教えていただいたんです。大阪で過ごしたあの時期は本当に人とのご縁に恵まれた貴重な時間だったと思います。

──「宮大工」という仕事は、建築の分野のなかでもかなり特殊なジャンルとなるのでは?

松岡 そうですね。もちろん普通の工務店とは違う部分はあります。僕自身、基本的には伝統文化を踏まえた施工は継続、拡大していきたいという思いもありますが、実際のところ神社やお寺の改修工事のサイクルは7年から10年という長い周期のものですし、いったん取りかかってしまえば工期には2、3年ほどかかります。ですからそれのみに集中してしまうとウチの会社の規模ではいずれ倒産してしまう危険性も高い。  

 しかしその点、父の親方も先見の明があった方で、父に対しては宮大工としての専門的な技術だけではなく、オールマイティな工法を教えてくれた。それもあって神社・仏閣の改修工事以外の仕事、たとえば注文住宅の新築だったり、古民家住宅のリフォームだったりと手がける仕事を広げることができたんです。

 いま現在、父自身はもうさすがに現場に立つことはなく、仕事自体は職人の手を変えて幅広く承っています。神社・仏閣の改修については、大阪に本社のある世界最古の企業と言われる株式会社金剛組さんの手を借りて継続的に仕事をさせてもらっていますし、そのほかの仕事となるとちょうどいまは兵庫県の西明石でうどんチェーン店の店舗の建築を手がけているところです。

──お父さまも結果的にお体に大事がなくてよかったです。

松岡 ありがとうございます。父は現場に立つことこそなくなりましたが、いまはその材料の「目利き」の部分で会社に貢献してくれています。建築資材を材料屋さんから仕入れようとするとワンクッション入るぶんどうしても経費が嵩みます。ですからどうしても市場に買い付けに行かなければならないわけですが、ここで重要となるのがその「目利き」。これは剣道にも同じことが言えるかもしれませんが、やはり高段位の先生方となると同じ剣道を見るのでもどこか他の人とは違うところをご覧になる。僕にはまだその目利きができないので、そこはいまだに経験豊富な父に頼らざるを得ません。

──松岡さんはまったくの未経験からこの業界に飛び込まれたわけですが、仕事をする上で心がけてきたことはどのようなことでしょう?

松岡 僕のやっていることは自己流が多いんです。伝統建築というとやはり古くからある「習わし」を大切にしなければいけませんが、時代はつねに変化していくものですから「習わし」を守るだけではいずれ頭打ちとなる。ですから自分の頭で考えて動いていく。自己流を築き上げていくことが大切だと考えています。

 先ほどの材料の目利きの話で言っても、そもそも材料自体の品質が気候の変化に伴って変わってきています。それだけに古い価値観にとらわれてばかりでは、せっかくのいい材料がうまく活かせない例だってあるわけです。

 技術にしてもいまはどんどん新しいものが開発されていて、たとえばお仕事でお付き合いさせていただいている東京の大手の建築会社さんでは、神社や仏閣の復元作業には3D CAD(立体データによる設計支援ソフトウェア)が導入されているんです。3D CADの機械自体は一台1000万円もする非常に高価なもの。この最先端技術を使うことで復元の精度は格段に高まっています。

 いい材料、たしかな技術は実際に大切なものですが、僕自身はこの仕事でもっとも重要と感じるのはプレゼン能力です。先日もあるお寺でプレゼンをさせていただきましたが、やはり神社やお寺の方に専門ではない建築業務の内容をご理解いただくのもなかなか大変なこと。我々の仕事の場合、お客さまにご理解をいただけてはじめて仕事につながりますから、その点を熟考することは避けては通れない毎回の課題です。

 この仕事に携わって以降、日々難しさばかり感じていますが、そんななかでも僕がなんとかがんばってやれているのは「剣縁」のおかげです。実はいま仕事関係の業者さんの多くは剣道関係者の縁でつながった人たちばかり。過去、仕事を頼んだ業者さんに突然逃げられてしまったというツラい経験も少なくなく、そんな裏切りにあうたびに悔しさと悲しさを感じたものですが、剣縁を頼って依頼した業者さんであれば絶対にそんな裏切りは起こりませんし、信頼があるぶん仕事自体もとても丁寧にやってくれます。剣縁の頼もしさとありがたみを感じつつ、改めて剣道に生かされた人生であることを噛み締めています。

工務店経営にあたって、多くの人の協力を得られているのは松岡さんの人柄によるものも大きいだろう。写真左が木内棟梁(株式会社木内組社長)金剛組匠会会長、中央が吉川棟梁(株式会社吉匠建築工藝会長)で、ともに松岡さんにとっては仕事上の大先輩にして大恩人だそうだ

大学剣道の監督も経験。
「少年剣道の未来に貢献したい」

松岡さんが青春時代を過ごしたのは関西高校剣道部。強豪選手が揃った松岡さんらの年代は岡山県予選を突破し、インターハイへの出場を果たした

──松岡さんの剣道のお話もうかがいたいと思います。現在は地元で少年指導に携われているとか。

松岡 僕自身の出身道場でもある児島剣道少年団で、いまは団長を務めています。大阪から岡山に戻ってきた当初はやはり仕事を覚えることが最優先。剣道からはしばらく離れようと思っていたのですが、僕が帰郷した噂を聞きつけた地元の関係者の方々からご連絡をいただいて道場に戻ることになりました。4年前からは児島剣道連盟の会長も任せていただいています。
 
──もともと剣道をはじめたのは?

松岡 5歳のときからです。当時は小児喘息で苦しんでいたこともあって、その症状が少しでも改善すればという期待もあって入門しました。当時は地域の剣道がとても盛んで、小学生だけで160人の会員がいましたが、現在の会員は20人ほどですからずいぶんと寂しくなってしまいましたね。
 当時の道場の稽古はそれはもう厳しかったのですが、我ながら努力をしたと思います。中学生時代にはこの地区では優勝できるようになり、県大会の個人戦ではベスト4に入賞することができました。その戦績を評価していただけたのか、いろいろな強豪高校からお誘いの声をいただいたんです。そんななか選んだのは関西高校で、関西に強い選手たちが集まると耳にしたので僕も入学を希望したんです。

──関西高校は伝統校ですね。

松岡 関西剣道部は過去に個人戦ではインターハイで2位に入賞した先輩もおられましたが、僕が入学した当時は団体戦でのインターハイ出場からがだいぶ遠ざかっていた時期でした。やはり県内には西大寺高校、鏡野高校(現在は廃校)などの強豪校がいたものですから、県大会ではつねに2位に甘んじることが多かったんですね。それだけに選手が揃った僕たちの代は悲願のインターハイ出場を期待されて、入学時点から「3年計画で鍛える」と言われていたんです。
 僕たちの代の選手たちは3年生の先輩が引退した1年生の秋から主力を任されるようになって、7人のメンバー中、2年生の先輩が1人入っていただけであとはみんな同級生。2年時のインターハイ予選でこそ作陽高校に負けてしまいましたが、自分たちの代には悲願のインターハイ団体戦出場を叶えることができました。関西剣道部としては25年ぶりの快挙でした。

──見事に期待に応えたんですね。

松岡 僕自身のことはさておき、チームのメンバーがとにかく強かったですね。最終学年のチームになってからは全国の強豪校とずいぶん練習試合もやりましたけど、正直なところ負けた試合は10試合もなかったと記憶しています。しかし、むかえたインターハイ本戦の結果は予選リーグ敗退。八代東高校(熊本)と和歌山東(和歌山)という不運な組み合わせを当時はずいぶん恨んだものです。

──その後は大阪産業大に進学することになります。

松岡 僕が大産大に進学したきっかけは、まず監督からお声がけいただいたときに「大学卒業後は職員として大学に残ることも可能だから」という条件を提示いただいたからなんです。
 僕はもともと将来的には剣道の指導者になりたかったんですよね。剣道の指導者というと中学校や高校の教員がイメージされやすいかと思いますが、中学、高校で指導をした場合、教員という立場上、やはりどうしても私生活の段階から生徒に指導することになります。指導者の価値観を教え子に伝えることは重要なことだとは思いますが、生徒を指導者の考えにどっぷり浸からせすぎてしまうと生徒たちの「伸び代」がなくなってしまうような気がしたんです。その点、大学であれば指導者も学生に対しては大人として接しますし、学生たちの自主性を尊重しつつ指導ができる。その距離感が僕には魅力的だったんです。
 しかし、入学して話を聞いてみると監督はじめ指導スタッフはどの部員に対しても「大学に職員として残れる」と話をしていたようで(苦笑)。実際のところ大産大の職員となる道は準備されていなかったんです。それを目的に入学した僕にとってはこれは一大事。就職活動をする時期になると監督に「約束でしたよね?」と詰め寄り、その結果、紹介してもらったのが大阪電気通信大の職員の道だったんです。

──大産大剣道部での4年間はいかがでしたか?

松岡 部には強い先輩方もたくさんおられましたが、やはり大学剣道界では圧倒的に関東勢の層が厚かったので、そんな強豪チームと対等に戦うためにはただ大学の稽古をこなすだけではダメだと感じていましたね。大学以外にも自分から求めて稽古をしなければいけない。そんな思いから取り組んだことのひとつが大阪府警の有馬光男先生(範士八段)が主催されていた「有馬会」と呼ばれる稽古会への参加でした。有馬先生ご自身も岡山の出身で、私が高校生のときに関西の稽古に来てくださったんです。そのときからご縁があって「大阪に来てなにかあれば連絡を」と声をかけていただいていたんです。ですから大会前の大事な時期には週に1回ほどのペースで、稽古前日の夜に有馬先生のご自宅に泊まらせていただいて翌朝の稽古に参加していました。
 また、僕にとって大きかったのが故郷岡山での稽古。大学剣道部がオフとなり、帰省した際には少年時代からお世話になっている山根昇先生(範士八段)に稽古をつけていただいていたんです。学生時代、帰省することは山根先生にはお知らせしていないのに、不思議なことにこちらの帰るタイミングを完璧に把握されていて、家に帰るや「稽古に来なさい」と電話が来るんです(笑)。そこに高校時代の同期生といっしょに参加しましたが、まあその稽古はキツかったですね(苦笑)。
 結果的に大学時代は全国大会には出場できましたが、残念ながら上位に進むまでには至りませんでした。しかし、その舞台で関東大会2位の戦績を残している専修大学に勝つことができたのはいまも忘れない良き思い出のひとつ。有馬先生、山根先生に鍛えていただいたおかげだと感謝しています。

──大阪電通大勤務時には剣道部の監督を務めていたんですね?
 
松岡 就職2年目の段階で、学生から話が来て就任することになりました。しかし、そもそも大学自体が剣道を強化するような学校ではありませんから、剣道のなにか戦績がある部員もいませんし、部員数も毎年平均7人程度。それだけに剣道に対する意識もさほど高くはないですから、団体戦で大会にエントリーしても当日ドタキャンする学生もいたりと、最初はなにかと苦労しましたね。
 当時は僕もまだ若く、自分自身でも試合にも出ていたものですから、基本練習の段階から学生たちといっしょに稽古に取り組んで、要所要所の試合の大事なポイントを積極的に指導するよう心がけました。その結果、団体戦での結果こそ厳しいものがありましたが、個人戦では監督就任2年目の時点で1人の学生を全日本学生選手権大会に出場させることができましたし、それ以降も大阪電通大の学生たちは毎回、個人戦においては全日本学生選手権大会への出場権がかかる試合にまでは進んでくれるようにはなりました。

岡山に帰郷後は自身の出身道場でもある児島剣道少年団で少年指導にあたっている

──現在はどのような思いで少年指導に携わっておられますか?

松岡 まず考えているのは少年たちには「剣道を好きになってもらうこと」。試合で強い、弱いというのは、その延長線上にあるものだととらえています。勝負は剣道のなかでもとても魅力的な要素ではありますが、そこを優先して指導してしまうと中学、高校と成長していくどこかの段階で脱落してしまう子が必ず出てくるんです。ですからあまり勝負にこだわりすぎることなく、生涯剣道につながるような指導を心がけています。

──それでは最後に、お仕事と剣道それぞれの今後の展望などを聞かせていただければ。

松岡 まず仕事では、今後は縁のある大阪にも事務所を出して、建築分野での事業拡大はもちろんのこと、それ以外の分野にも進出していきたいという思いがあります。この岡山で建築事業のみをやっているだけでは、やはり仕事もある程度決まった範囲内でしか展開ができません。そういう意味では今後は関西、さらに将来的には東京進出も視野に入れて市場を広げていきたいと考えています。
 大阪はもともと僕自身が培ってきたネットワークが活かせる場所ですし、実はいま東京にも深い縁があるんです。僕には男の子と女の子と2人の子供がいるんですが、上の男の子はもともと耳が悪くて、その子の手術のために通院したのが東京都世田谷区にある病院でした。東京進出の意図としてはもちろん人材が豊富な都会というメリットもありますが、そういう息子の縁もあるからこそ。僕の妻もケアマネージャー、介護の資格を持っていることもあって、たとえば医療分野への進出も決して現実味のない話ではありませんし、もしかしたらリハビリ施設の建築、リフォームなどでいろいろとご協力もできることもあるかもしれないなと。
 剣道については、やはり八段審査ですね。もともと大阪で六段まで取得して、七段は岡山に戻ってから合格させていただきました。いま僕は県の一般の部の指名強化選手に選んでいただいていることもあり、その稽古会に参加した際にはすばらしい先生方に鍛えていただくことができますが、基本的には週に2回ある少年指導の場がメインとならざるを得ません。剣道界の最高段位である八段の合格はかなり険しい道のりであり、現在の僕の稽古量ではかなり心もとないことも理解していますが、それでもなんとか一次審査くらいは通過したい。いま僕は56歳ですが、まずいまの目標としては60歳までは控える八段審査にはフルでチャレンジしていくつもりです。

「剣道を好きになってもらうこと」を第一に少年指導と向き合う松岡さん。生涯剣道につながる基礎基本を重視して指導しているそうだ
2017年には岡山県代表チームの監督として第12回都道府県対抗少年剣道優勝大会に出場。松岡監督率いる岡山チームは同県初の日本一に輝いた
2人のお子さんもそれぞれ中学校では剣道部に所属。ご家族の支えを受けつつ、自身は八段審査への挑戦を修行の大きな目標に据えている

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