独立から10年、
人材育成コンサルタントとして活躍する北宏志さんは、
かつて学校の教員として勤務していた経験があり、
サラリーマン時代に駐在した中国では
日本のランドセルブームを巻き起こしたという
一風変わった経歴の持ち主です。
教員時代を思わせるその快活な語り口からは想像できませんが、
実は過去には「うつ病」に苦しみ、
それを克服してきたという経験を持つ北さん。
現在に至る歩みについてうかがえば、
その道のりはつねに剣道とともにあり、
剣縁に救われてきた人生でもありました。
プロフィール
北宏志(きた・こうじ)
1983年8月9日、北海道生まれ。埼玉県立川口北高校から大東文化大学に進学。大学卒業後、立命館大学に関係する中高一貫校で社会科教諭として勤務したのち、「ララちゃんランドセル」を製造・販売する(株)羅羅屋に転職する。中国での駐在期間を経て日本に帰国後、独立。企業の人材育成コンサルティングを中心に事業を展開している。剣道は小学校1年時よりはじめ、現在は錬士七段の腕前を誇る。
株式会社ポールスターコミュニケーションズ
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過去のあらゆる経験が
いまの自分の武器となる

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――― 株式会社ポールスターコミュニケーションズの代表取締役を務める北宏志さん。過去には学校の教員として勤務、そのあと企業に就職していた時代には海外駐在の経験もあるという異色の経歴を誇ります。
北 独立してからいまちょうど会社は9期目を終えたところで、いよいよ10年という節目をむかえます。独立して最初のころやコロナ禍などではもちろん苦しい時期を過ごしはしましたが、いまはおかげさまでなんとか売り上げも安定してきました。
――― ご自身の営む事業の大まかな内容を教えていただければ。
北 人材育成のためのコンサルティング会社を経営しています。企業さまの新入社員研修や講演会のご依頼だったり、コンサルタントとしてご依頼主である企業さまに入らせていただいて人材育成のための仕組みづくりをしたりと主にそういった内容の事業を営んでいるんです。
ありがたいことに多くの企業さまにお声がけいただけている状況ではありますが、なかでも剣道のご縁によるご依頼をいただけているのが私にとっては本当にうれしいこと。私自身、剣道を長く続けてきたことで、剣道関係の人脈が広がってきたわけで、たとえば今日も剣道関係の後輩が経営する企業さまでコンサルをしてきたところで、自分は剣道のご縁のなかで生かされているということを改めて感じています。
――― 北さんが主に対象とされているのは「人」ですから、時代の移り変わりとともにそのお仕事内容もまた細かな変化や対応が求められそうですね。
北 おっしゃるとおりで、近年の顕著な変化として挙げられるのが「離職者の減少」に関するご依頼が多いこと。いま10代、20代の若者を「Z世代」などと呼ぶわけですが、この世代の若者たちの育成について、いままでの常識が通用しないと考えている会社さまが非常に多いんです。かつてであれば新入社員がたとえ1、2年で辞めたとしてもまた新しい人材を採用すればいいという考えが通常でしたが、現在はそもそも少子化の影響による人材不足が大きな問題としてあるので採用自体が難しくなってきている。いざ採用したとしても、彼ら彼女たちをどのように育成して、戦力としてどう企業に定着化してもらうのか。そんな部分にお困りの経営者さんが、企業規模の大小を問わずに増えてきています。
私がご依頼をいただいた際には、若手社員の方々に対して研修をさせていただいたり面談をさせていただいたり、ときには上司の方々に対してマネジメント研修をさせていただくといった対応をしていて、企業さまによっては「若手社員が会社に定着するような仕組みづくり」のコンサルティングのご依頼を承ることもあります。
ちょっとおもしろい話で言うと、実は某プロ野球球団からもZ世代の育成に関するご依頼をいただいたんです。私の著書を読んでいただいたということで球団本部の方からお電話をもらったんですが、そのチームは登録メンバーの9割近くが「Z世代」であると。そしてチームの監督、コーチとなると当然その上の世代の方々なので、いまの選手たちに対してどのように接したらいいのか、どうのようにコーチしたらいいのかで悩んでいる、というご依頼内容でした。詳しくお話を聞いてみれば、たとえば監督、コーチがトレーニングの指導をしても、若い選手たちは「いや、この前僕が観たYouTubeではこうするといいって言っていたので、僕はそちらのやり方でやります」と当たり前のように回答してくるとのこと。球団からのご依頼は「Z世代との関わり方、教え方」というテーマで2時間くらいの研修を、というものだったので、監督、コーチ、球団職員の方全員で150人ほどに集まっていただいて研修をさせていただきましたが、改めていろいろな業界がZ世代の育成を大きな課題ととらえているのだと感じた印象深いご依頼でした。
――― 現在は人材育成のプロとしてご活躍中の北さんですが、興味深いその職歴についても詳しくお話をうかがいたいです。
北 もともと私は学校の教員になって剣道部の顧問をすることが長年の夢で、大学卒業後、22歳のときに念願叶って立命館大学関連の中学・高校に勤務できることになりました。まずは北海道にある立命館慶祥中学校・高校で3年勤め、そのあと大阪の初芝立命館(現大阪立命館)高校に赴任することになるのですが、北海道、大阪どちらの学校でも剣道部での指導には携わることができて、それはもう充実した日々を送っていたんです。しかし、その一方で教員として過ごす日々は悩み多きもので、職場の人間関係や膨大な仕事量に少しずつ心身が疲弊してしまっていて、結果的に「うつ病」を患ってしまうことになります。
2、3ヶ月ほどの休職期間を経て3年勤めた大阪の学校の退職を決めると、幸いうつ病自体は回復へと向かいましたが、やはりお世話になった剣道部の先生方や残していく生徒たちのことを考えると申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになりました。
私がそのあと勤めるのが「ララちゃんランドセル」でおなじみの(株)羅羅屋(ららや)。「なぜランドセル?」と驚かれることも多いのですが、実は羅羅屋の創業者は私の叔父で、叔母、従兄弟、そして私の父母も働いている企業だったんです。当時はまだ病み上がり状態だった私は、身内に引き取られるようなかたちで教員から会社員へと転職をすることになりました。
転職してまず1年目は東日本大震災後の福島県で工場の立ち上げ事業に携わり、そのあと3年間は中国に行って日本製のランドセルを販売するという仕事に従事しました。中国である程度の成果をあげ、駐在期間を終えたのちに日本に戻ってきたわけですが、このタイミングで私が考えたのが独立でした。当時は友人たちからも「身内の経営する会社で、将来的には役員も保証されているのになんで独立を?」と呆れられたものですが、いま振り返れば若気の至りとでも言うのか、「俺は自分自身の腕一本でもやっていけるんだ」という根拠のない自信を周囲に知らしめたかったんだと思います。
人材育成のコンサルティングという業種については実はもともと私自身が意図したものではなくて、いつの間にか新入社員研修の講師などを頼まれるようになっていたことがきっかけでした。私の教員としての経験や海外駐在の経験を買っていただけたのか、なぜか知り合いの企業さまから「社員たちの前で話をしてほしい」というご依頼が増えていった。私自身もたしかに教員時代には毎回授業づくりの準備には余念がなく、その内容が充実したものであるようつねに心がけていましたし、仕事柄人前で話すことにも抵抗がなかったものですから、それが要因となったのか、その後も自然と仕事が増えてきた感じなんです。
――― 期せずして、いままでの経験がすべて大きな武器へと変わったわけですね。
北 そうですね。実際のところ、コンサルティングの分野で独立をされている方の多くはもともとがコンサルティング会社の出身で、そこでコンサルのノウハウを学ばれてきたという例が多いんです。その点、私の場合は教育者としては「人づくり」、羅羅屋のビジネスマンとしては「モノづくり」を実際に現場で経験してきていた。これはたしかにほかのコンサルの先生方や講師の先生方とは大きな差別化がはかれているポイントかなと思います。
――― 実務経験の有無はやはり説得力に大きな違いをもたらすように感じます。ひとつ興味深いのが、北さんが中国という異国でどのようにしてランドセル販売の成果をあげたのかというところ。現地の事情にも詳しくないものですから、ぜひその点もお聞きかせ願えれば。
北 中国に渡るにあたって、私がまず有力だと思っていたのが日本人学校だったのですが、現地のニーズを調査してみたところ、これがまるでダメだったんです。結果的に、まず成果が出た販売先としては、中国国内にある勉学面で優秀な学校でした。そういった学校に子どもを通わせる保護者さんはやはり経済的にも裕福な方が多くて、ご自身も過去に日本への留学経験があったり、家族旅行で頻繁に日本を訪れる機会などもあることから、まずそもそも日本文化に興味がある方が多かった。日本文化を代表するコンテンツとして「アニメ」はいまや世界中で流行しているものですが、中国でもそれは当時から大人気で、「ドラえもん」や「名探偵コナン」、「ちびまる子ちゃん」を知らない人はいないほどです。これらの作品で自然と目にするのが、登場キャラクターたちが背負っているランドセルで、中国の人たちは以前から「みんなが背負っているあのカバンはなに?」とずっと不思議に感じていたようでした。
日本では子どもが通学のために用いるランドセルですが、たとえば中国の社会人の方は会社に電動バイクで通われるケースも多いため、両手が自由に使えてノートパソコンも収納できるランドセルは出勤用に最適なんです。そんな理由から若い女性の方が購入してくださる例も多く、その用途の幅に関しては日本よりも中国のほうが圧倒的に広かったですね。
商品が話題になれば、今度は販売代理店の確保が重要になってくるわけですが、ここで活きたのが剣道でのご縁です。私は現地でも剣道をやっていたのですが、いろいろなところに稽古や試合に行ったり審判に行ったりするなかで自然と現地の方との交流も広まっていました。中国の剣道愛好家の方には企業の社長さんなども多く、そういう方々が私の代理店探しにも積極的に協力してくださった。そのおかげで日本のランドセルが中国全土に広がっていったわけです。思えば、羅羅屋に転職して1年目、福島の地でも剣道には大いに助けていただいた。取り引き先の社長さんが剣道関係の方であったり、現地の愛好家の皆さんにもいろいろな情報を教えていただけたことで、見知らぬ地であった福島での生活が実に充実したものになりました。剣道がつなげてくれる人脈の広がり、いわば「剣縁」に私はずっと助けられながら生きているんです。
新たなステージに身を置くたび
不思議な縁に助けられてきた

――― 剣道の話題が出たところで、ぜひ北さんの剣歴などもおうかがいしたいと思います。まず、剣道のスタートというのは?
北 私は北海道江別市という札幌の隣町に生まれまして、剣道は小学校1年生のときから地元の大麻剣道スポーツ少年団ではじめました。はじめたきっかけは親の勧めで、両親は剣道経験者ではないながらも「礼儀を身につけるのに剣道がいいのではないか」という理由で私に勧めてきたようでした。しかし、私は最初に道場に見学に行ったときの記憶がいまも鮮明で、大きな声を出しながら竹の棒で頭を叩き合う光景には当時かなりの驚きを感じましたし、また道場の髙井雅一先生(教士七段)は基本に忠実な指導をされ、礼儀にもとても厳しい先生でした。いざ剣道をはじめてみれば、試合で勝てるようなこともなかったので、なかなかおもしろさを見出すことはなかった。それでも親は厳しくて、「皆勤賞を狙え」と言い出すものですから、休むことも許されず、小学校5年生くらいまではずっと「辞めたい」という気持ちを抱えながら道場に通い続けていました。
転機となったのは試合に出られるようになったことで、小学5、6年生くらいからボチボチ試合に出るようになると、大会の場では違う道場の友だちにも会えることもあって、少しずつ剣道が楽しくなってきたんです。そのあと中学校でも剣道部に入部し、自分なりにやりがいを感じながら剣道を続けていたのですが、中学2年生に上がるタイミングで、父の仕事の都合で埼玉県に引っ越すことになりました。当時父は北海道で百貨店に勤めていたのですが、その時期から叔父の営む羅羅屋へと転職することとなり、私は埼玉県の川口市立戸塚中学校に転校することになったんです。
私自身にとっては人生はじめての転校で、しかも中学2年生という中途半端なタイミングだったものですから、なによりも不安だったのが学校生活にうまくなじめるかどうか。そこで、友だちをつくるためにも剣道部への入部を決意し、運よく新学期がはじまる前の春休みの段階から部活動に参加できるようになったんです。当時私が通っていた中学校は大きくて、剣道部員も多かった。そんな部員たちはみんな親切な子たちだったこともあって、始業式のときにはもうすでにみんなとは仲よくなることができて、そのおかげで新しい学校生活にもすんなりとなじむことができました。
中学時代の剣道部は、専門的に指導してくれる先生は不在で、部員みんなで工夫しながら日々の稽古に取り組んでいるような状況でした。結果的に県大会での戦績はベスト16とか32とかその程度ではありましたが、それでも川口市内にある20数校のなかから県大会に進めるのはたった3校のみだったので、その三つの枠に入ることができたことについては自分たちなりの努力の成果として、いまもいい思い出として記憶に残っているんです。
高校は地元の埼玉県立川口北高校に進学しましたが、こちらは公立の進学校でした。監督には日本体育大学出身の遠井学先生(現埼玉県高体連剣道専門部長)がおられて、毎日2、3時間ほど集中して稽古に取り組むような環境。中学時代に遊びの延長のような感じで稽古をしていた私にとってはこれがなかなかキツく、稽古についていくので精一杯だったことを覚えています。剣道部の当時の目標としては関東大会出場を掲げていましたが、高校時代は結果的に「もうひとつ勝てば関東大会に」という惜しいところで県大会で敗北を喫してしまいました。
――― 高校卒業後に進学した大東文化大学は剣道の伝統校でもありますね。
北 私には将来的に教員になりたいという夢がありましたから大学への進学はそもそもの希望ではあったんです。しかし、高校時代の剣道の実績などはまるでないのでスポーツ推薦は望めない状況でした。教員になって剣道部の顧問を務めるのであればやはり大学でも剣道部に所属しておいたほうがいいという発想はありましたから、どの大学に進むにしろその学校の剣道部の状況は気になるところはありました。高校時代のあるとき、関東学生優勝大会を見学に行く機会があったのですが、そこで見た明治大学、駒沢大学、そして大東文化大学の剣道に当時の私は魅了されました。ですから大学はその三つの学校をメインに受験をして、そのなかで運よく合格したのが大東大だったというわけです。
当時の大東大ではスポーツ推薦で入学した選手候補の学生たちは寮生活を送っていました。もちろん私はただの一般生だったのですが、いろいろなご縁から剣道部長をされていた中間和男先生を紹介していただくことができたんです。そこで中間先生から言われたのは「選手に入りたければ寮に入れ」ということで、こちらとしては「寮に入ればいずれ選手起用チャンスもあるのかな」と期待に胸を高鳴らせて入寮したのですが、結果的には公式戦に出る機会には恵まれませんでしたね。
大学時代の監督は楢﨑亘先生(教士七段・現大東文化大学剣道部総監督)でした。稽古はもちろん厳しく、寮での生活もまた共同生活ならではの息苦しい部分はありましたから、もう何度脱走しかけたか分かりません。しかしいま振り返ってみれば、なかなか得がたい「人とのつながり」を得たのはあの学生時代で、私は4年生のとき、剣道部の主務を任されていたのですが、その役職に就いていたからこそ、OBの先輩方に自分の名前と顔をしっかりと覚えていただくことができた。また、現在は大学剣道部OB会の事務局を仰せつかっているんですが、この役職もまた学生当時にがんばってきたからこそ任されているわけで、年齢の離れた大先輩たちから現役学生まで、いまも幅広い世代とのつながりを得られていることは本当に貴重なことだと感じています。
――― そのあと、教員となってからは念願だった剣道部の指導に携わるわけですね。
北 そうです。北海道の立命館慶祥中学校・高校では、最初は中学クラスの副担任だったので中学剣道部を指導し、途中から中高両方の剣道部を見るようになりました。そのあと初芝立命館に赴任すると、そちらは剣道強豪校で、インターハイ出場こそ叶わないながらも、近畿大会に出るのは当たり前という高いレベルの剣道部に携わらせていただきました。
うつ病で休職している間はとてもではないですが剣道はできず、数ヶ月ほど竹刀を握らない時期を過ごしましたが、羅羅屋に転職して福島に向かったときには一応防具と竹刀だけは携えて行ったんです。するとやはり福島の地でも不思議なご縁があって、現地にいた期間は1年弱ほどではありましたが、当時は週に2回ほどは稽古をしていたと思います。
中国への駐在となると、さすがに剣道をやることはないだろう、と防具すら持って行かなかったのですが、ここでもまた偶然の出会いに恵まれました。現地にはウチの会社の中国人スタッフがいたのですが、その彼女があるとき「北さん、中国にも剣道の道場があるみたいだよ」とホームページを見せてきた。すると中国の会社の社長を務めていた私の従兄弟も「見てみたい」と言い出すものですから、3人でその道場に見学に行くことになったんです。
うかがった先は「楊派武館(ようはぶかん)」という道場で、道場長は蘇州大学教授であり、同大剣道部監督、同大体育学院体育教育部部長を務めていらっしゃる楊敢峰先生(錬士六段)でした。その楊先生が私に「経験者なら稽古してみませんか?」とおっしゃるので、防具と竹刀をお借りして稽古をすることになったんです。その帰り、楊先生から「これから剣道を教えに来てくれないか」とのお言葉をいただいて、それから楊派武館に所属するようになって週に3回の稽古に励むことになります。

北 中国には日本からの駐在員の方も数多く、そんな人々によるアジア剣道クラブという剣道コミュニティが存在していました。私自身もまたそこに所属させていただいたことで、新たなつながりにも恵まれるようになり、3年の駐在期間を経て帰国したときにはそのアジ剣でのネットワークから新たな稽古場を紹介していただくことになったんです。
いま現在は東京都大田区の東競武道館で豊村東盛先生(範士八段)にご指導をいただいており、小川二朗先生(教士七段)が会長を務められている北区の城北剣志会、そして大学のOB会事務局の関係から大東大での稽古会にも定期的に足を運んでいます。本来であれば週に一度は必ず稽古をしたいところですが、いまは地方出張も多いこともあって、その三つの稽古場それぞれに月に1回程度参加している感じですね。
――― 昨年、見事に七段審査にも合格されたという北さん。今後のますますのご活躍も楽しみなところですが、最後にこれからの展望などを教えてください。
北 年齢も43歳になったいま改めて感じるのは日本文化のすばらしさで、それを若い方たちに継承したり、海外の方に知っていただくということはとても大事なことだと考えているんです。しかし、現実には日本の剣道人口も減少しているのが現状で、私自身も小学校から中学校、中学校から高校、高校から大学、大学から社会人と、人生の節目をむかえるごとにどんどん仲間が減っていく状況を目の当たりにしてきました。
今後自分がやりたいことを考えたとき、まず頭に浮かんだのはなんらかの社会貢献がしたいということで、私の場合はやはり剣道の普及に尽力することがそれに該当すると思うんです。そもそも自分自身のことを思い返してみれば、表現はおかしいかもしれませんが、私のもっとも得意とするのは昔から「お金にならない仕事」ばかり。それはたとえば剣道大会の運営事務局の仕事だったり、チャリティーイベントの開催だったりと、無償で誰かに喜んでもらえることにこそ私は大きな喜びを見出してきました。だからこれからは剣道の魅力を若い人や海外の方たちに発信できる場をなんとかつくっていきたい。そのためにはまずは仕事をがんばって自分の生活基盤をしっかりと安定させることが大前提で、そのうえでいつの日か剣道の魅力、日本文化のすばらしさを伝える作業に全力を注いでみたいんです。



































