着る人一人一人の思いが反映されるオーダースーツは、あらゆるシーンに対応可能な贅沢な一着。
依頼者それぞれの思いに耳を傾け、世界に一着だけの特別なスーツを仕立ててくれるオーダースーツ店・「テーラーKURO」。
代表を務める吉田知玄さんは、「生地のサンプルを見ながらお酒を飲める(笑)」と語るほどの自他ともに認めるスーツマニア。
敷居が高いと思われがちなオーダースーツの魅力を世の中に広めるべく、日々の情報発信にも努める吉田さんは実は四段を取得している剣道家でもあります。
キックボクシングに励んだ学生時代、ロンドンでの日本語教師時代と豊富な経験を持つ吉田さんに、スーツに対する熱い思い、現在に至るまでの道のりをうかがいました。
プロフィール
吉田知玄(よしだ・ちげん)
1973年岐阜県生まれ。大垣北高校(岐阜)から國學院大学に進学。大学卒業後に渡英し、現地にて日本語教師等を務める。日本帰国後はフランチャイズコンサルティング会社、人的リスクコンサル会社役員を経て、現在は学習塾運営、中央大学ビジネススクール客員教授を務めつつ、2022年に完全予約制、全国出張採寸のオーダースーツ店「テーラーKURO」を立ち上げた。剣道は小学生時代からはじめ、高校でも剣道部に所属。学生時代からは長く剣道から離れるもお子さんが千葉県の強豪道場・上の台剣友会に入門するタイミングで再開。現在段位は四段
テーラーKURO:https://tailor-kuro.com
お客さまに自由に楽しんでもらう。
それが自分の大きな喜びとなる
──「テーラーKURO」の代表を務める吉田知玄さん。本日はお話をうかがわせていただくわけですが、まずは今日のそのスタイルは──。
吉田 「ルパン三世」の次元大介ですね(笑)。そもそものきっかけはあるビジネス交流会の場で「吉田さんの知玄という名前は次元と似ているよね」と言われたことで、せっかくスーツの仕事をしているのだからハットもつくってヒゲを伸ばせば次元になるかなと。
「次元歴」はまだ1年ほどなのですが、プロモーションの一環としてホームページでも公開していることもあって、いまはこの格好でおうかがいしないとガッカリされることも増えてきてしまって(笑)。ちょっと辞め際に悩んでいる部分もありますが、今日もせっかくなのでこの格好でお邪魔しました。
──ありがとうございます(笑)。プロモーションというお話でいえば、吉田さんご自身がパーソナリティを務めるラジオ番組もあるとか。
吉田 仕事のプロモーションということで、インターネットラジオで「テーラーKURO」という30分の番組をやっています。いろいろな分野の「玄人」の方、剣道のつながりだったり経営者の方だったりをゲストにお招きして、その方の人生やお仕事についてお話をうかがう内容です。
──「玄人」というワードが出ましたが、それはご自身のお名前であり、店名である「KURO」ともつながるような──。
吉田 そうなんです。私の名前「知玄(ちげん)」は父がつけてくれた名前なのですが、中国の思想家・老子の書を由来としているそうです。オーダースーツの仕事をはじめるにあたって、名前の「玄」を取って「KURO」と名付けました。
──吉田さんが代表を務めるテーラーKUROは完全予約制、全国出張採寸のオーダースーツ店だそうですね。
吉田 この仕事をはじめたのは2022年からですが、いま現在の仕事としては3つあるんです。ひとつは学習塾の運営、もうひとつは中央大学のビジネススクール客員教授。そこに新たに加わったのがオーダースーツの仕事です。
きっかけとしては、ひとつは単純に私がスーツが好きで、かねてからオーダースーツをつくってきた過去があるから。もうひとつは学習塾の仕事と関係があって、学習塾に通う生徒たちとは将来的にいっしょに仕事をしたいという思いがあるんです。そんな思いは毎年卒業していく生徒たちにも伝えていて、実際にいまいる6人の塾の先生たちは全員が僕の教え子たち。しかし、生徒の全員が勉強が得意な子ばかりではありませんから、それ以外の子たちとも働ける受け皿が欲しいと。それならば自分が好きなスーツの仕事がいいなと思い立って、師匠にあたる方に学びながら現在の仕事をスタートさせました。
もともとスーツが好きになったきっかけは18年前くらいの出来事です。当時僕は人的リスクコンサルティングの会社で役員を務めていたのですが、ある日その会社の社長が僕を含む役員たちを連れて向かったのが銀座の老舗テーラーでした。僕たちは目的を聞かされないまま連れて行かれたのですが、社長はそこで「好きな生地を選びなよ」と言って役員の一人一人にオーダーメイドのスーツをプレゼントしてくれたんです。そのときの生地やデザインを選ぶ楽しさや完成までの待ち遠しさ、出来上がったスーツに初めて袖を通したときの感動など一連の体験が心に残って、それ以来自分でもオーダーでスーツを仕立てるようになりました。もちろん高級品ではなく安価なものからでしたが、スーツが大好きになりましたね。
現在の事務所は自宅になりますが、ご依頼いただくお仕事に対してはすべてお客さまのご自宅やオフィス、あるいはレンタルスペースなどにうかがって対応しています。
僕が実際にやる仕事としては、お客さまのお話をうかがって生地サンプルをお見せしたりデザインを提案したり。だいたい1時間から1時間半ほどお話をするのですが、やはりお客さまには必ずお一人お一人にストーリーがあって、たとえば結婚式でお父さまが着る一着だったり、入学式に向けての一着、あるいは旦那さんへのプレゼントだったりと本当にさまざま。それぞれの思いをお聞きして、いっしょに世界に一着しかないスーツをつくり上げていく仕事です。
生地やデザインが決まれば採寸をさせていただいて、いわゆる「設計図」をつくり、縫製は熟練の職人さんや工場にお任せします。僕自身、縫製にも興味はありますが、それこそ職人の世界は10年、20年の修行が必要ですし、縫製工場でもたとえばボタン付けだけ、ポケット付けだけと作業が完全に分業制になっているくらい。僕自身はなにより職人の方々をリスペクトしていますからそもそも自分が迂闊に飛び込んでいいような世界ではないという思いがあります。
──お仕事をはじめるにあたっては、やはり学ばなければならないことは多かったのでしょうか?
吉田 それはたくさんありましたね。生地の種類や織り方もそうだし、それらを取り扱っているブランドだってたくさんある。それに加えて、たとえばデザインの由来などの「うんちく」も必要な知識だと思います。
いまウチでは剣道家向けのスーツを推しているのですが、これもいわゆる「うんちく」が関係している話なんです。スーツのジャケットの背中部分にはベントと呼ばれる切れ込みが入っていて、中央にひとつ切れ込みのあるセンターベント、もしくは両端にふたつ入れ込みのあるサイドベンツがポピュラーです。しかし、これはもともとは切れ込みのないものがフォーマルとされていました。スーツは本来は貴族のリラックス着だったのですが、ノーベントの場合、乗馬をするときに動きづらい。そこで採用されたのがセンターベントだったんです。一方、ふたつの切れ込みのあるサイドベンツは、もともとサーベルが差しやすいようにという理由で取り入れられたもの。ですから剣道家の方にはあえてサイドベンツでお仕立てをして、いつでも帯刀をしているような気分でお召しいだたくことをお薦めしています。というようにスーツにまつわる歴史や知識を得ることでスーツをつくるときの楽しさも増すように思います。
剣道の話で言えば、いま剣道の審判服の製作にも着手しているんです。剣道家の皆さんから悩みをうかがってみると、審判服で旗を上げて下ろしたときにジャケットの肩の部分が寄ったままになってしまったり、シャツの裾が引っ張られてしまっていちいち戻さなければいけなかったりと意外と悩みは多い。そしてそれらの悩みはお仕立てで解決できる部分はたくさんあると感じました。いまジャケットに関しては「オーダーの審判服」ということでモニター価格でいろいろな方にご着用いただいて、ご意見をうかがっては改良を繰り返している段階です。
──やはり一般的にはオーダースーツは高級品というイメージが強く、なかなか手を出せるものではないという印象も強いです。
吉田 実際のところオーダースーツの価格はピンキリで、ウチの一番出ている商品の価格帯で言えば、上下でだいたい15万円から20万円くらいのものでしょうか。スタートの価格としては10万円からご用意はさせていただいています。
スーツの値段というものは選んでいただく生地によって変わるのと、あとはオプションと言って、どのボタンを選ぶのか、どの裏地を選ぶのか、ポケットをどこに付けるのか、というオーダーをすればするほどオプション代が嵩んでくるもの。ですからついついいろいろと頼んでしまうと蓋を開けたら「えっ、こんな値段になるの?」と驚くことも少なくありません。僕自身もかつてはお客さまの立場でそんな経験をしています。せっかくのオーダースーツなのに値段を計算しながらデザインを選ばなければならないとなると楽しさも半減してしまいます。僕は自分自身のそんな経験がイヤだったので、ウチではデザインに対するオプション代はいただいてはおらず、ボタンと裏地だけを無料のものと一律で五千円のものが選べる、という分け方だけさせていただいているんです。
もちろん工場の側はオプション代を請求してくるので、僕としてはお客さまによって利益率が変わってしまうことになるんですが、それでもお客さまに自由に楽しんでいただいたほうが僕も楽しい。僕もちゃんと赤字にはならないようには配慮はしているので、お客さまは余計なことを考えずにオーダースーツを楽しんでいただきたいですね。
──吉田さんからはオーダースーツに対する情熱と愛情を感じます。
吉田 大げさな話を言わせていただければ、僕は海外の人たちが日本人のスーツ姿を見たときに「カッコいいな」と思われるようにしたいんです。日本のカジュアルファッションについては海外でも人気だったりしますが、ことスーツ姿においてはどちらかというとちょっと「ダサい」と揶揄される対象になっているのが現状です。いまはスーツを着ない人も増えてきてはいますが、それでもビジネスのシーンにおいてはスーツは「世界のパスポート」。たとえば海外にスーツ姿で出張に行った日本のビジネスマンがその現地の方に「そのスーツいいね、どこで仕立てたの?」と聞かれて「これは知玄さんのテーラーのものだよ」と答える。世界の各地でそんなやり取りがされるようになることが、僕の目標であり理想なんです。
入門したのはまさかの名門道場だった。
子どもたちとともに剣道の魅力に目覚める
──吉田さんご自身の経歴、剣歴などもうかがいたいと思います。
吉田 岐阜県の大垣市出身で、高校生活とその後1年間の浪人生活していた時期までは岐阜で生活していました。
剣道は小学1年生からはじめました。中学校、高校でも剣道部には所属しましたが高校2年生の半ばくらいから自然と部活動からは足が遠のいてしまいましたね。通った道場も厳しいところではありませんでしたし、中学校、高校も強豪校ではありませんでしたから剣道の世界の知識もまったくなくて、たとえば県大会の上には東海大会があることすら知りませんでしたし、剣道推薦で学校に進学する人がいることも知りませんでした。剣道については、高校で部活動に行かなくなってから長く離れることになります。
1年間の浪人生活を経て入学したのは國學院大学で、僕は学生寮に入りました。その寮にいた先輩がキックボクシング部の方で、当時の國學院大のキックボクシング部は全国大会でも何連覇中という強豪だったんです。寮で出会ったその先輩もキックボクシングのチャンピオンという話を聞いて、その方に憧れて僕もキックボクシング部に入部することにしました。
当時の体育会ならではというか、勧誘シーズンには優しくなんでも褒めてくれた先輩たちもいざ入部すれば一転、とても厳しい部活動でしたね。「これは大変な部活動に入ってしまった。剣道部のほうがよかったかな」とも思いましたが、続けるうちにどんどん楽しくなってきて、結局大学生活はキックボクシング一色でしたね。僕自身も後楽園ホールで3回ほど試合はさせていただきましたし、大学3年時にはオランダにキックボクシング留学にも行って。結局大学には5年間通うことになってしまったけれど、充実した学生生活を送ることができました。ちなみにいまはキックボクシング部のOB会長を務めています。
──大学卒業後の進路は?
吉田 急に海外で仕事がしたいなと思い立ち、外交官を目指すものの勉強が間に合わなくてやはり試験には合格できず。そうこうするうちに「日本語が話せる外国人を増やしたい」とワケのわからないことを思うようになって、日本語教師を目指してロンドンへと渡りました。向こうで1年ほどは日本語を教えるための勉強をして、その後2年間くらいは実際に日本語教師として働いていました。
──多くの大学生が普通に就職を目指すところ、大胆な選択だったのではないですか?
吉田 大学時代に哲学科で学んでいたこともあって、いま振り返ればちょっと斜に構えていた若者だったんです。大学を卒業して企業に就職して、というみんなと同じルートに乗るのがイヤだったんですね。
ロンドンでは意外と日本語教師の需要が多くて、それなりに楽しく働くことができていましたが、教える対象が子どもから大人へと広がってくるとやはりニーズも自然と変化してきます。ビジネスマン、弁護士、外交官と生徒のレベルが上がってくれば、やはり彼らは日本に赴任する前に日本語を覚えようという例がほとんどで、となれば言語だけではなく日本の商習慣も教えてくれないかという話になる。しかし僕はといえば大学を出たてで来ている若者なのでビジネスのことなどまるで分からない。当時は28歳ですから就職するにもギリギリの年齢だろうと判断して日本に帰国しました。
帰国してからは、同世代の社会人からはずいぶんと出遅れていることもあって、手当たり次第に就職試験を受けましたね。とにかく馬車馬のように働いて知識と経験を蓄えたいという思いから、入社したのは社員の独立を謳ったフランチャイズコンサルティング会社。その会社には3年半ほど勤務して、そこからコンプライアンスのコンサル会社に転職、そこでは7年ほど勤めました。コンプライアンスのコンサルをした経験から依頼を受けたのが中央大学のビジネススクール客員教授の職で、いまも大学院で各期に7週くらいの講義をしているんです。
学習塾の運営についても、このコンプライアンスのコンサルが実は関係していて、その前職の会社の先輩が千葉県で学習塾を経営していたんです。当時僕はコンプライアンスのコンサル会社をすでに退職していましたが、先輩から「塾で盗難が多発しているのでコンプライアンス関係のコンサルの経験、知識を活かして調査してくれないか」と連絡があり、そこはボランティアでご協力することになったんです。
その件は無事に解決し、先輩と会話をするなかで聞いたのが「そろそろ塾を手離したい」ということ。そこで僕はその運営を引き継ぐことになり、現在に至るわけです。
──剣道の再開はどのタイミングになるのでしょうか?
吉田 まだサラリーマン時代、子どもが小学校に上がることもあって引っ越したのが千葉の幕張本郷でした。長男が小学1年生のとある日、同じマンション内で見かけたのが剣道衣・袴姿の子どもたちでした。自分の子どもには剣道をやらせたいと思っていたので、どこの道場でやっているのかをその子たちに尋ねると上の台剣友会というところだと言う。そこで子どもといっしょに上の台剣友会に足を運びました。
もちろん私には剣道の詳しい知識がありませんから上の台剣友会が強豪だということも知りませんでしたし、道場の指導者である鈴木剛先生(千葉県警)のことをアピールした「全日本選手権大会優勝者がいる」というチラシを見てもまだピンと来なかった。
しかし、稽古を目の当たりにしたときには衝撃を受けました。鈴木先生の息子さんで現在法政大学に通う龍哉くんが当時小学4年生。周りのメンバーもみんな強くて、彼らの代は結局6年生で水戸大会(全国選抜少年剣道錬成大会)で優勝するわけですが、そのレベルの高い稽古風景を見たときに「これは僕が知っている剣道とは違う……」と。
結局、上の台剣友会にはいま國學院大に通う長男、そして長女、次女と子どもたち3人がお世話になることになりました。僕自身はというと、長男が入門して1年くらいは稽古を眺めているだけでしたが、「昔やっていたのならやりましょうよ」と誘っていただいて12年前くらいから再開するようになりました。
大学1年生の長男はいま剣道部に所属してがんばっていて、高校2年生の長女は中学生時代まで上の台でお世話になったあと、高校では勉強に力を入れています。
一番下の娘はいま幕張本郷中学校の1年生。中学校が強豪なだけに土曜日、日曜日は遠征や試合が多い。僕は保護者として車を出して応援の日々です。ほかの保護者の方がそれをやってくれる日などを利用して自分の稽古に取り組んでいます。ペースとしては週に1回くらいですかね。
──久しぶりに再開した剣道はいかがでしたか?
吉田 頭のなかのイメージが中学生、高校生で止まっていたこともあって、動きも当時のままピョンピョンと飛び跳ねるような剣道だったのでまずはそれを直すところからスタートしました。昇段審査にも挑戦していますが、なかなか苦労しています。僕は二段までは持っていたので三段からのチャレンジでした。三段には2回目の受審で合格できたものの、その後の四段に合格するまでには10回もかかっています。次はいよいよ五段に挑戦できるのでここはなんとか早めに合格したいですね。
──それでは最後に、吉田さんの今後の展望や希望があれば教えてください。
吉田 剣道を再開して、いま楽しいと感じているのが剣道を通した人とのつながりです。リバ剣をして以降、防具を担いでよその道場や稽古会にうかがう経験がなかったのですが、それが最近できるようになってきました。初めて出会う方と竹刀を交えて、その後にお酒を飲んで仲を深める。これがとても楽しい。そういう出会いを今後も増やしていきたいですし、そのなかでスーツの仕事についてもなにかを皆さんに提供できたり、また新しいアイディアをいただいたりできたらいいなと思っています。
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