とにかくオモロいこと、他人がやらんことをやっていたい(松林裕次/紀州地魚料理 民宿 松林 社長)

和歌山県立箕島高校野球部 ― 1979年に高校野球史上3校目の春夏連覇を達成し、春夏通算17回出場して優勝4回という高校野球ファンなら知らぬ者のない存在。春夏連覇の翌1980年の夏の甲子園では、愛甲投手を擁して優勝する横浜高校に準々決勝で2-3と惜敗するも「箕島強し」の印象を残しました。その大会の「2番ショート松林くん」が、紀州地魚料理 民宿 松林の松林裕次社長。ものすごいバイタリティの持ち主で、毎朝の掃除を絶対に欠かさない誠実さの人です。民宿の社長として多忙な毎日を送る一方、常に面白いことをやりたいとビジネスの種を探し続け、海外進出も目論んでおられます。剣縁稽古会&懇親会も2年連続でお世話になっている松林社長に、そのエネルギーの源や信念を伺いました。

プロフィール

松林裕次(まつばやし ひろじ)。1962年4月26日和歌山県有田市生まれ。和歌山県立箕島高校では1980年夏の甲子園にレギュラーとして出場。卒業後は実家の渡船業に携わるも、独立して和歌山市で飲食店・仕出し事業を立ち上げる。その後実家に戻り、現在の 紀州地魚料理 民宿 松林 をスタートさせる。孫の岡本羚我君が七彩剣の会でキャプテンを務め、小6の近畿大会で団体3位の大将を担った少年剣士で、おじいちゃんとして応援している。

紀州地魚料理 民宿 松林
https://www.matubayasi.jp/

こんなもったいないことをやってたらアカン

―― 民宿 松林は社長が創業されたんですか?

もともと親父が渡船業を始めていて、料理民宿は僕が手掛けたんです。ここ初島漁港の向かいに地ノ島、沖ノ島という無人島があるんですけど、そこに海水浴場とか磯釣りがあって人を渡す。あとはチャーター船を雇ってお客さんを送るといったことを渡船企業組合を2軒でやって、簡単な民宿で仕事関係の人を泊めたりしてた。渡船業って冬場12月~3月は休むんですよ。こんなもったいないことをしてたらアカンと、「この4ヶ月、もっとすることないかな」って思っていろいろ回ってたら、いろんなところで宴会が流行ってた。「これ、宴会場を作ったら冬場に儲かる事業になるな」と思ってたんですよ。

僕は野球しか能がなかったし高校を出て2年間は近くの建設業で勤めてたんで、白菜の「は」の字も知らん。これは習いにいかなアカンなと。それで近くへ3ヶ月料理を習いに行った。もちろん3ヶ月で習えるもんじゃないけど、「あぁ、こういうもんかな」というのがわかったから、第一別館を先に立ち上げたんです。宴会場ができたら冬場も稼働するし、夏場もいままでのものプラス宴会がずっともらえる。競りの権利もあったんで、魚も安くていいものが出せるぞってことで。

和歌山市で居酒屋を開業

僕ね、41歳のときに、思うところがあって和歌山で居酒屋に挑戦したんです。1階と2階で80席くらいのお店を「旬海」っていう名前で。まったく何もない状態で一人で行ったんですけど、2階の改装費がなくて建築屋さんになんとか待ってもらって、3ヶ月で返したなんてこともありましたね。

で、店の前に車を12台しか置けないんですけど、昼はお客さんが100人くらい入るわけですよ。昼夜で最高300人くらい入ってたかな。毎日箕島漁港で競り落とした魚を持って和歌山へ通ってたんで新鮮な魚も売りだったですけど、僕はいつも駐車場係をしてたんです。なぜかと言うと第一印象が大事やから。元気よく「いらっしゃーい!」ってね。一応僕は社長ですけど、通りに出ていくときはそんなこと言わないから、駐車場のおっちゃんで通ってた(笑)。

そして、「飲んで食べて、送迎までやったら絶対に流行る」と思ったんですよ。その時分は宴会が多いからね。ちょうど飲酒に厳しくなったときでもあった。店の立地は郊外の通り沿いで「誰がやっても人が入らん」って言われてた場所だったんですけど、「俺がやったら入る」とか言ってレンタカーを借りるわけですね。バスのレンタカー。レンタカーを借りるのに1日3万円が要るから稼働せないかんじゃないですか。でも運転手は1万円とかかかってもったないから雇えない。だから運転から駐車場係から全部僕がやった。で、業績が良くなっていくと銀行さんからもお金を借りられるようになって、お陰様でお客さんも一段と増やせた。店を出して半年で新しいバスを1台買って2年後にもう1台買って。居酒屋ででバスで送迎するなんてどこもやってなくて、しかも2台持ってるところはまずないんで、競合がいない。しかもどこへでも走れるんやから、法事とかあったら必ず言ってくるんですよ。そうすると昼の単価も上がるわけですよね。

いまも早朝の掃除は絶対に欠かさない

次に仕出し事業を「旬魚菜」っていう名前でやった。本当はその通り沿いに、車椅子が入る店と仕出しの店が合体した店をやりたかったんです。居酒屋とは別に。車椅子の人がよく旬海に来てくれたんで、「せっかく来てくれる車椅子のお客さんをなんとかしたいなぁ」と思って、実際にやろうと思ったんだけど、設計士が言う値段と建築士が言う値段が3倍違ったんで、どないなってんねやろ・・・と思って計画を縮小して、仕出し事業だけにしたんです。仕出しは未知の世界だったんで3年間は辛抱でしたけど4年目からグーっと伸びて。顧客管理を徹底的にやったら、おせちでも結構な数がすぐに売れるわね。

神様が降りてきて「キッチンカーを作れ」と言った。
「最後はロサンゼルスに行け」と言われている

そんな形でやってたんですけど、やむを得ない事情があって一旦こっちへ帰ってきたんです。本当はね、2軒やった後はキッチンカーを作るつもりだったんです。3トントラックの後ろに厨房機器を全部備えたやつ。それで大阪の泉北に行ったりとか。毎日行ったら飽きてくるから週一ね。週一で泉北、そして神戸。場所まで決めてた。それぞれ酒屋さんとコラボして。ウチがやったら年間で結構な量のビールが出るから酒屋さんも喜ぶじゃないですか。それに酒屋さんは絶対にチラシを入れるから、そこに「コラボやるよ」とか載せる。そんなマーケティングをやって。僕は和歌山に店を出したときに自分で1万件くらいのポスティングをやってたから、それを狙った場所でやったら絶対に流行ると。駐車場を借りて認知されるまでに3ヶ月はかかるやろうけど、寿司なんかが「美味しいな」ってなったら、今度は寿司の盛り合わせとか。そういうパンフレットでも置けば、「次来るときにこれを持ってきてよ」とかなるじゃないですか。それを旬海で作って持っていったら、そこで売れなくても予約が取れるじゃないですか。そうしたらおせちでも取れる。販路も大きいからいけるぞと。

なぜかと言うと、息子を京都から連れて帰るときにマンションがいっぱい建ってるのを見て、「マンションを1棟ファンにしたら絶対に流行る」と思って、「どうしたらマンションで売れるんかな」って思ってたら、「キッチンカーを作れ」って神様が降りてきたんですね。それで早速ネットで探したら石川県にあったんですよ、思い描いてるやつが。それですぐに石川県のそこに電話して、忘れもせんわ、2月やったね、知り合いに「石川県まで車を出してくれ」って言ったら「無茶なこと言わんといて。この雪の中をどないして行くねん」って言うから、「行けることまで行こうや」って。無茶苦茶ですよね。結局実現してないですけど(笑)。

神様には「最後はロサンゼルスに行け」って言われてるんで、いま取り掛かっているのが、無添加のペットも人も食べられるファミリーのものの開発。

―― どういうキッカケでペットと人間の食べ物に着目したんですか?

もともと僕は無茶苦茶ペット嫌いやったんですよ。ところが娘がペットを飼いたいって言って、いきなりウチに来たんです。怒るわけにもいかんしなぁと思ってたら、なんともう一匹いて(笑)。僕がペットを嫌いなもんやから、帰って駐車場に着いた瞬間から吠えるわけ。当然腹が立つじゃないですか。なのでみんな、僕が帰ったら隠す。そんなときに神様が降りてきて「ペット用の無添加の干物を作れ」って言ったわけよ。それで天然の鯛を競りで買って、捌いて、乾燥機もウチにはあるんでバン!と乾燥させて、それで無添加にして。そのときウチのペットの毛が薄れてきてたらしいんですけど、その干物を食べさせたら元気が出てきて毛も生えてきてツヤツヤになった。そうしたら不思議なことに、僕が帰ったら待っててくれるようになって。そこからはかわいくなって(笑)。

それでペットが泊まれる部屋も作って。ペットブームになってるじゃないですか。でもいまは、ペットはペット、人間は人間しかやれてないから、両方きちっと食べられてオーガニックのものが特にオーストラリアでは流行ってるんで、そっちの人も「オーガニックやったら松林さん、絶対に売れますよ!」と言ってくれたんで。オーストラリアはいろいろ規制があるみたいなので、それをどうするかを考えてる。シンガポールはあんまり規制がないみたいですね。とにかく人がやらんことをするが好きなんで、人がやらんことで面白いことを考えてたらこれが面白いなって思って、ブームにもなってるから開発してるんです。

とにかくオモロイことをしたい

昨日、オーストラリアで販売する人と初めてリモートで話したんですよ。紹介してくれる人と娘も入れて4人でね。普通はビジネスの話ばっかりになるじゃないですか、そうじゃなしに「僕、あんまり賢くないから、とにかくオモロイことがしたいんや」って言って、「いまウチにもミャンマーとネパールの子が3人来てるんですよ。採用するときに目が輝いてたんで、それだけで決めたんですよ~!」とか、「とにかくオモロイことを考えて、オモロイ人とやりたいんですよ~!」なんて言ってたら、向こうが「それいいっすね!」って。その担当の人は無茶苦茶頭のいい人みたいなんですけど、そんなの関係ないから(笑)。

先日もある食品の事業者さんで話を聞いたんですけど、海外売上の比率がかなり高くなっていて、それが全体の売上を牽引しているらしいんですわ。やっぱり僕の戦略も合ってたなと思って、AIも導入してやっていこうと思ってるんです。AIの講師にも6ヶ月入ってもらって。今日もオーストラリアでの戦略についてAIをずーっとやってたんですけど、これをちゃんとわかっていけばもっと面白い事業ができるなと思って、これからやっていきます。

それにね、ペット商品を和歌山で一番売ってる人がいて、「この人に会いたいな」と思ってたら、一昨日京都へ一緒にいった人が同級生だったんですよ。その会いたいと思ってる人と。たまたま(笑)。それで、京都から帰って焼肉を食べながら、「紹介してや」「わかりました!」って、すぐその場で電話してくれて、クエ鍋をご馳走するからここで会おうって段取りもできてます。

―― 本当にポンポンポンと人が繋がっていきますね

オモロないですか?(笑)理由なんかなくて、やるしかないんですよ(笑)。

―― 面白いですし、やっぱり社長がちゃんとされてるからだと思います。人徳だと

駐車場係なんかはね、自分がやらんと1日3万円かかるんですよ。前に12台しか置けないから、「満車やな」と思ったらお客さんに帰られてしまう。それを帰られないように詰めに詰めて。それでも道に並ぶわけですね。普通やったら警察に怒られますけど、ただ僕が毎日掃除をしてるもんやからかな、住民の人が何か知らんけど応援してくれていて。一度だけクレームが来たんですけど、そのとき予約に来てくれてた地元の人が「どいつが誰に向かって言うとるんや!」って、その場で言いに行ってくれて(笑)。不思議でしょ。

―― 和歌山の店も閉めなくてよかったのでは?

建物が古かったんですよ。お客さんがあんまりにも入るもんやから、3階の物置も替えたりしたけど、グラグラになってきたんですわ。2階もボコボコになってきて。それに事情があって有田にも帰らなきゃならなくなってたしで。そのときは居酒屋やら仕出しが面白いと思ってたんですけど、それでも、やむを得ない事情だったんで旬海か旬魚菜のどっちかをやめないことには前に進まんなと。

僕、実は30回くらい死にかけてるんです。毎日和歌山と有田を往復するもんやから、帰りに道の真ん中で運転しながら寝てしまうとかね。気が付いたら目の前が電柱とかいうことがしょっちゅうあって、「真剣にやったらこっち側にずっと入らなアカンし、有田にも毎日おらなアカンから、どっちかをやめないとできんな」と。それで旬魚菜、仕出しの方をやめたんです。売上も順調でしたけど、死んだら何にもならんので、2月にたった1日で決断して3月いっぱいでやめたんです。一番いい状態で閉めた。

バックパッカーの若者と偶然の出会い
5年以内に10カ国の子を採用しようと思ってる

ただ、旅館から離れてて時代が変わってるから、帰ってきたときに知り合いの旅館に聞いたんです。「おい、どんな時代になってんねん?」って。そうしたら、「じゃらんだの楽天だの、そんなんやで」って。で、「わかった。そうしたら誰か紹介せぇ」と言って紹介してもらって勉強してやって、それで一気に売上を伸ばした。こんなに変わるもんかと思ったね。コロナの前に2千万円以上する急速冷凍の器械を助成金もなしで買っていて、それもコロナでやられて大変なんやけど、当時僕がネットをできていれば冷凍食品とかいろんなことができたはずで、いま頃は倍になってるでしょうね。チャンスは無茶苦茶あったのによう捕まえんのですよ。キッチンカーの時代も来たじゃないですか。腹立つけど(笑)それができないもんやから、息子に「お前は就職するな。ここに入れ」って言って入らせた。息子もかわいそうやな(笑)。まぁ、こっち側は結構お客さんをバーッと増やしましたけどね。

それと、これからは海外のことを視野に入れなアカンと。たまたま昼ご飯をウチ(民宿松林)に食べに来てくれた日本人の男の子がいたんですよ。24~25歳やったかな。派遣業を始めるところだって言っていて、「この子オモロい子やなぁ」と思ったんで「また会おうな」って言って別れたんよ。そうしたら、その子が京都に行ってるときに連絡してきて、「松林さん、バックパッカーでオモロい子がいてんねん。連れて行っていいか?でもみんなお金はない」と。僕も即座に「構わん。お金なくてもええから連れてこい!」って(笑)。ドイツ人は大使館の子、ニューヨークの子はITバリバリ、それにイタリアの子と3人で、みんな日本語もベラベラ。なんか知らんけど、「こんな子らと仕事したらオモロいな」と思って、海外の子を採用し始めた。一人目がベトナムの子。二人目もベトナムの子で、他社の内定を蹴って来てくれた。専門学校の先生から「松林っていう民宿がある。オモロいから行ってこい」って言われたらしい。他社の方がお金はいいけど、こっちの方がやりがいがあるって言ってくれて。その子は結婚を機に辞めることになったけど、その後にネパールとミャンマーの子を採用してる。この5年以内には10カ国の子を採用しようと思ってるんですよ。

―― 日本人だと募集しても来ないとかではなく?

オモロいからですよ(笑)。僕の根本は面白いか面白くないか。自分が面白かったらいいんですよ。「おーい、やるぞ!」「いいっすね!やりましょか~」って、それがいいじゃないですか(笑)。

ミャンマーの子を面接するときね、リモートなんですけど、僕はずーっとその子の顔を見て笑ってたんですよ。で、僕が何を言ったかっていったら、「ヤル気あるか?」「元気あるか?」「夢は何だ?」の3つしか聞いてない。それで一人の子は「金持ちになりたいです!」「元気です!頑張ります!」って言ったんで、「そうか~、それ絶対に間違いないな?」って問い返して、「はい、間違いないです!」って言うから採用した。つい先日聞いたんですけど、その子らもいっぱい面接を受けてるらしくて、「いろんな社長さんは難しいことばっかり言うけど、松林社長は笑ってて、元気か?とヤル気あるか?しか聞かなかった。もう落ちたんだと思ってたら受かったんでびっくりしました!」って言ってた(笑)。

それでもしヤル気がないなと思ったら、そのときは「お前らヤル気あるって言ったよな」って言えるじゃないですか。難しいことを言ったところで、人によって能力も違うし、そんなのは行ってみないとわからんじゃないですか。それに、この子はこんなエエとこがあるとか、エエとこを見つけてやらなアカンと思うんですよね。だから来るときにはファミリーやからって。厳しいことも言いますよ。言うけれども、「ファミリーやから何でも言えよ」って。住むところもこっちで準備して。本当はウチに住む予定やったんですけど、仕事関係で部屋がいっぱいになったんでマンションを借りたんです。本当はマンションとか住居の関係は本人負担なんですけど、ウチに住む予定でいくらって形にしてたから。それも食事付でやってあげたら喜ぶじゃないですか。ヤル気のある子といるとこっちもオモロくなるし。

―― 来年またお邪魔したら、また違う話がポンポン出てきそうですね

近いうちにインドネシアに行こうと思ってるんです。人に会いに行きたいんですよ。YouTubeに出てるバリ島でも有名な人なんやけど。一昨日に「この人と絶対に会わなアカン」っと思って、和歌山でオモロい会合をやってる有名な社長に頼んであるんです。その社長から頼まれたことを頼まれた日のうちに解決したもんで(笑)。

野球はいまでも大好き。
甲子園球場を借り切った

―― ここまで野球の話が一切出てきません

実は野球の話もあるんですよ。タイに行ったときにすごく目の輝いた子どもらがいて、「この子らと野球がしたい」って思って、これは実現したいなと思ってるんです。そのためには事業を何とかせなアカンのですけど(笑)。必ずしもタイに拘っているわけじゃないけど、教えるとかじゃなしに一緒にね。教えられることの方が多いんですよ、あの目の輝きに。日本やったらグラウンドがいいとか悪いとか言うじゃないですか。そんなん面白くない。僕らもこれから上手くなることないんやから、上手いとか下手とか関係なく、その子らと一緒にやる方が面白いじゃないですか。

―― 草野球とかはいまでもされているんですか?

やるのはやるんですよ。甲子園も借り切ってやりました。たまたまシャルレという会社の特約店をやることになったんですけど、そのシャルレが、これもたまたま野球チームを創ることになって。 20人くらいいたのかな。僕はなかなか行けてなかったんですけど、負けてばっかりやったんですよ。あまりにも負けてばっかりやから「よし、俺が行くから真剣にやれ!」って言って徹底的にやったら勝ったんですよ。若い子らが一生懸命にやって。そこで、「それはそうとお前らどこで野球やりたいねん?」と聞いたら、「大阪ドームでやりたい。甲子園でやりたいけど・・・」と言ったんです。

大阪ドームは簡単に取れましたね。で、甲子園をなんとか取れんもんかなと思っていたところに入札があるという話が入ってきて、若い子に「絶対取れるから行ってこい!」って行かせたら当たったんですわ(笑)。甲子園球場を6時間借り切って、女の人も子どもも含めて200人全部グラウンドに入れて、阪神園芸さんが整備もしてくれる。楽しかったですね。でも電光掲示は使えんかったかな。

― グラウンドに立ってみてどうでしたか?

だいぶ変わったけど、やっぱり思い出しますわね。特に、ホームランを唯一甲子園でだけ打ててないんで、これは打ちたいなと。だからこれからトレーニングするんですよ。もう一回借り切って甲子園で打ちたい。バカでしょ(笑)。

運は言葉で変わる。
言霊というのは、あると思ってる

― まさに情熱ですよね。いまでも野球はお好きなんですね

大好き大好き。内野ノックやったら1,000本くらい打ちますよ。たまたま、ある高校にちょっとの間行くことがあって、そのときにちょっとノックさせてもらったことがあるんです。教えに行くとかじゃないよ。監督さんと話してて「甲子園はどうかなぁ」なんて言うから「絶対に行ける」ってずっと言ってたら、実際に甲子園に行った。練習を見て「このチームは強い」とか思ったわけじゃなくて、甲子園に行けるかどうかなんて一定のレベルになったら運ですわ。運は言葉で変わるからね。言葉で「行ける」って言っておかないと、やっぱり指揮官が行けると思わんと、絶対にアカン。仕事もそうですよね。だからオモロなかったらね(笑)。オモロない仕事なんかしたくないし、オモロない人とは話したくない。

― 野球を始めたのはいつ頃なんですか?

小2のときかな、近所に少年野球チームができたとき。僕が無茶苦茶悪かったんで、「こいつはこのままいったらロクなもんにならん」って親が入れた(笑)。有り難いことに3年生からレギュラーになって、中学2年からは硬式にも入って、学校で軟式とチームで硬式って両方やってたんです。軟式と硬式は全然違うとか言いますけど、僕はそんなこと何も考えない。どっちもやったら面白いじゃないですか。軟式も硬式も両方で全国大会に行ったしね。ただ、小4のときには「俺は箕島高校に行って甲子園に行く」って決めてましたね。地元で強かったから。

― 松林社長が小4のときは、もう尾藤監督が箕島高校におられたんですか?

そう、尾藤さんが監督。みんな尾藤さんに習いたいと思って箕島高校に行くんですけど、スマイルは甲子園に行ったときだけですよ。まぁ練習はキツかったです(笑)。尾藤さんのすごいところはいろんな人を巻き込むこと。例えば整形外科の先生とか内科の先生とか。やっぱり人には分野ってあるじゃないですか。その人たちの知恵を借りて、いまでいうトレーニング方法とか言ってたわけです。その時分はナイター設備がないから夜7時までしか練習はできないんですけど、そこから各自が自主トレで、そのトレーニングをやったりしてた。

僕ね、中学のときは「俺ってスゲーな」って思ってたんですよ。それが高校に入ったらコテンパン。「俺ってこんなに下手くそやったんやな」って思った。周りもすごい選手が多かったけど、まったく打てなくなってしもうたんです。そこからですよ、必死になって練習をやったですね。僕らの当時は根性野球。根性だけで、他はどうもこうもない。でっかいタイヤを引っ張ってグワーって走ってたりとか(笑)。息子は星林高校で野球をやりましたけどセンスがあったね。僕らとは全然違う(笑)。

やっぱり言霊ってあるんやな~と思っててね。というのが、春夏連覇のときに徳島の池田高校と決勝戦をやったじゃないですか。ウチが勝って池田高校が負けたわけですけど、池田高校の蔦監督がその試合の後から変わったらしいんですわ。その試合の前には「明日は負けてもいいから頑張れ」って言ってたらしいんですけど、それを言わなくなったと。「何が何でも負けたらアカン」って、そうなったんやって。その後の池田高校は知ってのとおりやね。

高校野球はやり切ったですね。3年になるときの春のセンバツで甲子園に出られなくて、そのときに「夏に甲子園に出たら辞める」って決めてたんです。近畿大会ベスト8だったんですけど、春夏連覇ときて次の春。まぁ選ばれるやろと思ってたら選ばれなかった。尾藤監督が全日本の監督もされててあんまり僕らを見れてなかったのもあるけど、「よっしゃ、夏に行ったら辞める。その覚悟でやる」と考えたわけですね。最後の横浜高校戦、やり切りましたね。

お孫さんの岡本羚我君と。「立志達成」の書は社長の娘さんで羚我君のお母さんの筆

孫には自分の思ってることを思うように進んでいってほしい。
その中で自分で変えていけばいいんやから

羚我(りょうが)はすごいわな。近畿大会で団体3位。頑張ってますよ。羚我は天才やもんな(笑)。

彼にはとにかく、自分の思ってることを思うように進んでいってほしいですね。その中で変えるんなら自分で変えればいいんやから。それにね、僕、褒めるようにしてるんですよ。けなすのは誰でもみんなやってると思うけど、やっぱり褒められたら頑張ろか!って思いますしね。

羚我が頑張ってるのに、まだ剣道の試合を見れてないんですよ。見に行かないかんと思ってますし、行くつもりでいます。な、羚我(笑)

剣縁のみなさん、オモロい民宿なんで是非来てください。精神年齢22歳でやってますんで!(笑)

第8回剣縁稽古会&懇親会にて鍋山先生と羚我君の稽古。

コメント

関連記事