プロフィール
前中康裕(まえなか やすひろ) 1947年5月23日大阪市生まれ。大阪府立今宮高校から関西学院大学経済学部へ進学。卒業後は家業の材木商へ入社するも廃業に立ち会う。その後カメラメーカー勤務を経て学生時代の剣縁からフジビルに入社し、それ以来不動産関連に従事。42歳でヒロインターナショナル有限会社を設立するも企業勤めは継続。60歳を過ぎてヒロインターナショナルの代表に就任し本格的に活動を開始。剣道は中学から始め、大学時代には全日本学生剣道選手権大会、全日本学生剣道優勝大会に出場。剣道教士七段。
慶應との定期戦が縁で不動産の道へ
―― 関西出身の方が東京で不動産業というのは珍しいように思います
珍しいですよね。でも、これも剣縁でね。
僕のいた関西学院は慶應と定期戦をやっていて、法政、中央、日大とかに遠征して最後は必ず慶應で飲み会もやるって形だったんですね。その慶應の同期に中村君という慶應の志木高でインターハイに出た強者がいて、彼とはそこで2年から4年まで対戦し続ける縁で、彼が大阪にきたときにはウチに泊まって、僕は東京で彼のところに泊まらせてもらうくらい仲良くなってお付き合いをしてたんです。因みに定期戦の対戦成績は全部引き分け(笑)。もう少しいうと、僕が3年のときに出た全日本学生選手権でも一回戦で慶應の遠藤君という宇都宮高校出身の強者に負けた。そんな縁があるから慶應とはずっと仲がいいんです。
僕は大学を出てすぐに親父の会社に入りました。親父は奈良・吉野の出身で、大阪で材木商をやってたんですけどダメになった。最後は僕も専務の立場だったんですけど、負債額が大きすぎてどうにもならなかった。それが30歳のとき。その後で人脈もあって東京に来たんですけど、ある企業の役員をしていた叔父の知り合いのカメラメーカーに取り敢えず就職した。中村君は「ウチに来いよ」と言ってくれていて、彼は親父さんの代からやっているフジビルという会社を結構大きくしてたんですけど、時期をみてそこに移りました。そこで7~8年不動産をやって、それ以来ずっと不動産の仕事をやってます。
ただ僕にはやりたいこともあったからゴルフ場開発の会社とか光通信とかに行ったりしました。でも中村君とはずっと剣道では繋がっていて、いまもずっとお付き合いをしてます。それもこれも慶應との定期戦がベースですよね。だから、慶應と関学のOBOG稽古会だけはできるだけ出るようにしてる(笑)。

―― 独立されたのはいつですか?
42歳で中村君の会社を辞めるときに、彼から「会社を創って辞めてくれ」という話が出て、それで不動産の会社を創って彼が役員に入ったりしてたんですけど。でもサラリーマンをしないと食えないから、ウチの奥さんを社長にして、ときどきプライベートで仲介したりして自分の会社を動かしてた感じ。因みに、ウチの会社の税理士も慶應剣道部の同期。
―― 前中さんご自身が本格的にヒロ・インターナショナルの事業活動をされるようになったのは?
60歳を過ぎてからですよ。さっきも話したとおり不動産にずっと関わってはいたんです。フジビルにいて、それからゴルフ場開発の会社にヘッドハントされて。ウチの奥さんは「カネで転んだ」なんて言うんだけどね(笑)。でもそこに移ってすぐにバブルが崩壊したので、ちょっとしかいなかった。その後にご縁があって光通信の関係に行って、そこには結構長くいたんですけど、そこはいわゆる不動産の所有会社で賃料を稼ぐスタイル。本当の意味での不動産仲介の仕事をずっとやりたかったんですけど、家族を養ったり自分の生活の安定を考えたらサラリーマンをやるしかなかった。
で、ある程度そういうものも終わって、「じゃあやろう」ってなったのは60歳を過ぎてから。そこから15年以上経ちますけど、例えば物件の情報交換といっても、やっぱり人と人の繋がり。案件が決まったら決まったでもちろん人間関係は増えるし。そういう人間関係を千数百人、60歳を過ぎてから15年以上かけて積み上げてきたから、せっかくだからね、なるべくやりたいですよ。
―― いま78歳でいらっしゃる。会社の後継とはやはりお考えになられますか?
あと10年で88歳。いま娘も息子も50歳そこそこだから、あと10年頑張って、その時点でどうするのかを考えられるようにもっていけたらいいなと思ってます。娘は日商岩井からヒューレットパッカード、シーメンスと移って頑張ってるし、息子は飲食の世界にいるんですけど、帝国ホテルの鮨源から天ぷら料理の老舗の天一に引っ張ってもらって、いま羽田にできた新しい店のレセプション関係を任されてる。昔から不動産売買は「千三つ」といって、物件を1000紹介したら3件決まるなんて言われてますけど、実際にはそんなもんじゃない。ホテルとかの受益権売買も手掛けますけど、パートナー選びが非常に難しい。だから、彼女らが仮に不動産をやるとしても、仲介は結構厳しいから賃貸収入の方に切り替えておこうという頭はあります。それでも次がいないとなったとして、いまコミュニケーションをとったりサポートしてる若い優秀な人たちとうまく繋がっていければ、会社を継続できる可能性はありますもんね。

年を重ねて入っていく剣道のメンタルの世界。
その世界にいたことが強みになる
―― コミッションの世界はすごくシビアですよね
不動産業界にいる人はみなさん野心家ですよね。一発当ててやろうとか(笑)。この業界で続けているということは、良くも悪くも良い思いをしてるってことで。ひとつ案件が決まったら一般的な人の年収くらいが入るわけですから。不動産の世界は、大手の組織にいても個人商店みたいなもの。それぞれの持ってるモチベーションとかノウハウが大事。それだけやりがいもあるしシビアだけど、僕は、楽してリタイアしたいというよりは、生涯現役でやれるところまでやりたい。剣道ってずっとやれるし、年を重ねてみなさんメンタルの世界に入っていくから、体力が落ちても若い人に負けないってあるじゃないですか。それができる世界にいたから、仕事でもそうじゃないかって思うんですよ。不動産って、いわゆるソフトだから裸一貫でもできる。それだけに誰でもできるけれども、結構大変。
費用だって結構かかる。プロとして必要な登録免許を持って団体に所属するにも費用がかかるし、業者登録するのも非常に厳しいし費用もかかる。仲介でのトラブルに備えて保険にも入ってる。そういう備えも必要だから、ひとつ当たったからって贅沢したらアウト。リスクと恩恵は表裏一体だから、ウチでも、「こんど〇〇に行こう」とか僕が言っても、奥さんは「当たったらね」って。宝くじレベルって感じ(笑)。
―― 不躾ですけど、手数料というのはどんなふうに決めるのでしょうか?
比較的大きい物件で売主と買主の間に4社入ってるとする。大事なのは、売主から直にもらっている元付さんと、買主と直に繋がっている客付さん。その間にいる2社は“あんこ”って言いますけど、基本的には売主の代理である元付と買主の代理である客付が例えば3%ずつもらえる中で2%とか多めにとって、残りを“あんこ”の2社が分ける。数十億の物件だと、その“あんこ”が5社とか6社とかいたりするんです。だから、いかに売主とか買主と直に繋がるかが大事。ウチの担当が売主からもらってきて、僕がそれを買主に付けることができたら、同じ会社の中で分けらたりしますよね。でも、同じ会社の中でもルールは守っていかないと壊れるから、社員の取り分が数千万円で僕は数百万円なんてこともありますよ。

“日々精進”をモットーに自分と向き合う。
自分が「できるはず」と思っていることに対して後悔したくない
―― 剣道に話を移したいと思いますが、剣道はいつ頃始められたんですか?
中学からですね。親父が剣道かテニスかどっちかをやれって言ってて(笑)、それで剣道を。文の里中学という中学で当時の全校生徒が3,300人という超マンモス校。剣道部は結構強かったんですけど大阪のベスト4の壁は厚かった。天王寺中学とか摂陽中学ってベスト4の常連がいて。ただ、僕らより先にすごく強い人がいて、その代には優勝もしてましたね。高校は大阪府立今宮高校に進みました。当時はPLが強かったけれど群雄割拠の時代で、そんな中で常にベスト8にはいました。剣道部の伝統がある学校なんですよ。
―― 高校卒業後は、当時強豪として名を馳せていた関西学院大学に進まれます
僕が入学したときはすごかったですよ。関西ではずっと勝っていて、一度関西大学に負けたものの翌年には復権した。そんな時期。個人でも神谷さん(神谷明文範士八段)や米田さん(米田義一教士八段)という関西個人の決勝を戦った二人がおられて、神谷さんは全日本学生も制覇された。そういう方を間近で見てました。
僕自身は2年時が補欠で3年からレギュラー。4年のときは学園紛争で大変でした。試合には出ましたけど、稽古ができてないから、稽古がやれる環境にあった大学とは大きな差がついてた。僕らの代は仲がよかったんです。ギターを弾いたり車でみんなで出掛けたり。神谷先輩からは「仲が良いのはいいけれども、どんぐりの背比べだから、一歩出るだめには努力をせにゃいかんだろう」って言われてたんですけど、しなかった(苦笑)。
いま思えば、単なるレギュラーじゃなくて群を抜いて強かった先輩たちはやっぱり努力してましたよね。僕はそれをしなかったから、いまになって「やらないと後悔する」って思うわけです。さっき「生涯現役」と言いましたけど、サラリーマンとしてそれなりの仕事はやってきたものの、だんだん「このままで終わっていいのか」という感じになってきていて。人がどう評価するかじゃなくて、自分と向き合っているわけです。
剣道についても、もう一度八段審査を受けてみようかなと思っています。59歳で初めて八段審査を受けたときに、本当に必死になってる人たちが受からないのを見て、「俺はアマチュアだな。もういいな」と思っちゃったんです。でもね、やっぱり目標を持とうと思ってるんです。仕事も剣道も、結果としてできたかどうかは別として、誰に見せるわけでもなく自分が「やれるはずだ」と思ってることに対して。七段昇段の記念に手拭いを作ったときに書いたのが「日々精進」なんですけど、いま改めてこれを自分のモットーとして強く持ってます。

僕は毎週、奥さんとカラオケに行くんです。そのとき最後に歌う歌は決まっていて、奥さんは<大阪ラプソディ>で僕は小林旭の<惜別の歌>。これは自分の終の歌だなと思ってるんです。それなりに恰好をつけたいなとも思うしロマンもあるし(笑)。あとね、Adoが好きでライブに行ったりもしてるんですよ。10月の横浜アリーナは、チケットが2枚取れたので孫に一緒に行ってもらって。孫はスキズ ― 韓国の Stray Kids ― が大好きで追っかけをやっているので、年末にはみんなでソウルにも行きました。
そんなこんなで、なんとか元気をもらってます。だから、稼がないともたないんですよ(笑)

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