「どこの高校に進学したとしても、インターハイに出たい」
「誰にも負けたくない」
高校時代、国体4位という戦績を残した石橋社長は「日本一稽古が厳しい」と名高い大阪体育大学に進学し、商社勤務を経て起業をしました。
大阪体育大学の学生は、警察や教員を目指す人も少なくありません。なぜ石橋社長は起業家の道を選んだのでしょう。
現在取り扱う商材も、革財布・キャラクターグッズと、一見すると「体育大学」や「剣道」とは結びつきが薄いものです。しかし、お話を聞いてみると、育ててきた事業の根底には剣道の繋がりがありました。
穏やかな笑顔からは想像できない、強い闘志とハングリー精神をお持ちの石橋社長に、これまでの歩みと今後の展望について伺いました。
プロフィール
石橋 俊弘(いしばし・としひろ)
1963年、和歌山生まれ和歌山育ち。和歌山県立向陽高等学校を卒業後、大阪体育大学に進学。卒業後、フットワークインターナショナル株式会社、オカモト株式会社での勤務を経て有限会社グリットを創業。オリジナル革財布やキャラクターグッズの企画・販売事業、メンズアパレル・雑貨事業を展開する。
剣道は小学校一年生からはじめ、高校では国体ベスト4、社会人剣道では近畿実業団大会で準優勝の戦績を残す。現在も鑽己会に所属し剣道を継続中。段位は六段。
ホームページ
- メンズ・レディース財布通販専門店『お財布専門店ジージー』
- キャラクターグッズ販売『egトップス』
人の縁がきっかけで始まった革財布、キャラクターグッズ販売
──事業内容について伺ってもいいですか?
自社オリジナルブランドの革財布販売を柱に、キャラクターグッズ販売と卸売りを行っています。売り上げの割合でいうと、財布が5割、キャラクターグッズが4割、卸売りが1割です。
財布は、楽天でメンズ・レディース財布通販専門店『お財布専門店ジージー』を運営しており、財布をメインに200〜300アイテムを取り扱っています。例えばこんなお財布ですね。
──高級感のある、しっかりとした質感のお財布ですね。
熟練の職人さんが、丁寧に一つ一つ手作りした財布です。運気を向上するともいわれる「龍」をモチーフにしています。
昇龍は新しいチャレンジへの運気上昇を招き、降龍は今の幸せを継続する運気を招いてくれると言われています。縁起の良いデザインなので、自分用としてだけではなく、大切な方へのプレゼントとしても人気です。
素材は最高級皮革の栃木レザー。独自の色艶があり、使い込むことで色合いが深まります。内側にも本革を使い、高級感と耐久性のある財布に仕上げました。
──女性用のお財布も豊富ですね。日本製のL字型長財布など可愛いです。
ありがとうございます。男性用・女性用、カラー、財布のカテゴリ、価格帯…できるだけ多くの方のご要望に応えられるように種類をご用意しておりますので、ぜひショップをのぞいてみてください。
──お財布の仕事は何をきっかけに始めたのですか?
知り合いの専門チェーン店の社長さんに「財布を作ってくれないか」と相談されたことがきっかけです。僕はそれまで財布を作ったことがなかったのですが、その社長さんが財布を作るために必要なことを全て教えてくださいました。
ただ、「100個作ったら50個は買うけど、もう50個は頑張って売ってみろ」って。それが始まりですね。もう10年ほどやってます。
財布の商品企画をするのは僕で、女性スタッフ2人がキャラクターグッズの企画と販売を担当しています。
──キャラクターグッズの販売は、どんなことをされているのですか?
メーカーに版権をいただいてキャラクターグッズを生産・販売しています。人気作品であれば登場するキャラクターにファンができて、そのファンに向けて作られたグッズも売れるんです。
──財布とはまた全然分野が違いますね。どういうきっかけで始められたのですか?
きっかけは経営者の勉強会です。そこで知り合ったゲームソフト会社の方に「うちのキャラクターグッズを作りませんか?」とお誘いいただいたんです。こういうジャンルの商売があると、その時初めて知りました。
このご縁のおかげで、うちの事業の柱の一つになっているので、本当に感謝しています。
──卸売りもされているんですよね。
ええ、割合は少ないのですが…。最初に会社を立ち上げた時は、服のメーカーとして小売店への卸を中心に商売をしていたんです。でも、ファストファッションの台頭もあり、卸は厳しいと考えるようになりました。それで服を財布に切り替え、卸売を小売に切り替えた感じですね。
大学卒業後、警察や教員と迷いながらも商売人の道へ
──石橋さんは、小学校から大学までバリバリ剣道をやっていらっしゃったと聞きました。警察や教員ではなく、商売の道に進んだのはどうしてですか?
高校の時に「和歌山県警に来ないか」とお声がけいただき、友人たちとも警察に行こうと話していたのですが、いろいろあって結局大学に進学したんです。
大学卒業後は、和歌山に恩返ししたかったので教員になることも考えました。でも、採用試験がなかったんです。もうすでに正規の教員がたくさんいて、なれたとしても非常勤講師だったんですよね。
自分の性格を考えても、公務員よりも商売人の方が向いているかなと…。父も経営者だったので、幼い頃から商売人の背中を見ていたことも大きいかもしれません。
そんな折、大阪体育大学の作道先生のご紹介で、フットワークインターナショナル株式会社の剣道部の川上監督と知り合う機会があり、運よくフットワークインターナショナルに就職することになりました。作道先生がいらっしゃらなかったら、路頭に迷っていたと思います。
フットワークインターナショナルは商社で、僕は食品ギフトの物販を担当していました。商材は夕張メロンを始めとした産地直送のギフトです。ちなみに産地直送のブームを作ったのはフットワークインターナショナルなんですよ。
──実業団でも活躍されていたんですよね。
29歳くらいまではバリバリ試合にも出ていました。近畿実業団で準優勝したこともあります。
でも、毎年新人も入社してくるので、「そろそろ引退せなあかんかな」と思っていた時期に「北海道に転勤しろ」と言われて。「絶対嫌や!」って、何かのパーティーの時に当時の会長さんに直接「辞めます」って伝えました(笑)
剣友のお父さんの会社に転職。出資を受けて起業
──フットワークインターナショナルを退職した後は、どうされたんですか?
大学剣道部の同期のお父さんが経営するオカモト(株)というアパレル会社に入社しました。有難いことに「うちに来るか?」って誘っていただいたんです。
それまでとは全く畑違いのファッションの仕事で、イオンなどに入っている専門チェーン店に商品を卸す営業を担当しました。
──そこからどういった経緯で独立されたんですか?
オカモト(株)は転職して3年後、残念ながら倒産してしまいました。原因は受け取った手形が不渡りになってしまったことで、金額が非常に大きかったようです。もともと独立への意識はありましたので、転職か独立か悩みました。
当時、私は営業の責任者をしていたのですが、そういう話を得意先、仕入先にしたところ、支援してくださると仰っていただいたので、独立を決意しました。
最初はオカモトと同じファッション系の卸しの仕事をしていたのですが、先にお話ししたように、卸しの業態に限界を感じ始め、財布やキャラクターグッズの販売に徐々にシフトしていきました。
「誰にも負けたくない」ーー闘志を胸に、高校では国体4位に
──フットワークインターナショナルもオカモトも、剣道の縁が色濃いですね。剣道を始めたきっかけは何ですか?
従兄弟のお兄ちゃんの影響です。小学校1年生の時に新南(しんなん)少年剣道クラブで剣道を始め、やればやるほど上達していき、和歌山で1位、近畿で2位になりました。
6年生の時に辞めそうになったんですけど、最後の全国大会で不本意な成績になってしまい、納得がいかなかったので中学校でも剣道部に入りました。
──中学校の時は部活でやってらしたんですね。
はい、でも中学校の剣道部はそこまで練習に力を入れていなかったので、新南少年剣道クラブでも稽古を継続しました。
中学校が違ったとしても、小さい頃から一緒に試合で戦っていた同級生は大会でも勝ち上がってくるんです。違う場所で剣道していても、結局上に来るのは強いやつ。僕も勝ち上がらないと、悔しいじゃないですか(笑)
──負けず嫌いなんですね。高校へはスポーツ推薦で進学なさったんですか?
いえ、勉強して進学しました。僕らが中学生の時は和歌山市に6つの公立高校がありましたが、格差を無くすため進学する校区が二分割されました。その分けられた校区の中にインターハイ常連校の和歌山北高校が運よくありましたので、そこに進学したいと両親に伝えました。
しかし父がある日、占い師に相談に行ったところ「息子さんには向陽高校の方が合っている」と言われたらしいんです。父親にお前の今後の為には絶対良いと強く薦められました。
それで向陽高校を目指すことになりました(笑)向陽高校は進学校だったので、一生懸命勉強しましたよ!
──入学してからも、文武両道で取り組まれていたのですか?
入学したばかりの頃は一生懸命やってました。一学期は学年で7番、でも三学期には40番にまで落ちました。先生に呼び出されて「なんでこんなに成績が落ちたんだ」って聞かれて、「僕、剣道したいんです」って答えたことをよく覚えています。
だって、どこの高校に進学したとしてもインターハイに出たいじゃないですか。少なくとも僕は出たかったんですよ。
でも、向陽高校はそこまで練習する学校ではありませんでした。対する和歌山北高校は死ぬほど稽古するんです。勝とうと思ったら、個人でプラスアルファの取り組みをしないといけない。
──同学年の他の人たちも熱心だったんですか?
それが、5人くらい入部して、結局残ったの僕だけなんですよ。僕の学年は僕しかいない(笑)
──すごいですね、一人でもモチベーションを保たれて稽古してたんですね。
なんとしても和歌山北高校に勝ちたかったんですよね。団体戦で負けたとしても、個人戦で勝ちたいと考えていました。
和歌山は狭いので、少年剣道で強かったやつらはお互い顔見知りなんです。昔勝ってたやつに負けるの、悔しいじゃないですか。
北高に進学した剣友たちは絶対強くなるので、勝つにはどうしたらいいか、一人で黙々と考えて研究していました。さまざまな場面を想定した技ノートを作ったり…。
でも、結局目標としていたインターハイには出られなかったんです。一度インターハイ予選で決勝まで行ったこともありましたが北高に負けてしまいました。それ以来ずっと鳴かず飛ばずで、県ベスト8や4くらいの戦績しか残せませんでした。
──でも、高校3年の時に国体でベスト4に入られてるんですよね。
はい、インターハイ個人予選の戦績から候補者が選出され、最終的に5人に絞られました。1次予選で10位以内、2次予選で5位以内に入る必要があって、僕はギリギリ5位だったんです。北高から3人、向陽高校から僕、耐久高校から1人。みんな、少年剣道の頃から知っている顔でした。
僕ほんまはね、卒業したら和歌山県警に勤める予定だったんですよ。でも、この国体の試合がきっかけで、大学進学を考えるようになったんです。
大阪体育大学で、「絶対に折れない精神力」を身につける
──そこからどういう経緯で大阪体育大学に進学なさったのですか?
大学進学を決めたものの、ほとんどの学校でセレクションは終わっていました。先輩に勧められて書類を出した日体大には落ちてしまいましたし…。それでも大学に進学したくて、セレクションが12月だった大阪体育大学を受けることにしました。
国体での戦績も加点してもらい、ほぼトップで入試に通りました。
──すごいです。一般の大学じゃなくて体育大学を選んだのは、やはり剣道が好きだからですか?
そうですね。大阪体育大学って「日本一練習がキツイ」と言われてるんですよ。ボロボロになるんです。朝練して、昼も死ぬほど稽古して、さらに夜も稽古です。毎日合宿みたいな感じでした(笑)
──やめたいと思ったことはありませんか?
なかったですね。周りはみんな努力家でとても恵まれた環境でした。先輩からのいじめがなかったのも大きいかもしれません。大体大はオンとオフの切り替えがはっきりしてて、ファミリー感があったんです。
もちろん、場を乱すようなことは許されません。誰か一人遅刻するだけでも全体責任で鍛えられました。稽古での先生・先輩はまさに鬼です。でも、大体大には「後輩は奴隷」みたいな、ドロドロした上下関係はありませんでした。作道先生がそういう雰囲気を嫌っていたんです。
──稽古はとても厳しかったんですよね?
めちゃくちゃ厳しかったです。でも、ボロボロになるまで稽古したおかげで体力もついたし、何より絶対に折れない精神力が身につきました。卒業してからも、何事も「誰にも負けない」って気概で取り組めています。
会社が倒産するような危機に直面しても、どんなことが起こっても、「なんとかしよう」と、心折れずにやれることを黙々とやっています。
たぶん、僕は諦めが悪いんですよ(笑)やり始めたら続けてしまうんです。偶然なのですが、「グリット」という社名にもその気持ちは表れています。
歯車の中の小石のように。意思をもって、何事も貪欲にやり抜く
──グリットって、数年前にベストセラーになった本のタイトルにもありましたよね。「貪欲」とか「やり抜く力」という意味だったかと…。
昔、息子が観ていたアニメの実写版で「グリットマン」という番組があったんですよ。「グリットって響きがいいな」と思って意味を調べたら、「歯車に挟まった小石」「砂利」と書いてありました。
英語って、一つの単語に色々な意味があるじゃないですか。最後に「スピリット」とあって、ピンときたというか、気に入ったんです。
歯車は世の中、小石は自分です。「歯車の中で回ってはいるけれど、自分の意思(スピリット)はずっと持ち続けよう」と、そんな想いで名付けました。最近は今おっしゃったみたいに「やりぬく力」「絶対に諦めない姿勢」「復活する」などの意味で「グリット」はメジャーな言葉になりましたよね。
画数も良かったんです。社名をつけるなら、父親に11画の名前が良いと言われていたので…。
経常利益日本一を目指して。育ててもらった剣道への恩返しも
──今後の展望について教えてください。
財布の専門メーカーとして日本一になることですね。まだまだ、商品数もジャンルも足りてないけれど、自社ブランド財布専門のネット小売で社員一人当たりの経常利益額日本一になりたいです。
儲かるってことは、裏を返せば「付加価値の高いものを売って社会に貢献してる」こと。きちんとマーケティングして、まだ世の中にないものを提供して、お客さんに喜んでもらって、また買っていただく。ビジネスとしてはそういう仕組みを創りたいですね。
そして経営を引退したら、お世話になった剣道界への恩返しとして後進の育成に取り組みたいです。自分を生み育ててくれたのは他でもない両親ですが、剣道の影響も計り知れません。
僕は18歳で家を出て、そこから親との関わりは少なくなっていきました。でも剣道は6歳の頃からずっと僕のそばにあって、支え、育ててくれました。
──素敵ですね。後進の育成は、少年剣道での指導ということでしょうか?
そうですね。大阪体育大学に在籍していた時も、週に一度少年剣道を教えていたんですよ。子供たちが強くなっていくと嬉しいですし、何より可愛いかった。子供たちには、剣道に取り組むことによって元気になってほしいですね。
──「元気」ですか。
ええ、まずは元気で健康で明るくあること。「幸せ」は、どう感じるか人によって千差万別だから僕が決めることはできないけれど、元気で健康であることで損はないと思うんです。
きっと人の役に立てる機会にも、良いご縁にも恵まれやすくなるはずです。僕自身が剣道に育ててもらったように、元気な人材や子供を育てていきたいですね。
──良い縁に恵まれる人生は、きっとすごく豊かなものになりますね。本日はお話をお聞かせいただき、誠にありがとうございました!
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