世のビジネスマンには馴染み深い日本経済新聞。東京大学剣道部出身の青森裕一さんは、大学卒業後、同新聞の記者として数多くの取材、記事執筆に勤しんできました。充実した記者生活を送っていた青森さんでしたが、そこから一転、未知の世界であった保険業界へと身を投じます。トップセールスとしてキャリアを積み、保険代理店である有限会社サンミラーから乞われ、事業を承継するべく同社に転じた青森さん。その異色の経歴とともに、現在のお仕事に賭ける熱い思いを存分に語っていただきました。
プロフイール
青森裕一(あおもり・ゆういち) 1981年3月11日長野県生まれ。佐久市の江戸時代創業の味噌蔵の長男として生を受ける。小学4年で地元の信武館小平道場で剣道を始め、中高と剣道部で主将を務める。2000年の東京大学入学と同時に運動会剣道部に入部。法学部を卒業後、日本経済新聞社に記者職で入社し、大相撲や金融・保険業界の取材を担当。その後、外資系生命保険会社にフルコミッションのセールスとして転職し、スタートアップで日本初となるがん患者向けがん保険の開発プロジェクトにも参画。2025年より保険代理店の有限会社サンミラーに事業承継で入社。保険を中心としたオーナー経営者の相続・事業承継サポートを専門領域としている。公益社団法人日本証券アナリスト協会認定プライマリー・プライベートバンカー。書道十段。剣道五段。

かつては株式会社日本経済新聞社に記者として勤務していた経歴を持つ
新聞記者から保険業界へと転身。
かけがえのないお客さまとの出会いに恵まれた
―― 有限会社サンミラーの専務取締役を務める青森さんですが、現在のお仕事についてお話をうかがう前に、かつて日本経済新聞で記者をされていたという異色の経歴について少しだけ触れてみたいです
東大法学部の卒業後2年ほど続けた司法試験への挑戦に区切りをつけ、就職活動で見つけたのが日経新聞の記者職でした。いろいろな人と出会える記者の仕事に惹かれ、入社を決めました。その名の通り経済の新聞ですから、当然私自身もそちらの方面の取材をするつもりで入社したのですが、新人研修の最終日に希望する配属先を尋ねられました。どうせ新人の希望なんて聞いてくれるわけないんだから好きに書いてやろうと思い、「スポーツ部」を第一希望で書いたんです。たまたまその年がサッカーのワールドカップが開催される年で、スポーツ部を増員するタイミングだった。「せっかく希望しているなら」ということで、新人では異例のスポーツ部配属になりました。これから日経の記者として難しい経済のことを勉強していくぞ!という矢先だったので、ちょっと拍子抜けした気持ちでした(笑)。
―― 記者のお仕事となると、インタビューをして原稿をまとめて、という内容になるんですね
そうですね。インタビューをした経験はたくさんあるんですけど、今回のようにされるのは初めてのことで、ちょっと緊張しています(笑)。
私が初めに担当した競技は野球で、夏の甲子園も取材に行きました。ハンカチ王子こと斎藤佑樹選手(早実)と田中将大選手(駒大苫小牧)が決勝で延長15回を投げあって決着つかず、翌日再試合という歴史的な場面にも立ち会いました。そのあとに担当になったのは大相撲。はじめは野球に比べて地味な大相撲の担当は嫌でしたが、気づいたらすっかりちゃんこの味が染みて多くの力士とも仲良くなり、その交流は今でも続いているほどです。
印象深いのは、神奈川県警で大活躍された宮崎正裕先生(現・範士八段)の取材でしょうか。一流のアスリートの生き様を3回にわたって取り上げる企画を担当した際に、候補に挙がったのは大相撲の力士やオリンピック選手でしたが、なんとか剣道の選手を載せたいと思い全日本選手権大会連覇がどれだけの偉業かをデスクにプレゼンし、「それならやってみろ」とOKをもらいました。剣道をやらない人にとっては剣道家の記事は新鮮だったようでとても評判がよく、のちには髙鍋進先生(現・教士八段)も記事にしました。日経新聞にふだんあまり載らない剣道の記事を載せることができたのも私が剣道をやっていたからで、剣道のPRにも貢献できたのかなと思います。
―― 安定した記者職からフルコミッションの保険セールスに転職した理由は?前職はご自身も「とても楽しかった」と振り返るほどに充実していたかと思いますが
転職のきっかけはスポーツ部から金融担当の部署に配属になったことです。日銀の金融政策や債券、為替市場の担当をした後、担当したのが保険業界でした。その時に出会ったのがのちに東京海上日動の社長を務める東京海上日動あんしん生命保険の北沢利文社長でした。同郷ということでかわいがっていただいて、ご自宅に夜回り取材に行くと「上がって一緒に飲もう」と言ってくださり、ビジネスのことや保険のことを盃を交わしながら教えてくれたんです。その北沢さんが「青森くん、保険はね、人類が生み出した最高の知恵なんだよ」と教えてくれました。人格的にもすばらしく尊敬できる北沢さんの言葉にそれまで取材対象でしかなかった保険というものへの強い興味が湧き、もっと深く保険に関わってみたいという思いが沸きました。
ちょうどそのころ、自分はあくまでも「日経新聞」という金看板を背負っていたから取材をして記事がかけるのであって、自分自身は1円も稼ぐことはなく、新聞広告をとり、新聞を売ってくれる人のお陰で飯が食えているということに気づきました。まだ何者でもない自分は、その看板を剥がされて裸一貫になっても家族を養っていける力が果たしてあるのだろうか。そんな疑問を抱いていたこともフルコミッションの世界への転職の大きな後押しとなりました。
ジブラルタ生命時代はとにかくお客さまに恵まれたと思います。私は口下手でグイグイと売り込みができるタイプではないので、セールスはあまり得意ではありませんでした(苦笑)。ただ、もともと人とのご縁を大事にしていたこともあって、人と人とをつなげて、その輪を広げていくことが得意でした。その点においては、仕事が性に合っていたように思います。当時のお客さまたちとはお互いに応援し合えるような密な人間関係を築くことができ、その結果、成果をあげることができました。

写真は生命保険会社勤務当時にMDRT世界大会(有資格者のみ参加できる海外研修)に参加したときの一枚
―― とても興味深いお話です。それではいま現在青森さんがお勤めになっている会社や、肩書きにもあるプライベートバンカーという資格についても教えて下さい
2025年2月から勤務している有限会社サンミラーは生命保険代理店です。ジブラルタ生命の専属営業マンだった時と違い、それぞれ特徴の異なる9つの保険会社の商品を扱っているので、多様なニーズに応えられるようになっているのが当時との違いです。
私は、法学部出身で自身も老舗の跡取り息子だったということもあり、特に相続・事業承継の分野に昔から関心があり、自社株などの相続や事業承継に悩むオーナー経営者や後継者のサポートに力を入れたサービス提供をしています。プライベートバンカーという資格は日本証券アナリスト協会が認定している資格です。主に銀行で富裕層の資産管理をする担当者が持つ資格で、保険営業でこの資格を持っている人は数えるほどしかいません。この領域で起こる課題は生命保険の活用によって解決できる部分が多いのですが、単に保険を勧めるだけではなく、お客様が思い描くような事業承継をサポートしたいという想いから、相続・事業承継の総合的なコンサルティングのスキルを身につけられる国内唯一の資格であるプライベートバンカー資格を取得しました。
―― たしかに、普段何気なく生活してしまっていると、あまり意識が向かないところですね
誰しも自分の亡くなったあとのことなど考えたくはないですからね。でも実際には必ずその時はきますし、それがいつ来るのかは誰にも分からない。先延ばしにして対策をしないままだと、せっかく築いてきた資産が減ってしまったり身内で争いが起こったりと、ご自身が望まぬ結末になってしまうことも多いんです。
だからこそ、「相続や事業継承もまたご自身に関する大事なこと」ととらえていただけるきっかけをつくり、ヒアリングを通じて対策の必要性をお伝えさせていただくことが私の使命だと思っています。
お客さまはそれぞれ思っていることも違えばご家族や会社の状況なども違います。それだけに、まずは皆さんの抱えるご事情をしっかりとおうかがいして、それぞれに合わせた対策をさせていただくことがなによりも重要。保険でできることはあくまで一部に過ぎませんから、それ以外の分野でも全体的なアドバイスができるように心がけています。
残す資産の多い少ないに関わらず、相続には絶対に人の気持ちが関わってくるものです。私もいざ親の立場になってみればそれはなおさら感じるところで、死後、自分の残したもののせいで身内がケンカしてしまうことほど悲しいことはないと思います。せっかく自分が立ち上げた会社、事業も継承がうまくいかなければ経営状況は悪くなってしまいますから、そうならないように相続税務と相続法務の知見を活かしたアドバイスをしています。
―― お話をうかがっていると「業務」や「手続き」というよりも、「人の想い」をいかに聞き出すかが大事なようですね
なんと言っても元新聞記者なので、まずはとにかくお話をうかがいます。「会社をどう立ち上げて、どういう思いで事業をして、これからどのように次の世代につなげていきたいか」ということをうかがわなければ始まりません。話をしっかりおうかがいした上で、もし私がやるべきことがなければ、それはそれでとてもハッピーなこと。あとはただただ応援させていただくだけです。

―― 青森さんご自身も、現在の会社には事業承継で入られたんですよね。その経緯というのは?
保険セールスの仕事を順調に続けていた中、2020年にコロナ禍があり、会社から営業活動を禁じられました。そこでできた時間でAIやブロックチェーンなど日ごろあまり勉強する余裕のなかった分野の情報収集をするようになりました。同時に未知のウイルスの影響で世の中が驚くほどのスピードで様変わりしていくのを目の当たりにし、これから自分が人生で何をしていくべきかを立ち止まって考えました。そんな折に、オンライン診療を手掛ける医療ベンチャーから日本初となるがん患者向けがん保険の開発プロジェクトに誘われたんです。
ご存じのように、保険は大きな病気をした人はリスクが高いと判断されて、新たには入ることができないのが業界の常識です。私の保険の話に共感して保険を検討してくれたのに、お客さまががんの経験があったために何もお勧めができず、やり切れない思いをしたことが何度かありました。でも、やっぱり病気をしたからこそ保険の必要性を痛感し、欲しているひとに保険の力を提供したい。その思いから、プロジェクトへの参加を決めました。
―― 当時お勤めだった保険会社もまた大手企業。再び転職するには相当な決断とご家族の理解が必要だったんじゃないですか?
実際にその転職によって収入は大きく減りましたが、それでもチャレンジをすると決めたので。一番後ろ髪をひかれる思いだったのが、残してきてしまったお客さまたちのこと。私を信頼して保険に加入してくださったのに、私はそんな方々をいわば「置き去り」にしてしまった。でもお客さんはそのことで責めることもせず、むしろ応援してくださり、その後も良好なお付き合いを続けてくれる方ばかりでした。でも、私自身は私に大切な保険を任せてくれたお客様の担当者として仕事ができないことが、心にとげのように残っていました。
そんな時に、尊敬する保険会社時代の先輩の紹介で社長の久世と出会いました。今年77歳を迎える久世は自身が抱えるたくさんのお客様に自分が引退したあともしっかりとした担当者をつけてあげたいという想いで、後継者を探していました。
生命保険は長い人生のリスクを守るためのもので、担当者として本来ならばずっとお客様の担当をしていくことが理想です。私はそれができなくなったもどかしさを抱えていましたが、久世との出会いによって、久世の「自分のあともしっかりとお客様の担当をする人を作りたい」という想いと、私の「自分を信じて保険を任せてくれたお客様をまた担当したい」という想いが重なり、会社を承継することに決めました。
保険や相続というものは次世代に残していくものですから、本来であればその担当者も同じように世代を引き継いでいかなければならないもの。しかし、いまはまだ業界そのものがそのような体制が整ってはいません。いま私たちのやっていることは、私と久世のみの小さい規模でこそありますが、それでもその課題に真摯に向き合って、たとえば「担当者がいなくなって、自分がどんな保険に入っているかも分からない」ということが起こらないように仕組みづくりや啓蒙活動などにも取り組んで行けたらと思っています。

場所柄、両国もさほど遠くないということもあり、新聞記者時代から力士たちとも交流のある青森さんにとっても好立地と言える
中学、高校、大学と「剣道漬け」の日々。
剣道の「静の美しさ」に魅了された
―― 東京大学剣道部出身という青森さん。剣道はいつから、どのようなきっかけで始めたんですか?
きっかけは大分県で校長先生をやっていた祖父が剣道経験者だったことです。小さいころ母と帰省したときに、新聞紙を丸めた竹刀でバイクのヘルメットをたたく遊びをしてもらって、剣道に興味を持つようになりました。小学4年になると地元の長野県佐久市にある信武館小平道場に通うようになりました。指導をいただいたのは範士八段の小平初郎先生(故人)。小平先生のご指導は厳しかったですが、礼儀作法、感謝の心など大切なことをたくさん教えていただきました。
中学校、高校と剣道部に入部して、部活動に道場の稽古と剣道漬けの日々を過ごしました。振り返って唯一恵まれなかったことと言えば、中高とも専門の指導者の教師がいなかったこと。いまでも「もしあの当時専門の指導者に教えてもらっていたら……」なんて想像することもあるのですが、そんな環境だったからこそ「環境に恵まれた学校には負けたくない」という意地みたいなものが芽生えて頑張れた面もありました。高校は地域の進学校で、私も学力で選択した学校でしたが、当時は生活のすべてを剣道に捧げていましたから。「どうせ強豪校には勝てないよね」という空気を変えて、部員のみんなのやる気をどう高めようかと、授業中も教科書を衝立にして練習メニューを考えたりオーダーを考えたり。高校3年間はそんなことばかりやっていたので、受験にも失敗しました(笑)。その後の浪人生活の1年間は剣道からは完全に離れて勉強に集中した時期を過ごし、何とか東大に合格することができました。
―― やはり大学でも剣道部に入部したんですね
そうなんです。東大剣道部の大きな魅力のひとつが、やはり豪華な指導陣でしょう。少年時代に読んだ剣道雑誌に名前が載っているような最高峰の先生方から指導をいただけた。その経験は今後一生残る貴重なものだと思っています。
試合では全日本学生大会などには縁がなかったものの、不思議と相性が良かったのが、かつての帝国大学だった国立七大学で争う通称「七帝戦」。はじめて出場したのは2年生のときで、そこでは控えからの途中出場で3勝1分けでチームは優勝。4年生のときには全6試合で5勝1分けという戦績を残すことができました。
大学時代の取り組みもまた中学、高校時代といっしょ。東大であっても私立の強豪大学に負けるのが当たり前とはしたくなかった。どうやったら強い大学に勝てるのかを、周囲の仲間たちとは日頃からよく話し合っていました。

東大の道場・七徳堂にて、同期の仲間たちと
―― 社会人となって以降、稽古はどのように継続してきたんですか?
日経新聞にいたときは多忙でなかなか稽古をする余裕はなかったんですが、保険会社に転職してからは母校の稽古に参加するようになり、道場の七徳堂に足を運ぶようになりました。しかし、コロナ禍で剣道から離れている間に、息子が野球を始めて、気づいたら大した経験のない私が今では監督をやっています。野球は小学生のとき4年間やっただけなので、技術に関する専門的な指導は力不足ながら、同じスポーツとして剣道で培った挨拶の大切さや逃げずに挑戦する精神、集中力の身につけ方ならば教えることができる。監督として、子どもたちにスポーツの楽しさを知ってもらいたい、スポーツを通じて心の成長をしてほしいと思って指導に当たっています。休日は野球漬けの毎日なんですが、今年は五段にも昇段したので少しずつ剣道も再開したいと考えています。
―― いま再び剣道に復帰しようとしている青森さん。ご自身が感じる剣道の魅力はどんな点にありますか?
「構えた時の心地のよさ」ですかね。もちろん剣道には打った打たれた、もありますけど、構えて相手と剣先と剣先でやり取りをする姿はなんとも美しいし、あの緊張感は他では味わえないと思うんです。剣先、間合いの攻防を極めていく奥深さに剣道の魅力を感じます。仕事でも、お客様との「間合い」は大切だと思います。懐に踏み込みすぎてもいけないし、離れすぎてもいけない。これから、剣縁のみなさんとも稽古を重ね、奥深い間合いの修行を楽しんでいきたいと思っています。

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