人との「縁」を大切に。アナタの業務を全力アシスト!(河文龍 / バリバリアシスト株式会社 代表取締役)

在日韓国人3世として岡山県に生を受け、小学1年生から剣道をはじめた河さん。大学卒業後、名門実業団チームに就職するも3年で退職。経営者としての道を歩み出します。

現在は、クラウド型勤怠管理システム「バリバリ勤怠」を提供するバリバリアシスト株式会社、建築金物業IBGの2社の代表取締役を務めつつ、身寄りのない子どもたちの就業支援にも尽力する日々を送ります。

明るく、飾らない人柄の河さんですが、その精力的な活動のモチベーションを尋ねれば、差別や貧しさと戦い続けた少年時代の記憶が語られました。

プロフィール

河文龍(かわ・ふみたつ)

1981年岡山県生まれ。在日韓国人3世で日本名は河村文龍(かわむら・ふみたつ)。岡山県の関西高校から姫路獨協大学に進学。大学卒業後、グローリー株式会社に入社、実業団剣士として活動する。同社を退職後、経営コンサルタント、配送業を経て建築金物業のIBG、バリバリアシスト株式会社を創業。

剣道は小学1年時からスタート。主な戦績には関西学生優勝大会ベスト8、全日本学生優勝大会出場、全日本都道府県対抗優勝大会3位などがある。現在は子どもたちとともに東京葛飾区・梅本少年剣友会に所属している。段位は五段。

バリバリアシスト株式会社
http://baribariassist.com

勤怠管理を徹底サポート!
クライアントの希望にもすばやく対応

──まずは現在のお仕事についてうかがえれば。

バリバリアシスト株式会社というクラウド型の勤怠管理システムを取り扱う会社を経営しています。従業員の勤怠管理についてはいまだにタイムカードを利用されている企業もありますが、国を上げてクラウド型の導入が推奨されているのが現状です。同業他社も数多いですが、弊社が取り扱うアプリケーション「バリバリ勤怠」については「プロ向け」と言いますか、社会保険労務士(社労士)の先生方や経営者の方が使いやすい仕様となっているのが特長です。

パソコンはもちろんタブレット、スマートフォンなど様々な環境で動作しますから、たとえば出先からでもカンタンに入力が可能ですし、現在はアルコールチェック機能も連動しているので配送会社のクライアント様などにもご好評いただいています。

特性上、法律の変化にも対応が必要となってくるアプリなので「これで完成形」ということはなくつねにアップデートが求められます。弊社は決して大きな会社ではないですがそれが逆にメリットと言いますか、大きな企業であればどうしても対応に時間がかかるところをお客様の御都合に合わせてスピード感をもって対応できるのは私たちならではの強みだととらえています。

いろいろとアピールしたいポイントはありますがアプリなどは実際に使ってみないと分からないことが多いもの。デモ版も用意してありますから一度そちらをご利用いただいて検討していただければ(笑)。

──バリバリアシストは2015年創業とうかがいましたが、どのような経緯で現在の会社を起業されたんでしょう。

ノウハウとしては経営コンサルタント事務所に勤務をしていたときに得たものが大きいですね。当時は兵庫県姫路市の事務所に勤務していたのですが、そこで経営者のお客様たちからご相談を受けるなかで少しずつ知識を蓄積してきました。その経験があるのでこの「バリバリ勤怠」もたとえば補助金や助成金についての申請などもご提案させていただいたり、決して売りっぱなしで終わらない継続的なサポートが可能となっています。

──現在は東京都にお住まいだそうですが、もともとのご出身は?

岡山県です。岡山で高校まで過ごして、大学進学のために兵庫県の姫路へ。学生時代に姫路で人間関係を築けていたこともあって、就職も姫路ですることになりました。もともと最初に就職したのは姫路に本社のあるグローリー工業株式会社(現グローリー株式会社)でした。

──グローリーは世界最大規模を誇る貨幣処理機メーカー。自動販売機などを取り扱う企業であり、そして剣道でも名門実業団チームですね。

そうですね。大学卒業後にグローリーにお世話になって3年ほど勤務しました。そのあと退職して経営コンサルタント事務所に3年から4年ほど勤めて、それから経営者として配送業を経験、そして建築関係の会社を立ち上げ、現在に至ります。

──いろいろな業種を経験しているんですね。

仕事内容については「なんでもよかった」と言うのもおかしいですが、需要がある仕事というのは時代ごとに変化するのが必然。ですから私自身は仕事自体については変なこだわりもなければ偏見もないんです。

例えば配送業をやっていたときは私が28歳のときでしたが、当時はちょうどテレビの地上デジタル放送、いわゆる「地デジ化」が開始された時期でした。放送を視聴するためには新たに地デジ対応のテレビなどが必要となりますから自ずと配送業も需要が高まるだろうと考えました。

しかし、それも地デジ化がひと段落した時点で仕事が減るのは分かっていましたし、当時はガソリンの価格高騰も重なった時期。私自身はとくに贅沢にも興味がなくて、それこそ、寝るところがあってメシが食えればいい、という人間なのですが、従業員のことを考えると「なんとか彼らをしっかりと食わせてあげたい」と。だから配送業がひと段落した段階で、次に建築業に目を向けたんです。

──それが現在も経営されているIBGという会社ですね。

そうです。業種としては建築金物業になるのですが、振り返ればこれもまた「剣道の縁」がきっかけでしたね。ちょうど私自身が結婚をした時期で、大学剣道部の同期生にその報告をしたんです。彼は大阪に本社がある株式会社シンドウ工業という建設関係の会社に就職していたのですが、結婚の報告をするととともに冗談半分で「建築業に携わりたいから職人をさせてくれ」と頼んだんです。そうしたら「ええよ」と(笑)。そこで彼の勤務する会社にお世話になって、私を含めた従業員たちで技術を学ばせてもらいました。ある程度技術を覚えたタイミングで、仕事の需要が多いであろう東京へと移住したわけです。

当時は妻のお腹に赤ちゃんができていたこともあって、私自身は単身赴任。家族全員が上京してきたのは長男が3歳になったときですから、妻にはだいぶ迷惑と心配をかけました(笑)。

バリバリアシストとともに経営する建築金物業の会社IBGでは、自らも作業着に身を包んで現場に出向くことも。社名のIBGの由来は「いぶし銀」の頭文字だそうで、河さんのセンスが光るネーミング

「やるならとことんやれ!」
今も活きる母からの教え

──グローリーに勤務していた時代に兵庫県代表メンバーとして全日本都道府県対抗優勝大会に出場、本大会で3位入賞という輝かしい戦績を残していますね。グローリーは大きな企業でもありますし剣道の面でも充実。そんな職場を辞めるというのもなかなかの決断かと思うのですが。

おっしゃるとおりで、普通に考えると辞める理由は見当たらないんです。ですから当時お世話になった職場の部長も「なんで辞めるんや? こんないい職場他にないぞ!」とずいぶん引き止めていただきました。正直、自分自身でもグローリーのような良い企業に就職できるとも思っていなくて、辞めるときには泣きながら辞めたほどでした。しかしそれでもやっぱり自分は経営者になりたかった。その思いが揺らぐことはありませんでしたね。

せっかく入社させていただけた会社ですから、とにかく仕事も剣道も結果を残したい。だからどちらも必死でやりましたし、それこそこの会社で剣道人生を終えるつもりで稽古に励んで、結果的に入社2年目のときに全日本都道府県対抗で3位に入賞させていただけた。あのときは心の底から安心しました、「これで少しは会社に恩返しができたかな。もう剣道はこれで辞めよう、仕事も辞めよう」って。

──そこまで経営者へのこだわりがあるのはなぜなんでしょうか。

それは私自身のルーツと言うか、生まれ育った環境が大きいんだと思います。岡山で生まれた私は、祖父、祖母の代から日本で暮らす在日韓国人の3世です。河村文龍という名前は日本での通称名で、戸籍謄本では河文龍といいます。

今でこそ世間的にも理解は少しずつ深まってきていますが、当時はまだ在日韓国人への差別は激しく、私の家庭もまた貧しかったですね。私が育った地域は在日韓国人が多く住む集落で、正直日本人社会のこともよく分かっていないような閉鎖的な環境だったように思います。日本人と韓国人との間にはまだ大きな壁があって、私も子どもの頃は周囲の大人たちから「国籍のことでバカにされたらケンカをして帰ってこい!」と教えられていたほどでした。

身内にはパチンコ店を営む人が多く、私自身子どもの頃からそういった親戚の姿を見て育ってきました。ですから心のなかには自然と自分自身の裁量で仕事ができて稼げる経営者への憧れの気持ちが芽生えたんだと思います。

グローリーに在籍していた時代には独身の男一人が生活するには充分なほどの給料はいただいていましたが、私には故郷に親もいますし妹も3人います。実家への仕送りを考えると「もっと稼がなアカン」という気持ちはつねに心のなかにあったんです。

──なるほど。大変な生活環境だったんですね。しかし、そのような環境の中でどのようにして剣道と出会ったのかに興味がわきます。

当時剣道をやるなんて身内からすれば信じられないことでしたし、親戚のなかでも日本の学校を出たのは私くらいなんです。だから周囲からは「なんで日本の学校に通うんだ? なんで剣道なんてやるんだ?」と批判めいたことを言われたこともあります。

──どのような経緯で日本の学校に進学することになるんですか?

小学校に上がるとき、母親から選択肢を3つ提示されたんです。ひとつは韓国人の学校、もうひとつは朝鮮学校、そして日本の学校でした。おそらく母には、自分自身は狭い社会で生きてきた、と感じる部分があったんでしょうね。だから私に対しては日本の学校も選択肢に加えてくれたんだと思います。そういう母の思いも感じて、私は日本の学校を選びました。

──実際通学してみて、やはりそれまでの生活からはギャップはありましたか?

当時は家庭内では韓国語を使うことが多かったこともあって言葉の部分で戸惑うことはありました。今となればもう韓国語のほうが苦手なんですけどね(笑)。

当時は地域的な特色なのか、子ども会があって町の何丁目という範囲ごとにソフトボールチームがあったので、私も最初はソフトボールをやったんです。でもなかなかみんなの輪に入れませんし、もう数日で自分には合わないなと思って辞めました。そんなときに出会ったのが剣道だったんです。

ある日の放課後、通っていた小学校の体育館から聞こえてきたのが「ヤーッ、メーン!」という気合。体育館の中をのぞいてみれば、そこでは子どもたちが剣道をする姿があって、なぜか不思議と興味を持ったんです。

帰宅して母に「剣道やりたいんだけど……」と伝えると、もうすぐさま小学校に連れて行かれて剣道をはじめることになりました。

私の母は目標を達成するのに努力を惜しまない人で、それこそ仕事なんかでも徹底的に自分を追い込める人なんです。だからいざ私が剣道をはじめるとその情熱がこちらに向けられたというか、「やるならとことんやれ」と(笑)。小学生時代は道場を3つほど掛け持ちするほどで、母も熱心に応援してくれました。

──高校は関西高校に進学しますね。

県内には強豪の西大寺高校がありますから、当然私自身も西大寺への進学を意識はしていました。しかし、西大寺には県内のトップ選手が集まります。レベルの高いライバル選手たちに勝つためには同じ環境で同じ稽古をしていてはその差は縮まらないと思い、「打倒西大寺」を目標に関西高に進学を決めました。

当時の関西高は稽古がとにかく厳しくて、入学した時点で3年生の先輩方は全員部活を辞めてしまっているような状態でした。おかげで1年生から試合には出られましたが、最初は20人いた同期生も最後は5人になっていました(苦笑)。

周囲からもずいぶん期待をしていただいた高校時代ですが、やはり西大寺の壁は厚くて結局は県大会でも3位どまり。全国大会には出場はできませんでしたね。

──その後は姫路獨協大学に進学されます。

勉強も苦手でしたし家も裕福ではないので、大学に進学するつもりはなかったんです。とはいえ、就職といっても国籍の問題から剣道を活かした警察官にはなれないだろうし、きっと日本の企業もムリだろうと。ですから高校を出たら私も身内にならってパチンコ店で働くつもりでいました。ところが親から言われたのは「学歴は財産やから大学には行け」という言葉。そんな親の理解もあって、姫路独協大を受験して、運良く合格することができました。剣道推薦で入れてもらった大学ですからとにかく必死に剣道をやろうと。それもあって、学生時代は最終的にキャプテンを務めさせていただきましたが、自分自身はもちろん周囲の部員たちにも厳しい稽古を求めました。少なからず周囲からの反発はあるだろうなと覚悟していたのですが、仲間たちは私の意見を聞き入れてくれて積極的に自主稽古にも取り組んでくれたんです。結果的に大学として初の全日本学生優勝大会出場を叶えることができたのは本当にいい思い出ですね。

姫路獨協大学4年時にはキャプテンを務め、同大初となる全日本学生優勝大会出場を果たした。
写真後列左から2人目に学生当時の河さんの姿が見える

出会った人たちが幸せになること。
それが私の活動意欲

──現在ふたつの事業を営む河さんですが、児童福祉施設退所者への就業支援活動も熱心に取り組まれているとか。

はい、私の経営するIBGとバリバリアシストでは身寄りのない若者を積極的に雇用していて、実際にいまも児童養護施設などに足を運んではその活動のプレゼンテーションをさせていただいています。

この活動のもともとのきっかけは学生時代にあって、当時大学の近くにあったラーメン屋さんで私はアルバイトをさせてもらっていたんです。そこのご主人がお子さんのいる女性と結婚されて幸せに暮らしていたのですが、あるときご主人とその奥さんとが立て続けに亡くなられました。死因は病気で仕方のない部分はあったのですが、問題はまだ10歳の子どもが一人取り残されてしまったこと。当時若かった私は「この子は俺が引き取って育てる!」と意気込んだものですが、事情を知る先輩から「まだ学生のお前になにができる」と諭され、結局その子は児童養護施設に引き取られていったんです。

その後も彼のことはずっと見守っていて、施設で立派に育ててもらって無事に高校まで卒業、施設を退所後には就職をしたわけですが、やはり経済的に頼れる家族がいない環境で一人で生きるのは過酷だったようです。私はすぐさま彼を雇用することに決め、現在も弊社で働いてもらっています。

彼とのそんな交流によって児童養護施設を退所したあとの子どもたちの現実を目の当たりにして、私にもなにかできないものかと考えるようになったんです。

──ご自身の育った環境をうかがった上でお話を聞くと、「孤独」や「貧しさ」などの問題を抱える人たちへの愛情、優しさを感じます。かつての自分と重なって見える部分があるんでしょうか?

いやあ、どうなんでしょう。私自身はまだまだ未熟で、正直なところ社会貢献できるまでの力はない人間です。でも、なんと言うか、困っている人を放っておけない(笑)。とくにせっかくご縁のできた人たちに対しては「なんとか幸せになってもらいたい」という思いが強くて、それが仕事をする上での大きなモチベーションにもなっています。

──グローリー退職後から離れていた剣道も、お子さんがはじめるのとともに再開されたと聞きました。

子どもは小学4年生を筆頭に、小学1年生、5歳、2歳と男の子が4人いて、もともと男の子が産まれたら剣道をやらせたいとは思っていたんです。 自分としては剣道はずっと「生きている証明」だったという感覚があって、だから「好きか嫌いか」を問われると安易に「好き」と答えられずにいました。でも子どもたちがはじめるようになって自分の人生を振り返ってみると、剣道のおかげでここまで生かしてもらえたんだなと気づかされました。子どもの成長する姿を目の当たりにすると「剣道っていいものだな」と改めて感じます。だからいまはとても楽しく剣道と向き合うことができていますね。

道場で開催された親子剣道のイベントに家族全員で参加。
現在は東京都葛飾区にある梅本少年剣友会に所属している

2022年10月に開催された韓国の国体にて。在日チームの一員として試合に臨んだ
住所〒671-1104
兵庫県姫路市広畑区才809-5
電話079-236-4443

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