年末年始の営業について

薬剤師にして行政書士。小樽を起点に日本全国を元気に!(土屋武大/松ヶ枝堂薬局 専務取締役・薬剤師 小樽つちや行政書士事務所 代表)

北海道小樽市にある松ヶ枝堂薬局は創業40年以上の歴史を誇る老舗薬局です。店舗外壁の青いラインのデザイン、
入口横のシャッターに描かれたパンダのイラストなどは、
この地域で生活する方々にとってはもはや日常風景のひとつであり、
小樽市で暮らす人々の生活を長く支え続けてきました。
現在松ヶ枝堂薬局の専務取締役、薬剤師を務める土屋武大さんが、
自身の生家である薬局に携わるようになったのは2023年のこと。
今年(2024年)1月には新たに行政書士事務所も開設した土屋さんは、
かつては経済産業省に勤務していたという異色の経歴を誇る剣道家です。
過去、海外駐在中には現地での剣道指導経験もある土屋さん。
現在の事業に携わるようになった経緯、そしてその剣歴をうかがいました。

プロフイール

土屋武大(つちや・たけひろ)

1977年生まれ小樽育ち。小樽潮陵高校(北海道)から東京大学教養学部理科2類に入学、その後、薬学部に進学。大学卒業後は東京大学大学院薬学系研究科で学ぶも2002年3月に中退。2002年4月に経済産業省に入省。約21年の勤務期間のうち、インドネシア、ベトナム、インドと3度の海外赴任を経験。各駐在地でも剣道の稽古に励んだ。2023年7月に経産省を退官。同年8月、郷里北海道にて生家が営む(有)松ヶ枝堂に入社し、同社の専務取締役、松ヶ枝堂薬局にて薬剤師を務める。2024年1月、小樽つちや行政書士事務所を開設。現在、称号・段位は錬士六段で、2024年4月より小樽剣道連盟理事を務めている。自身の主な戦績には、関東学生剣道優勝大会出場、全後志剣道段別選手権大会称号54才以下の部優勝(2024年6月)などがある。2024年5月、自身の経験をまとめた著書『キャリアパスで大切なたった2つのこと』(遊藝社)を上梓した

松ヶ枝堂薬局:http://www.matsugaedou-pharmacy.com/

小樽つちや行政書士事務所:https://otaru-tsuchiya-gyosei.com/

北海道小樽市に帰郷。
ふたつのテーマを掲げて地域の活性化を目指す

北海道小樽市にある松ヶ枝堂薬局。土屋さんはこの薬局で薬剤師を務めつつ、2階スペースを利用して小樽つちや行政書士事務所を開設した

──北海道小樽市にある松ヶ枝堂薬局にて専務取締役、薬剤師を務める土屋武大さん。薬局自体は長い歴史を誇りながらも土屋さんご自身が入社したのは2023年とごく最近のこと。また、今年(2024年)1月には、薬局店舗の2階スペースに小樽つちや行政書士事務所を開設したとうかがいました。

土屋 松ヶ枝堂薬局はもともと母が開設した薬局で、私の家族は両親のみならず、3兄弟(兄、姉、私)の家族5人全員が薬剤師という家庭なんです。薬局は兄が継いで両親といっしょに経営していたのですが、中心となって切り盛りしていた母が3年前に亡くなったんです。以降は兄を中心に経営をしていました。そうした状況を踏まえ、色々と考えた結果、経済産業省を退職し、実家の薬局に携わるようになりました。

──以前はどのような職場でご勤務を?

土屋 経済産業省には約21年間お世話になりました。海外赴任を含めて国際関係の業務を担当することが多かったのですが、母が亡くなった当時、私は在ベトナム日本大使館に赴任していた時期でした。ちょうど帰任のタイミングでもあったため、帰国して母の遺産整理などの対応をした後、次の赴任先として決まっていた在インド日本大使館に赴任しました。

インドに赴任して以降、現地から兄、姉と月に1回ほどのペースでzoomミーティングをしていたのですが、そこで兄から実家の状況を聞くにつれて「なかなか大変そうだな」と強く感じ、私自身も何か貢献出来ないかと思うようになりました。私自身、経済産業省や大使館での勤務を通じて、直接ビジネスに関与してみたいという思いを持っていたこともあります。そういったこともあり退官を決意し、2023年8月に実家の(有)松ヶ枝堂に入社したんです。

──かつて薬剤師のお仕事を経験されていたんですね。

土屋 私が薬剤師の仕事をしていたのは、大学院を休学し、就職が決まった後の2001年9月から約半年間でした。私は東京大学薬学部に進学し、卒業後は東京大学大学院薬学系研究科修士課程で学んでいました。しかし修士課程1年目で「このまま研究者になるのは自分には向いていないんじゃないか」と思い悩み、思い切って休学をすることにしたんです。そこで以前に受けて落ちていた公務員と薬剤師の試験を受験し直した結果、その両方とも合格することができました。

 就職するにあたっては、薬局で育った経緯もあって当初は厚生労働省を希望していたのですが、紆余曲折あって結果的に経産省にお世話になることになりました。公務員試験に最終合格し、内定をいただいたのが8月半ばという時期だったので、入省までにはまだ半年ほどの期間がありました。そこで考えたのが薬剤師の資格を活かしてみるということ。経産省に入省してしまえば薬剤師の仕事をする機会はもうないですから、一度は親の仕事を経験してみたいと考えました。そこで偶然にも雇っていただけたのが東京の江東区で新規オープンするチェーン店の調剤薬局でした。通常、半年で辞める予定の未経験の薬剤師は採用してもらえないのですが、そのチェーン店の幹部に事情を話したところ運よく雇ってもらえました。そのおかげで半年ほどの期間でありましたが、実際に薬剤師を経験させていただくことができました。

──現在は久しぶりに薬局で勤務をされているわけですが、やはり難しさなどは感じますか?

土屋 ほぼ20年ぶりですから、私が以前働いていた頃に比べれば新薬やジェネリック医薬品もかなり増えていました。「この薬はなんだろう?」と新しい薬を覚えたり、チェーン店での経験を思い出したりと日々勉強しながら勤務していますね。

──2024年からは新たに行政書士の事業が加わりました。

土屋 そもそもですが、私が実家に戻るにあたってふたつのテーマがありまして、そのひとつが「薬局プラスα(アルファ)」なんです。私の生まれ故郷・小樽市の人口減少は著しく、毎年コンスタントに2000人ほど人口が減っていっています。そんな状況のなかでは患者数も年々減っていき、それは売上げが落ちていくことにもつながります。薬局だけでは今後事業が成り立たなくなるのは容易に想像できることでした。そこで必要とされるのが「薬局+α」だと考えました。私の思いとしては、「プラスα」の部分は薬局に関することに限らず、それ以外の取り組みも有り得ると考えていたのですが、これまでの行政経験を活かしたいと思い、公務員17年以上の職歴があると行政書士資格を得られるという認定制度があったため、行政書士事務所を開設することにしたんです。

──行政書士の資格は取得しようとしたのはなぜ?

土屋 もともと経産省に勤務していた時期には多くの部署を経験しましたが、そこでは法律関係の仕事にも多く携わることになったんです。私自身は薬学部の出身ですから、過去に法律を専門的に学ぶ機会はありませんでした。法律関係の業務をスムーズに進めていくためには行政法や民法を学んでおいたほうがいいだろうという思いがあり、大手の資格学校に通って勉強したりもしました。経産省の現役時代には惜しくも行政書士試験には合格できませんでしたが、改めて試験を受けると時間もかかることから、公務員職歴による認定制度で取得することにしました。

 さらに、行政書士の資格は私が小樽で事業を展開する上で掲げたもうひとつのテーマとも大きく関係しているんです。そのテーマとは「小樽×国内外の他の地域・都市」というものです。

──それはどういった内容のテーマなんでしょうか?

土屋 先ほどもお話したように小樽は人口減少に悩んでいるわけですが、同じ悩みを抱える地域は日本全国に数多く存在します。他方、各地域の地方創生に向けた活動に目を向けてみれば、小樽のみならず多くの地方都市では、まずは「自分たちのところに移住してください」とアピールしている例がほとんどです。しかし、それは私の目にはどうしても単純に少なくなっている日本の人口のパイを取り合っているだけに見えたんです。

 もちろん移住促進も決して効果がないわけではないと思いますが、「皆さん来てください」と言うだけではどうしても発展性が限られてしまうのではないかと感じています。「来てください」を言うのであればこちらからも行くべきだし、その逆もまた然り。日本国内のみならず、海外も含めて「相互の交流」、つまり「対流」をつくり上げていくことこそ、日本全体の活性化の道につながるのではないかと思うんです。

 ここでひとつ申し上げておきたいのは、私は「小樽だけをどうにかしよう」と考えているのではなくて、小樽を起点として周辺の地域や北海道全体、ひいては日本全体が活性化するようなことができればと考えています。やはり、その地域の人たちだけで集まってなにかを考えようとしてもいいアイディアが出来ることはなかなか難しく、様々な価値観がぶつかり合うことが重要ではないかと思います。

 私がこのようなことに気がつくようになったのは、経産省勤務時にインドネシア、ベトナム、インドという三つの国々の大使館に出向させてもらった経験が大きいですね。とくに私が在ベトナム日本大使館に赴任した2018年頃は、技能実習生として日本に滞在するベトナム人が非常に多くなってきた時期でもありました。その後、特定技能制度が創設され、加えて今後は技能実習制度から育成就労制度に変わっていきますが、今後さらに人口が減っていく日本においては海外の方々の力を借りないかぎり発展は難しいんじゃないかと思っています。もちろんそれは海外との交流だけではなく、国内の他の地域との連携や助け合いも絶対に欠かせないもの。ですからテーマとして掲げているキーワードも「小樽×国内外の他の地域・都市」という表現にしています。国内外問わずにそれぞれが手を取り合って活性化していく道を模索していくことこそが解決策ではないかと考えています。

──非常にスケールの大きなそのテーマに行政書士としての土屋さんはどのようなかたちで関わってくるんでしょうか?

土屋 行政書士はある一定の研修を受ければ、外国人の入管手続きなどのサポートできる「申請取次行政書士」となれるのですが、私は今年の5月にその認定を受けました。そのため、今後は海外からの入管支援にも取り組みたいですし、かつて海外駐在していたときの縁から日本に関心を有していたり、日本語が堪能だったりといった海外人材を紹介していくことも可能です。事務所の開設自体が1月のことですからまだ本格的に活動はできていませんが、薬剤師と通常の行政書士の業務も大切にしながら海外との交流促進に関する仕事にも取り組み続けていくことで、将来的に私の掲げた2つのテーマが実現できるものと信じています。

駐在地で剣道指導。
ベトナムチームをアセアン剣道大会連覇に導く

自身の剣道人生の大きな転換期となったのが東京大学剣道部在籍時代。写真は大学現役最後の試合である1999年10月に開催された京都大学との定期戦で撮影された1枚。大学3年時の関東学生剣道優勝大会への出場経験は土屋さんにとって学生時代の大きな思い出のひとつとなっている

──経産省時代の経験は土屋さんにとって貴重な財産となっているようですね。

土屋 多くのことを勉強させていただけましたし、楽しかったですね。経産省というのはとても自由闊達な役所で、若手の意見をとても尊重してくれました。その昔、通商産業省時代に日本経済の発展のために尽力してきた礎のもと、日本経済のためには自分たちの役所以外のことでも前向きに変えていこうという雰囲気がある職場でした。私自身は経産省のことを「野党的与党」と呼んでいて、たとえば他省庁のマターであっても、それが日本経済の発展に寄与できるのであれば積極的に意見していく役所でした。ときには「他省庁の縄張りを荒らす」というとらえ方をされることもありますが、日本政府という与党の立場でありながら、野党的に他省庁マターでも積極的に意見していき、前向きに物事を変えようとする役所でした。そうした風土の中で、他省庁出向者も数多くいる大使館や内閣官房への出向もさせていただき、いろいろな立場の方と一緒に仕事することもできました。この経験は、自分の能力的な部分に加え、人的ネットワークも高まったという手応えが感じました。

 海外での人脈という点では、そこで大いに活きたのは剣道のネットワークでした。なぜかというと、東南アジアの日本人駐在員は、週末は仕事関係で現地の人や他の日本人駐在員とゴルフに行くことが多いんです。そうなるとどうしても交流するのは仕事関係者に限られてしまう。しかし、私の場合は剣道を通じて仕事関係以外の日本人駐在員の方々と交流することができました。また、インドネシア、ベトナム、インドそれぞれで剣道に取り組んでいる現地の方々と、日本文化である剣道を介して触れ合うことができました。ともに稽古をして汗をかき、お酒を飲めばもう身分や肩書きも関係ないんですよね。これは海外駐在経験があり現地で剣道をやっていた方々は皆さんが感じていることだと思います。

──合計すると9年間も海外での剣道経験がある土屋さんですが、もっとも印象深い出来事となるとどんな思い出が挙げられますか?

土屋 印象深いのはやはりベトナムでの経験でしょうか。2019年8月にインドネシアで開催されたアセアン剣道大会においてベトナムチームの監督を務めさせていただき、男子団体で優勝、女子団体で3位となったのが私にとってはかなり大きい経験となっています

 アセアン剣道大会は3年に1回のペースで開催されていますが、2016年開催のタイ大会ではベトナムは男子団体で初優勝を果たしているんです。私が監督のお話をいただいたときには「ぜひ連覇を達成したいんだ」という希望をうかがっていましたから、結果的にそれが叶えられたのは本当にうれしい出来事でした。

 ベトナムの剣道事情をお話すれば、国内の剣道団体が大きく2つに分かれてしまっており、統一組織がないため、いまだ世界剣道連盟には加盟できていません。コロナ禍が明けて以降、四段、五段に合格する剣士も増えてきています。剣道人口も多く、実力もあるので早く世界剣道連盟加盟への環境が整ってほしいと思っています。

──海外の剣道愛好家たちの熱量はいかがでしょうか?

土屋 ベトナム剣士は皆スゴく一生懸命に稽古をやっているんですよね。通常稽古で切り返しを10回行うなど、本当に熱心でした。ただ、現地の実情を見て私が感じたのは「顧問のいない部活」ということ。とにかく一生懸命稽古に取り組んでいるけれど、やはり技術的な部分での専門的な知識や経験が不足しているような印象を受けました。ですから、私が指導に携わらせていただいたときには、技術的な部分でなんとか彼らの背中を押してあげることができたらいいなという思いがあったんです。

 現地では私は英語を用いて指導をしていたのですが、そこでは大きな気づきがありましたね。たとえば面をまっすぐ打ってほしいときでも、単純に「ストレート」と言って終わらせるのではなくて、実際に彼らの面打ちがまっすぐになるように教えなくてはなりません。そのためにはまずは私自身の理解が問われてくる。その中で考えたのは、面打ちについては相手の面金をターゲットにし、相手が動いたとしてもその面金に沿うように竹刀を振り下ろすことで常にまっすぐな面を意識させるといったことでした。他言語でありながらも、分かりやすい単語で、かつ、噛み砕いた表現で指導をする。その経験が、私にとって剣道をより深く理解することにつながりました。

いま小樽で子どもたちの指導に携わっていますが、英語で教えていた内容を日本語に訳しながら指導している感覚なんです。子どもたちが理解してくれている様子を見ると嬉しくなりますが、やはりベトナムでの指導経験のおかげです。

2019年、駐在先のベトナムで、アセアン剣道大会に出場するベトナムチームの監督を務めることとなった土屋さん。土屋さん率いるベトナムチームはインドネシアで開催された大会の男子団体戦で見事に連覇を飾る

──ここで土屋さんの剣道歴を振り返っていただければと思います。剣道はいつ、どのようなきっかけで?

土屋 生まれ育ったこの小樽で、小学校2年生に進級したタイミングで剣道をはじめました。ちょうどクラス替えがあって、新しい友だちもできた。その新しい仲間たちと遊ぼうとしたところ、そのうちの2、3人が「今日は剣道に行くから遊べない」と言うんです。その当時の私は剣道がどんなものであるのかもまったく分からなかったのですが、自分も剣道をはじめればその子たちとも遊べるなと。最初はそんなささいなきっかけから小樽市内の体育館で活動している団体に入会しました。

 なんの知識もなくはじめた剣道ですから当初の取り組みは熱心とは言えませんでしたね。そもそも子どもの頃は太っていたのもあって、あまり運動自体が好きではありませんでした。そんな私がマジメに道場に通い出すのは小学校5、6年生になってからで、それはひとつ上の姉が剣道をはじめたから。姉が道場に行くといつも「お前の弟、あまり来ないじゃないか」と言われてしまうそうで、そこからは私もマジメに稽古に通うようになりました。 

 その後、地元の中学校に進学すると、学校では卓球部に所属しました。小樽市内の学校には剣道部がなかったものですから、道場の歴代の先輩たちも学校での部活動を終えたあとに道場に足を運んで稽古をしていたので、私もまた同じように部活動のあとに道場に向かって稽古を積んでいました。

 高校では剣道部に所属したのですが、ちゃんとした顧問のいる部活動ではなかったので練習も週に3回ほど。この頃には、試合でこそまったく勝てはしないけれど、自分なりに稽古をするのは好きになっていましたから、学校の練習後、学校の練習がない日などは積極的に道場に通っていましたね。

──土屋さんにとって大きな転機となったのは、やはり東京大学への入学でしょうか?

土屋 そうですね。大学剣道部に入部してから自分のなかで世界が広がったような感じはします。私はもともとは体育会ではなく、最初は剣道サークルに入ったんです。もちろんサークルにはサークルの良さはあるのですが、私自身はサークルでは少し物足りなさを感じたものですから、1年生の10月から運動会剣道部、いわゆる体育会系剣道部に入部したんです。剣道部では稽古は週に4、5回ほどに増えましたが、それに比例するように自分自身も少しずつ剣道にハマっていって、剣道が人生の中心になっていったような感覚があります。

 

──学生時代はなにをモチベーションに部活動に打ち込んだんでしょう?

土屋 当時はレギュラーになることを目標にして部活動に打ち込みました。しかし、当時は先輩方も非常に強かったですし、なにより私自身は試合は強くありませんでした。この剣縁のインタビューにも登場している大矢芳弘くん(株式会社VC長野クリエイトスポーツ代表取締役社長)は私が4年生のときの1年生ですが、彼は1年生の時から強かったです。ある日、その彼から「先輩の剣道はケレン味がないですね」と言われたのを覚えています。しかしそれは私の剣道が真っ正直すぎて「上手さ」に欠けるということで、実際に試合ではハマれば勝てるけれど負けるときには速攻で負ける、といったことが多かったですね。

 一応、学生時代の目標として日本武道館で試合に出るというのがありましたが、3年生のときに叶えることができました。関東学生剣道優勝大会の選手に起用していただいて、1回戦で強豪の法政大学と対戦しました。結果的には敗れてしまったわけですが、それでも私にとってその経験はとても刺激的で、日本武道館で試合ができたことはいい思い出のひとつとなっています。

──剣道については、その後はどのように継続してきたのでしょうか?

土屋 大学院時代は引き続き東大剣道部の稽古には参加しましたね。経産省に勤務していたときには、ありがたいことに職場に剣道部があったんです。剣道部には東大剣道部の先輩方も多くて、強い先輩方も多かったですね。通産大臣をされていた橋本龍太郎元総理が稽古にいらしたこともありましたし、橋本元総理が慶応大学剣道部出身ということもあり戸田忠男先生なども参加されており、剣道部の環境はとにかく充実していました。ですから経産省内でも剣道部は一目置かれており、職場でも「今日は稽古に行かなくていいの?」と声をかけてもらえるような、非常にいい雰囲気がありました。

──当時の稽古の場所はどちらで?

土屋 経済産業省別館の屋上レクリエーション室というスペースを利用して、月曜日の朝と夜、水曜日の夜、金曜日の朝に行なわれていました。その他にも、防衛省、財務省や文京区の道場での稽古にも参加させていただきました。

 学生時代まで熱心に剣道をやっていたのに就職を契機に剣道を続けない方も多くて、私自身もそこは寂しく感じているのですが、自分自身の経験から考えればやはりその原因は「続けられる環境」が整っているか否かが大きな要素だと思います。私の場合は職場に稽古場があり、稽古してから職場に戻ることも可能な環境でした。高校時代までから思えば、まさか自分がここまで剣道を続けるとは夢にも思いませんでしたが、それも大学剣道部と経産省剣道部のおかげですね。

──現在の稽古環境はどのように変化しましたか?

土屋 小樽での稽古は週に3、4回くらいでしょうか。いま小樽市内には道場が3つあり、そちらの稽古に参加させていただいています。基本的には子どもの指導がメインです。毎週1回小樽剣道連盟の一般稽古会もあるため、そちらにも参加させていただいています。

また、現在は小樽の実家での勤務は単身赴任で、家族は東京にいるんです。そのため、私も月に1回、土曜日お昼までの薬局業務終了後の週末に東京の自宅に帰るようにしています。東京に戻ったときには、日曜朝に行なわれる講談社の野間道場に行かせていただいたり、タイミングが合うときには母校東大の稽古にも参加させていただいています。

──いまも変わらず精力的に稽古に取り組んでいるんですね。スタートしたばかりの小樽でのお仕事については今後の展開が楽しみなばかりですが、剣道に関するこれからの目標などはありますか?

土屋 現在七段挑戦中なので、ぜひ合格したいと思っています。過去2回(2023年11月東京審査、2024年5月札幌審査)はA判定と大変悔しい思いをしています。自分の足りない部分としては、相手を遣った技が出せていないということだと思っています。相手を引き出して、その上での応じ技を出すことができればきっと合格をいただける。そんな手応えを感じながら稽古に取り組んでいます。

 また審査への挑戦とともに、今後は試合にもできるかぎり出たいですね。いま名札が表は「小樽 土屋」で、その裏面に「北海道 土屋」と記されているものを使っていますが、いつかこの「北海道 土屋」の名札で試合に出られたら幸せです。

──昇段のみならず、試合にも積極的に挑戦していくんですね。

土屋 はい、私は剣道が上達するためには稽古は当然のこと、試合、そして審判とその三つにしっかり取り組まなければ向上していかないと思っています。ですから今後もできるだけ試合に出て、できるだけ審判を務めさせていただく。そのスタンスを崩すことなく、継続していきたいですね。

いまも足を運ぶ大切な稽古場であり精神的な拠り所でもある東京大学の道場・七徳堂。写真は2024年1月の新年稽古に参加したときのもので、甥の老川凜くんと参加した際に撮影したもの
小樽市では少年指導に携わる土屋さん。海外での指導経験により、分かりやすい表現で伝えることの重要性を学んだという
現在でも積極的に稽古に取り組む土屋さんは現在剣道六段。今後は七段昇段を目指しつつ、試合にもチャレンジしていく予定だという

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