「人こそすべて」剣道家が経営するIT企業とは?(市坪勇/Wintec Japan株式会社 代表取締役)

兵庫県神戸市・六甲アイランドに本社を置くWintec Japan株式会社は、
医療情報システム運用管理を専門としたIT企業です。
創立は2004年、今年20周年の記念すべき節目を迎えました。
創業以来業績好調で、黒字経営が続くWintec Japanの代表取締役を務める市坪勇さんは実は剣道愛好家。
高校時代にはインターハイ団体戦の決勝に進出した実力者です。
高校卒業後は剣道から離れ、IT業界に飛び込みました。
高校剣道のトップ選手がいかにしてIT業界で戦い、
そして自ら会社を立ち上げるに至ったのか。
いま再び竹刀を握り、仕事に剣道にと充実の日々を送る市坪さんに、
ご自身の歴史を語っていただきました。

プロフイール

市坪勇(いちつぼ・いさむ)
1969年大阪府生まれ和歌山育ち。和歌山東高校(和歌山)卒業後、IT業界へ。京都市の企業に就職したのち、2004年に医療情報システムを専門としたWintec Japan株式会社を設立。同社は今年創業20周年の節目を迎えた。剣道は小学2年生からはじめ、和歌山東高校在学時にはインターハイ団体戦で2位入賞、国体出場(2回)などの優れた戦績を収める。高校卒業以降は長く剣道から離れるも43歳のときに剣道を再開。現在、段位は五段。

Wintec Japan株式会社:http://www.wintec-japan.co.jp/

愛娘の誕生をきっかけに、
医療業界に貢献するために創業

2004年に創業したWintec Japan株式会社。当時は大阪府和泉市にある創立スタッフの自宅アパートをオフィスとしてスタートを切った。その後は大阪市中央区に拠点を構えたが2018年の大阪府北部地震、コロナ禍を経験したことで市坪さんの危機管理意識が高まり、2022年から現在の神戸市へと本社を移転した

──医療情報システムを専門的に扱うWintec Japan株式会社。その創設者であり代表取締役社長である市坪勇さんにお話をうかがいます。創業20周年の記念すべき節目を迎えられたそうですが、業績自体も好調とのお話を聞きました。

市坪 おかげさまで、創業以来、一度も赤字を出すことなく20年の節目を迎えることができました。ありがたいことですね。

──すばらしい業績です。まずは現在の主な事業内容からお聞きできれば。

市坪 主な事業としては、医療機関の電子カルテシステムとオーダリングシステムに特化した導入支援や運用管理サービスを行なっています。ちょうど私が起業するタイミングが医療現場に電子カルテシステムが導入される過渡期でした。厚生労働省からの助成金などが出る時期とうまく重なったことも追い風となったように思います。

 現在は、近畿圏にある大学病院をはじめとした中規模以上の公立病院を中心に弊社の技術者を常駐させ、各施設にてきめ細やかなサービスが提供できるよう取り組んでいるところです。業務の幅もどんどん広がりを見せてきており、システム利用者からの問い合わせへの対応や障害対応、機器管理や保守だけでなく、医療従事者への電子カルテの操作教育や、医師が研究等に使用する持ち込みパソコン・タブレットの操作サポートなども行なうようになりました。とくに近年は、医療機関を狙ったサイバー攻撃なども憂慮すべき大きな課題のひとつ。その一次対応を求められるようになってきたのもまた新たな変化と言えるでしょうか。

 私が会社の「行動基準」として掲げているのは「3S(スリーエス)」で、「信念」「信頼」「誠実」の3つのSを指します。とくに私どもの仕事で取り扱うのは患者さまの個人情報だけに、この3つのSのどれかひとつでも欠ければ、それはもう一瞬で取り返しのつかない事態になってしまいます。

 IT業界で医療に特化した事業に取り組む会社は当時は数えるほどしかなく、競合他社も少なかったことも弊社の成功の大きな要因のひとつと考えているのですが、実際のところいざ参入したとしてもその「信念」「信頼」「誠実」をお客さまから得て、そして守り続けるということはやはり容易いことではないというのが私の実感ですね。

 

──その大事な「信念」「信頼」「誠実」を得られているからこそ、いまのWintec Japanがあるんですね。

市坪 そのとおりです。実は弊社には営業はおらず、仕事はすべてお客さまからの直接のご依頼ばかりなんです。事業をさらに拡大しようと思えば病院様とのお付き合いをさらに広げていく営業が必要なのでしょうが、いまは大変申し訳ないことにこちらも手一杯でむしろお仕事をお断りさせていただいているのが現状です。苦渋の決断ではありますが、現在お付き合いのあるお客さまのセキュリティを守るためにはやはりこちらも無理はできない。つまりはそれほどにお客さまのからの信頼を失うリスクを我々は恐れているということです。

 そして、その信頼を得るためにもっとも大切なのはものは「人」であるというのも私が意識しているポイントのひとつ。たとえどれほど技術が発展しようとも、それを提供するためには高い人間性やコミュニケーション能力が欠かせないもの。弊社は基本理念として「人がすべて」という言葉を掲げ、人財の確保、そして育成にも全力を注いでいます。

──かつてはサラリーマンとして企業に勤務していたという市坪さん。独立に至る経緯を教えていただければ。

市坪 私はもともと高校を卒業したあとには京都市に本社のあるIT企業で働いていたんです。当時はバブル絶頂期で、とにかく業界内での競争も激しい時代。私もまたその出世レースに遅れをとるまいと働きに働き、気づけば30歳の段階ですでに管理職に就くことができました。しかし、あの頃の自分を振り返ってみると、とにかくガムシャラに働くのみで、とくに仕事の意義などを問う余裕もなかったように思います。

 そんな私の転機が訪れたのが34歳のときです。ここで私に娘が生まれたのですが、その娘が超低出生体重での誕生だったんです。生後4日目には動脈管手術を受け、そのあとも1年近くの入院生活を余儀なくされたわけですが、医師の先生や看護師さん、医療スタッフの方々の献身的な治療の結果、なにか障害が残るようなこともなく、無事に育つことができました。

 そのときの医療従事者の方々の真摯な仕事ぶりを目の当たりにした私は非常に感銘を受けまして、娘を救ってくれた医療業界になんらかの貢献ができないものかと考えたのが起業のきっかけです。娘の入院期間中は何度も面会に行ったわけですが、そのうち医師の先生とも交流が自然と生まれました。交流が深まってくると先生からは医療現場での情報管理の課題などもうかがうようになり、そこで35歳のときに医療情報システムを専門的に扱う会社を立ち上げようと決断したんです。設立日は6月1日ですが、これは起業のきっかけをくれた娘の誕生日です。そんな娘はいまは大学4年生。彼女の夢は「看護師になること」だそうで、元気に大学に通っています。

──前職も好調だったようですから、独立はかなり思い切った決断だったんじゃないですか?

市坪 そうですね。やはり最初は妻からは反対されましたけどね(苦笑)。しかし私も当時はまだ若かったので怖さはなかったですね。手応えとしても「失敗はないだろう」という感覚がありましたし、当時から「この業界で重要なのは信念、信頼、誠実だ」という現在の弊社の行動基準は自分の頭のなかではすでに整理されていました。

──社名の「Wintec Japan」というのは?

市坪 「WIN(勝利)」と「TEC(technology)」を組み合わせた言葉です。医療情報技術で日本一になりたいという思いと、私自身、高校時代に剣道では惜しいところで日本一に手が届かなかった経験があるので、このような社名をつけました。仕事においては現在のところ業界で2位。もうひとがんばりが必要ですね(笑)。

サラリーマン時代も30歳で管理職に就くなど活躍を見せていた市坪さん。入院する娘さんへの医療従事者の真摯な対応が独立のきっかけとなった
オフィスに掲げられている社訓は市坪さんが行動基準として設定した「3S(スリーエス)」。全スタッフが「信念」「信頼」「誠実」の3つの思いを胸に社業に取り組んでいる

友人の弔いの試合で復帰。
「いまは剣道が楽しい」

市坪さんが保管している月刊剣道日本1987年10月号。和歌山東高校3年の市坪さんが出場したインターハイの詳報が掲載されている
和歌山東とP L学園との決勝戦のページに掲載されたのは副将市坪さんの試合写真。一本先取した市坪さんだがひき面、ひき胴と奪われ、悔しい逆転負けを喫した
大会のページには決戦前夜の和歌山東メンバーを取り上げたこんな記事も掲載されていた
当時のインターハイのトーナメント表。和歌山東は埼玉栄(埼玉)、鹿児島商業(鹿児島)とのリーグ戦を突破すると、決勝トーナメント1回線では高岡工芸(富山)、準々決勝では東洋大姫路(兵庫)、準決勝では常盤(福岡)を撃破して決勝戦へとコマを進めた

──高校時代の剣道のお話が出ましたが、市坪さんは強豪校の和歌山東高校(和歌山)の出身で、3年時にはインターハイの団体戦で2位入賞を果たしています。ぜひご自身の剣歴をうかがえれば。

市坪 私は和歌山県紀の川市の出身で、小学2年生から剣道をはじめました。入会したのは貴志川剣道クラブというところで、偶然隣のお宅にお住まいの方がそこの先生だったんです。道場の稽古は厳しかったこともあって、小学生、中学生の頃は県大会でも三本の指には入るくらいには強かったと思います。高校進学を考える時期になり、そこでお声をかけてくださったのが和歌山東の上里昌輝先生(範士八段)でした。

──当時の和歌山東剣道部はどのような状況だったのでしょうか?

市坪 いまでこそインターハイの常連というイメージが強いかもしれませんが、私が入学した当時はまだインターハイへの出場を叶えられていない時期。県内の強豪選手は和歌山北高校に進学するケースが多く、まずは県大会で勝つことが大きな試練となっていた時期でした。

 私自身は2年生のときから試合に起用していただいたのですが、まず1年生のときに先輩方が初のインターハイ出場を叶えてくれました。私自身も2年生のときには選手としてインターハイへ出場することができて、その当時はたしか常盤高校(福岡)に負けてベスト8くらいの戦績だったように思います。

──そして3年時のインターハイでは堂々の決勝進出。そこでは名門のPL学園高校(大阪)と対戦したんですね。

市坪 気がつけばいつの間にか決勝、という感覚でしたね。大会では私は副将を務めていましたが、ここで私が二本勝ちをすればその後の大将は引き分けでも和歌山東が本数差で優勝という試合展開だったんです。対戦相手は一学年下の有田祐二さんでした(現筑波大学女子監督)。PL学園とはしょっちゅう練習試合をやっていましたが、私自身は有田さんと試合をするのはこのときが初めてでした。試合前は不安を感じていましたが、この試合は初太刀でいきなり面を奪うことができたんです。当時の私は「これで優秀選手はいただきやな」なんて思っていたのですが、そこからひき面を取り返され、そしてひき胴も奪われて逆転負け。チームも敗れて日本一には手が届きませんでした。

 当時の和歌山東では、上里先生はとくにひき技を取られることを厳しく諌められていましたから、「これはきっと相当怒られるだろう」と思って覚悟していたのですが、試合後、上里先生からのお叱りの言葉はなかった。そこで改めて「ああ、俺の高校剣道はこれで終わったんだな……」と思いましたね。

──高校卒業後、市坪さんは剣道から長く離れることになるんですね。

市坪 いくつかの大学からお誘いはありましたが、大学剣道部に入部すればまた1年生からのスタート。強豪チームに入部すれば、それなりの厳しさが待ち受けていることも容易に想像できたので、剣道からは一線を引きたかったんです。

 もちろん上里先生からは毎日体育教官室に呼び出されて何時間も話し合いましたが、私も「いえ、これ以上は……」と。そんなやり取りを繰り返した末に、上里先生ももうあきらめられたんだと思います。

──その後は就職の道を選ぶんですね。

市坪 そうですね。普通に大学に入学するよりも私は働きたかったので。そこで就職情報誌を読みあさって、そこで見つけたのが京都市に本社があるIT企業でした。

 その後、43歳で再開するまで、剣道関係の交流自体がほとんどありませんでしたね。一時期甥っ子が剣道をはじめたときにはちょっとだけ大会を見に行ったり、何度か「やってみようかな」と思うことはあっても結局仕事も忙しかったこともあって実現には至りませんでした。

──43歳での再開のきっかけは?

市坪 学校の教員をしていた剣道の幼なじみが大腸癌で亡くなったんです。友人から彼の訃報と同時に「追悼の試合に出てくれないか」という連絡が来ました。最初は戸惑いましたけど、やはり私自身にも幼なじみを弔いたい思いはあったので、そこで古い防具と竹刀を持ち出してきて、少年指導に携わっている友人の道場を借りて3、4回ほど稽古をして大会に臨みました。チーム自体は序盤戦で敗れてしまいましたが、私自身は結局負けることはありませんでした。みんなも驚いていましたけどね。

 そうして一度試合に出場してみると、それからはなんとなく周りの剣道関係の人との交流も再開するようになりました。いまはSNSもありますから、そこでは地域を問わずに全国の愛好家の方々ともつながるようになって、同期会である獅子冴会(昭和44年4月〜昭和45年3月生まれの同期会)のメンバーとの交流もはじまるようにもなった。そうすると自然な流れで剣道を継続するようになりました。 

 仕事が医療系ということもあって、コロナの時期こそ稽古は5年間ほどストップしていましたが、いまはようやく稽古も再開できるようになって、稽古のペースはだいたい週に1回ほどでしょうか。私は和歌山に住まいがあるものですから、地元の仲間うちの集まりというか、フリーの社会人稽古会のような場がいまのメインの稽古場となっています。

 昔はどうしても厳しくてツラいイメージばかりだった剣道ですが、いまはとても楽しいですね。大人になれば剣道による交流の輪がどんどん広がっていきますし、仕事も剣道も真剣にやっている人が集まるのでいい刺激をもらっています。

──それでは最後に、剣道、お仕事の今後の目標、展望などを聞かせていただければ。

市坪 剣道においては長らく離れていた立場ですが、いま交流を持たせていただいている方々のなかにはそれこそ「プロ」のようなトップレベルの剣士も多くいらっしゃいます。そういう方と接するチャンスに恵まれたことで、私もなんとかそんな方々に追いつくことができればという意欲が出てきました。いま同世代の愛好家の方々と会うと、皆さんすでに七段を取得されているので五段の私はちょっと恥ずかしいなと(笑)。まずは六段合格を目標にして、また稽古に取り組んでいきたいですね。

 仕事の面ではありがたいことに20周年を迎えることができたので、今後はそれを30周年、40周年と続けていけるようにがんばりたいです。それと、これはまだ具体的に決まったことではありませんが、これからは剣道経験者の採用も考えていきたい。「人がすべて」の基本理念を掲げる弊社ですから、人間形成の道である剣道経験者の可能性には大いに期待したいところです。

亡くなった友人の弔いの試合に出場するために43歳で剣道に復帰した市坪さん。広がる交流の輪に刺激を受けつつ、現在は六段合格を目指して稽古に励んでいる

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