関西の名門、灘中学・高等学校を卒業したのち東京大学医学部に現役合格し、卒業後は東京大学医学部附属病院に勤務した上昌広さん。「日本最古の内科」と名高い、歴史ある第3内科に入局しました。
エリート街道を突き進んできた上さんですが、大学病院に勤務する頃から組織とそこで働く医師のあり方に疑問を抱いていました。現在は、医療現場で起こる諸問題をメディアに発信する、ジャーナリストとしても活躍しています。さらに、医療ガバナンス研究所を立ち上げ、インターンを受け入れることで後進の育成にも貢献してきました。
良い意味で、普通の医者としては「異色」とも言える姿勢を貫き活動を続ける背景には、これまで上さんがたどってきた道のりが大きく影響していました。
学生時代の友人に、オウム真理教への勧誘をされたこと。
臨床よりも、己のキャリアに有利なことを優先する医者たちを目の当たりにしたこと。
お話を聞くうちに、それらの根底には同じ問題が潜んでいることが分かってきました。歴史も踏まえた上で問題を紐解く上先生に、現在のご活動、ご自身のルーツ、剣道、そして今後の展望を伺いました。
プロフィール
上昌広(かみまさひろ)
1968年生まれ、兵庫県出身。灘高等学校を経て、1993年東京大学医学部卒業。東京大学医学部附属病院で内科研修の後、東京都立駒込病院に勤務。その後、1999年に東京大学大学院医学系研究科博士課程修了。虎の門病院、国立がんセンター中央病院に勤務。2005年より東京大学医科研探索医療ヒューマンネットワークシステム(現・先端医療社会コミュニケーションシステム)を主宰し医療ガバナンスを研究。2016年3月退職。
現在、複数の企業・団体の社外取締役や顧問などを務める傍ら、病院で内科医としても勤務。NPO法人医療ガバナンス研究所の理事長を務める。
医療ガバナンス研究所のホームページ
医療の現場で起こる問題を斬る、異色の医師
──現在のお仕事について教えてください。
内科医として複数の病院に勤務しながら、企業の社外取締役、NPO法人医療ガバナンス研究所の理事長を務めています。
ーー医療ガバナンス研究所ではどんなお仕事を?
医療現場で起きている諸問題を研究し、その成果と課題の存在を記事や論文として発信しています。最近ではコロナウイルスに関連した情報を中心に発信していますが、これまでに医師不足や看護師不足、医大の不正入試の背景、データ改竄問題などを発信してきました。
──「ガバナンス」という言葉は企業経営でよく耳にします。「健全な経営のための管理体制」と理解していました。
医療の特殊性は、医師と患者の間に絶対的な情報量の差があることです。そのパワーバランスを意識した上で、医師には強い自己規律が求められます。
また、医師はギリシャ・ローマ時代以来から続くプロフェッショナルです。その頃からずっと、患者を最優先することが求められてきました。
しかし、時に「患者の利益」と「社会の利益」が相反することがあります。公衆衛生などはその典型でしょう。コロナ流行当初、多くの人がPCR検査を希望しましたが、政府は重症者に限定しました。その指示に従うことが、果たして医師として妥当か難しい問題です。
「患者の利益」と「社会の利益」を鑑みた上で、このような問題をどう受け入れるのか…それこそが「ガバナンス」なのです。
医療ガバナンスでもっとも重要なことは「合意形成」です。そして関係者の合意形成に影響を及ぼすのは「熟議」と「メディア」。メディアは、世論を動かすために大きな役割を果たします。例えば、数年前のSTAP細胞報道では、短期間で世論が180度変わりました。これはメディアの影響が大きいでしょう。
──上先生は、さまざまなメディアで医療現場の諸問題について問題提起するだけではなく、学生の育成にも力を入れている印象があります。
そうですね。医療ガバナンス研究所では、これまでに数多くのインターンを受け入れてきました。50歳を越えたいま、私にできることは、私自身も学びながら後進を育てることだと考えています。
学生に限らず、人にはそれぞれ固有の物語があります。生い立ちや出身地、仕事について聞きすぎるのは良くないという意見もありますが、私はあえてルーツなども聞き、その人に一番必要なことを考えるようにしています。
エリートこそ、失敗と挫折が必要。リアリティが欠如する危険性とは
──医療ガバナンス研究所を立ち上げるまでの経緯を教えてください。
1993年に東京大学医学部を卒業後、1年目は東京大学医学部附属病院の内科、2年目は大宮赤十字病院(現さいたま赤十字病院)で研修をしました。
その頃、忘れられない事件がありました。オウム真理教事件です。
──地下鉄サリン事件をはじめ、当時社会を震撼させた事件ですね。
実は高校・大学の同級生が教祖の麻原彰晃の側近でした。彼に誘われて、南青山にある道場にも行ったことがあります。1994年に浅草で飲んでいた時は「来年、ハルマゲドンが起こるぞ」と言われました。その時は意味がよくわからなかったのですが、翌年1995年3月に起こった地下鉄サリン事件のことを指していたのでしょう。
事件当時、私は大宮赤十字病院に勤務していて、重傷者がたくさん運ばれてきました。そしてその数日後、東大剣道部の先輩である元警察庁長官・國松孝次さんが狙撃されたのです。
國松さんの住所を知っていて、且つ教祖の側近と同級生だったのは私だけでしたので、勤務先の病院に警視庁の公安部の刑事さんがやって来て、事情聴取を受けたこともあります。
──オウム真理教の幹部には、いわゆるエリートが多かったと聞きます。
真面目で、社会を良くしたいと本気で考える若者が多かったですね。
私の友人も、信頼できる真面目な人でした。そんな人から何度も富士山の裾野の合宿所に誘われたため「一度くらいは行ってみようか」とも考えましたが、最終的には行かなかったんです。
──何が上先生を引き止めたのですか?
剣道ですね。彼らは「剣の達人になれば、気のエネルギーで接触しなくても切れる」と言いました。その言葉に、全くリアリティを感じなかったのです。
私が高校時代にもっとも情熱を注いだのは剣道でした。しかし、神戸から東京に出て大きな挫折を味わったんです。有名選手はもちろん、大学部内でも「とてもかなわない」と痛感しました。「気のエネルギーで接触しなくても切れる」なんて言葉は机上の空論です。
──確かに、リアリティに欠けますね。
勉強でもスポーツでも、有名校は育成システムが出来上がっています。自分の頭で考え、リアリティを感じるような経験・挫折をしないと、システムに組み込まれた以上のことはできないんですよ。
リアリティを感じられるかどうかは、その人が挫折や失敗をして、自分の頭で考えたかどうかにかかっていると思います。挫折を味わったことはなく、閉鎖的な組織に属するエリートは特に、リアリティや違和感を感じにくく、社会と乖離した感覚になりがちなのではと危惧しています。
さらに、エリート教育を受けてきた者たちは権力に弱い上に、知らないことを「知らない」と言えない傾向があります。
その結果、オウム真理教の悲劇的な事件や、医療現場での権力との癒着などの諸問題が起こっているのではと考えています。
「臨床」と「研究」が医師の活動の両輪
──医療現場で起こる諸問題については、いつ頃から問題意識を抱くようになりましたか?
研修を経て、私は東大病院の第3内科に入局しました。東大病院の第3内科は日本最古の内科です。多くの著名な医師・医学者を輩出していることから「日本の医療界は東京大学第3内科が仕切っている」とも言われていました。
当時の東大病院の入院診療は、医師3人のチーム制。トップは助手、その下に中ベン(卒業後3〜5年目の指導医)、研修医が付きます。実際に患者を診療するのは中ベンと研修医ですが、臨床経験が絶対的に不足しているんです。
しかも当時の助手の先輩たちは診療のことを「義務」と言い、研修医に「臨床よりも早く実験を始めた方がいい」と言っていました。『ネイチャー』や『サイエンス』といった一流科学誌に論文が掲載され評価されると、教授への道がひらかれるからです。
しかし、医師に本当に求められていることは、臨床の現場に即した視点です。結局、研究に偏重した考え方に賛同できず、大学病院を去ることになりました。その経験から、学生を指導する際は「医師の活動には、臨床と研究の両輪が必要」と伝えています。
──大学病院の後は、どちらでお仕事なさっていたのですか?
虎の門病院、国立がんセンター中央病院での勤務を経て、2005年から東京大学医科研探索医療ヒューマンネットワークシステム(現在の先端医療社会コミュニケーションシステム)を主宰し、医療ガバナンスの研究を始めました。
そして、2016年にNPO法人医療ガバナンス研究所を創立し、現在に至ります。
灘中学で恩師の田中先生に出会い、大学進学後は東大剣道部に所属
──剣道はいつから始めたのですか?
小学校の頃です。私は2歳から10歳まで加古川市で育ち、剣道もその地域で始めました。そして進学先の灘中学校の剣道部で、恩師の田中康俊先生に出会います。田中先生はもともと鹿児島のご出身で、当時は兵庫県警の師範をされていました。
──兵庫県の私学中学校の大会で、強豪校相手に大将戦で上先生が勝利して優勝したという話を聞きました。
田中先生のご指導のおかげで、少しだけ自信がついたことは確かですね。
かつて、灘高校の剣道部は強く、1964年には兵庫県で優勝し、インターハイにも出場したことがありました。しかし、私が入部した頃は一回戦負けを繰り返していました。田中先生のお陰で、その後、神戸市内の大会によっては優勝することもありましたが、兵庫県内のいわゆる強豪校にはかないませんでした。
1987年に私が東京大学に合格し、上京する際は一升瓶を持たされ、「これを東京大学剣道師範の小沼宏至先生に持っていきなさい」と言われました。
当時、小沼先生は警視庁剣道指導室の主席師範でした。発足以来、東大剣道部の師範は警視庁主席師範の指定席だったんです。そのご縁で、小沼先生に警視庁の稽古に連れていっていただき、千葉仁先生(※)をはじめ、さまざまな先生をご紹介いただきました。
大学時代に渡英した際もお酒を持たされました。大英博物館の館長が剣道家で、先生のご紹介でご挨拶したこともあります。
※千葉仁…元警視庁警察官。 警視庁剣道名誉師範。上段の名手で、全日本剣道選手権大会で3回優勝、世界剣道選手権大会で2回団体優勝した。
──剣道の縁ですね。
はい、剣道のおかげで多くの繋がりを得ることができました。ちなみに、東京大学で明治以来の伝統を有する運動部の一つが東大剣道部なんですよ。日本最古の大学の剣道部です。
──歴史があるんですね。歴代の全日本剣道連盟会長も東大剣道部出身の方が多いですよね。
これには、明治以降の警察と東大剣道部の歴史が影響しています。警察を中心とした内務省と東大剣道部OBは、二人三脚で発展を遂げて来ました。全日本剣道連盟の初代会長・木村篤太郎氏以後、これまでに会長職に就いた10名中8名が東大剣道部出身です。
自分と異なる考え方に出会うために。外の世界との積極的な交流を
──今後の展望について教えてください。
そうですね…。何か新しいことに挑戦したいというよりは、今この状況でやらせていただいていることを、地道に続けていきたいです。医者の世界では、新しい挑戦をするのは20〜30代半ばくらいまでの年齢がベストで、私は若い人たちをサポートする監督やコーチに近い存在だと考えています。ですので、若い人が元気に活躍できる環境を作っていきたいですね。
私は、恩師の田中先生から「教育」を学びました。先生から学んだことをもとに、後進を育てていくことが先生への恩返しだと考えています。
──どんな人材を育てていきたいと考えていらっしゃいますか?
今後は、東アジアで協力して発展していく必要があるでしょう。そう考えたときに、自分の専門分野にとどまらず、積極的に外の世界と交流していける独立した人材が求められます。
そして海外に出た時に、剣道をやっていることは強烈な強みになります。剣道は日本の伝統文化なので、個性になるだけではなく、自分が育った国の文化的な背景も説明しやすいでしょう。伝統文化を知っていることで、アナロジーで他の世界のことも想像しやすくなります。
──これから社会に出る学生にメッセージがありましたら、お願いします。
学生は、卒業後に何らかの分野でプロになるために、いま学生として学んでいます。プロになったら「自分のやりたいこと」ではなく「相手が望むこと」を想像して提供しなければなりません。
そのためにも、自分と異なる考え方の人と会うことが大切です。
──異なる考え方との出会いは、どのような影響を与えるのでしょうか。
以前、東大剣道部に競輪選手の長塚智広さんを紹介したことがありました。彼はアテネ五輪の銀メダリストです。一緒に相馬市を支援しています。
彼は学生の稽古を見てこう言いました。
「剣道は短距離走のように瞬発力が必要なのに、長距離走の練習をしている。稽古を短くして、筋トレをすべき」
そして、学生たちの練習をサポートしてくれることになりました。
その結果、試合成績が目に見えて向上したのです。「東大剣道部は一体何をしたんだ?」と聞かれるようになったほどでした。それまで東大剣道部の学生は真面目に厳しい稽古をしていましたが、視点を変えて合理的な練習に切り替えたことで、めざましい変化が生まれたんです。
このように、全く違う分野の人と触れ合うことでプラスの化学反応になることがあります。異なる考え方と出会い、変化を体感することは非常に重要です。そして、できればたくさん挑戦して失敗すること。失敗や挫折を繰り返すことで、リアリティを感じることができ、机上の空論に惑わされることもなくなるはずです。
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