「まだ誰もやっていないことを、この東京から発信したい」。NOONE TOKYO合同会社創設の思いをそう語るのは、同社の代表社員である有田俊介さん。マーケティング・コンサルタントとして、主に日本の中小企業を対象に、その海外進出支援に尽力しています。大手海外進出企業、外資系企業での勤務で培ったマーケティングのノウハウ、そして堪能な語学力を活かして多岐にわたる案件に臨む有田さん。その視線の先にあるのは「中小企業の国際化による日本経済の底上げ」でした。
段位は七段、週に3回以上の稽古に取り組む剣道家でもある有田さんに、ご自身の歩みと未来をうかがいました。
プロフィール
有田俊介(ありた・しゅんすけ) 1960年神奈川県生まれ。県立光陵高校(神奈川)から慶應義塾大学に進学。大学卒業後はトヨタ自動車株式会社に入社し、海外企画部に配属となる。同社を退職後はいくつかの外資系企業に勤務するが、一貫してマーケティング畑を歩む。2021年にNOONE TOKYO合同会社を設立する。
剣道は中学校の部活動ではじめ、高校でも継続。その後一時期のブランクを挟むが社会人となって復帰し、現在は東京都渋谷区の金王道場に所属している。剣道七段
NOONE TOKYO合同会社
https://nooneconsulting-tokyo.com/

ふと抱いた疑問から独立を決断。
「果たして自分の本当の力とは」
―― NOONE TOKYO合同会社の代表社員である有田俊介さん。その主な事業内容についてぜひ教えていただけたら
独立していまが5年目となります。どの業界の、とはあまり限定せず、主に自社の消費者向け商材を日本から海外に向けて売り出したいという方々の輸出の販路開拓のお手伝いをするのが事業のメインです。
例を挙げれば、モノづくりの老舗さん。現在事業を続けていらっしゃる老舗さんの多くは、すでに国内の大手企業さんとOEMでつながりがあるもの。想像に難くないように、OEMの場合は売り上げこそ担保できるけれども利益志向という話にはなりにくい。そこで、利益を生み出す新しい事業をなにか、と考えたときに、長くOEMでやっているだけにつくる技術、供給能力については自信がある。だからファクトリーブランドとして海外に向けて販売を展開したい、というアイディアが出てくるわけです。しかし、それを実現できる人だけの人材やノウハウを自社に持ち合わせていないというお客さまも多いので、そこで私がBPOというかたちで海外営業、マーケティングをお手伝いしています。
私がお手伝いするものは、価格競争にはなりにくい独自の世界観をもってブランディングできるものが多いんです。近年、輸出となるとどうしてもデジタルメディアを基本にした越境ECが普通になると思いますが、私はあえてそこに立ち入らないようにしています。越境ECにはすでに専門家もいますし、工数がかかる割には独自性のあるブランディングを出しにくい部分がある。だから、あくまでも海外にしっかりと実店舗と売り場があって、自前のECサイトを持っているようなところとのお付き合いが中心。下手に大手ECサイトの海外版に手を出してしまうと、デジタル上の価格競争に終始して、そのビジネスが一過性のもので終わりがちですが、私はあくまでも持続性のあるビジネスをつくっていくことを重視しているんです。中長期的なお付き合いを前提にしていますから、逆に言うと1ヶ月でなにかしらの答えを、というお話はお受けしない。
海外マーケットにおける再現性のある仕組みづくり、モノづくりや新しい価値提供をすることには自分自身もおもしろさを感じているので、どこか趣味も兼ねてという部分もあるかもしれませんね(笑)。どんなモノでも、その独自性と付加価値を大切にしてあげれば、この世界のどこかに居場所は見つかると私は信じています。
―― となれば、やはり取り扱う商材自体は多岐にわたるんですね
そうですね。私の伝え方としては「食品以外の消費者向け商材を幅広くお手伝いをしています」とお話することが多いですね。
食品関連の仕事については、以前、外資系菓子メーカーのマーケティング責任者をしたことがあって、そのときに賞味期限や品質管理にいかに工数とコストがかかるのか、一方でそれをいかに販売価格に反映しにくいかを痛感したからです。ですから食品系のお仕事については大手さんにお任せすることにして、私はそれ以外のところ、たとえば衣料品であったり雑貨であったり、ときにはIT系のお話をお受けしたりもしています。
今年はファッション系の仕事では、お客様への伴走支援のためにイタリア・フィレンツェのPITTI UOMO(毎年1月と6月に開催されるメンズファッションの国際見本市)、その翌週にはパリのMANに行って商談支援をしました。アパレルの場合は春夏、秋冬とシーズンがあるので、バイヤーさんたちも毎シーズンなんとか売れるものを見つけなければならない。そういう意味では、こちらはシーズンごとに合わせた然るべき下ごしらえをして商品を持っていけば、関係ができているお客様からはある程度の売り上げが立つという部分がありますね。
最近おもしろかった仕事でいえば、デジタルアートのアーティストさんのお手伝いをしたこと。日本国内ではある程度の地位を確立しているアーティストの方ですが、漠然と海外に出てみたいという意欲をお持ちでした。そんなご相談を受け、私のツテを頼ってスウェーデンでギャラリーをやっている人間とつなげた結果、そのギャラリーで作品を展示してもらえることになりました。デジタルアートを取り扱うことは私にとっても珍しい案件でしたが、物流のコストと時間がいっさいかからないという点にメリットと将来性を感じるものでした。
―― クライアントとして、アーティストさん個人というのはやはり珍しいケースなのですか? そうですね。普段のクライアントの多くはやはり中小製造業さんになります。とはいえ、中小とは言ってもあまりにも小規模だとどうしても供給能力が課題となるので、実際のところは中規模の会社さんがメインとなりますね。

―― 独立して5年目とうかがいましたが、現在に至るまでのお仕事の経緯は?
大学を卒業したあと、新卒で入社したのはトヨタ自動車株式会社。そこで海外企画部という部署に配属になりました。海外に輸出する車両の利益管理を中心にしたマーケティング業務に従事しましたが、いま振り返れば当時の仕事がその後のすべてにつながっていますね。
トヨタを飛び出したあとにはいろいろな業界を経験したものの、一貫しているのはつねに対消費者の仕事であり、店舗ありきの小売りマーケティングだったこと。それを国を跨いで実施することはずっと変わりませんでした。
独立する直前に勤務していたのは外資系のタイヤメーカーで、そこではマーケティングのヘッドをやっていました。独立のきっかけとなったのは、仕事に取り組むなかである疑問が頭をよぎったからです。これまで私が携わってきた仕事はすべて誰もがよく知るブランドに関わるものばかり。それを考えたときに「ブランドの看板ナシの本当の自分の力はどれほどのものなのか?」という疑問を抱くようになりました。同時に、日本の企業の99・7%が中小企業ということを考えると、それら企業をいかに元気づけていくかが日本経済の底上げにとって重要になってくる。ちょっと話は大きくなるようですが、私自身が持っている能力や経験を活かして、日本経済の発展のために少しでもお手伝いができたらカッコいいかなと。そんな考えから独立を決断したんです。
―― 有田さんの持っている能力のひとつである英語力。それはどのようにして身についたものなのですか?
たまたまずっと外資系の企業に勤務していたので、上司が外国人という状況が当たり前。となると商談や会議も当然英語でしなければなりませんから、そんななかで自然と磨かれたものです。
おかげさまで、英語による商談ファシリテーションが可能なことで、比較的競合するコンサルは少ないかなという印象はありますね。ただ通訳するだけ、となるとなかなか一貫性のある話し合いは難しいですが、私の場合は通訳と同時に、商談をまるっとお手伝いすることができるので、ふと周りを見渡してみたときに、あまりそこまでできる人はいないことに気がつきました。AIを含め英語の読み書きはできたとしても、いざ商談コミュニケーションが取れるかとなると、そこは自分がそういった環境に身を置いてきたかどうかが大きく影響してくるように思います。
―― ご自身が名づけたという社名「NOONE TOKYO」の意味とは?
事業内容がマーケティングのコンサルティングということもあって、「ゼロイチでなにかをつくりたい」という想いから「NO」と「ONE」というワードをつなげました。そして「まだ誰もやっていない(NOONE)ことを、この東京から発信したい」という願いを込めてこの社名にしたんです。

テレビドラマの影響ではじめた剣道。
今後は「現状維持」を目標に、長く楽しんでいきたい
―― 現在は東京都渋谷区にある金王道場に所属して稽古をされているそうですね
もうずいぶん長くお世話になっていて、所属してから20年が経ちましたね。
―― ぜひご自身の剣歴も教えてください
もともとの出身は神奈川県の横浜市です。剣道は中学校の部活動に入部してスタートしました。当時はテレビドラマでも剣道がよく取り上げられていた時代でしたから、それに影響を受けて自分もやってみたいと思ったんです。入部してみて感じたのは「小学校からやっているヤツには勝てないな」ということ(笑)。経験によってずいぶん違うもんだなあ、と思ったことを覚えています。
高校は神奈川県立光陵高校に進学して、そこでも剣道部に入部しました。当時の顧問は横浜国立大学を卒業したばかりのバリバリの先生で、稽古はとても厳しかったですね。とはいえ、私自身は中学生時代から変わらず試合では全然活躍できなくて、それはいまも変わらずです。ずっと趣味として剣道に取り組んでいるような感じですね。その後に進学した慶応義塾大学では剣道から離れてジャズ研究会に入りました。もともと高校時代から剣道部で活動する傍ら音楽系の趣味(といってもヘビメタですが 笑)も楽しんでいたんです。それもあって大学時代はずっと音楽ばかりをやっていました。
剣道を再開したのは大学を卒業してから5年が経ったくらいのときで、トヨタを辞めて愛知県から戻ってきたタイミングだったと思います。ある日、神奈川県立武道館の近くを歩いていたときに、中から竹刀を打ち合う音が聞こえてきた。懐かしいなと思ってちょっと武道館を覗き込んでみると、そこにいたのが高校時代の顧問の先生だったんです。そんな偶然がきっかけとなって、地元の港北区の道場で再び竹刀を握るようになりました。
大人になって剣道をやってみれば、疲れたら休んでもいい、という取り組みやすい雰囲気があった。学生時代とは大きく違うそんな柔らかな雰囲気があったからこそ、イヤになることもなく続けてくることができたんだと思います。
現在通う金王道場に所属するようになったのは当時の職場が渋谷界隈だったから。どうしても職場が渋谷、道場が横浜となると通いづらい部分があった。そんなときに職場からそれほど離れていないところにある金王道場を見つけた。所属して以降は金王道場で五段、六段、そして七段と昇段させていただいて現在に至ります。
稽古のペースとしては週でいうと3・5回といったところですかね。金王道場の人たちは皆さんかなり熱心なので、そんな方々に比べればまったく密度は濃くはありません。社会人となってからの剣道は私にとっては楽しいものですし、楽しい領域のなかで稽古を終えられることが私にとっては継続するための重要な要素。なんと言っても稽古のあとのビールが格別ですしね(笑)。それと、剣道を通じた人とのつながりがあるのも大きな楽しみのひとつ。そんなつながりが全国的に展開するのも大人の剣道ならではの楽しい部分かなと感じます。

―― 有田さんのお仕事と剣道の今後の目標、展望があればぜひ教えていただけたら
剣道については、自分の年齢的なことも考慮して、いまのレベルを維持できたらいいなと思っています。私が毎年出ているイベントは東京都剣道祭と東京都シニア剣道大会のふたつ。これはシニア同士の試合なのでモチベーションも高まりますし、そのふたつの大会に参加することは楽しみになっています。昇段審査については4、5年後に八段審査に挑戦できる権利が得られますが、そこはまあ自然体で、といったところですね(笑)。
仕事に関しては、現在は自分ができることを凝縮してしまっている部分があるので、今後は法人としての組織づくりにチャレンジをしていきたいです。いまは基本的には私一人で、案件に応じてビジネス交流会が縁となっているパワーチームで取り組んでいるのが現状。これをいずれは大事な場面でのみ私が登場すればいいというくらいのものにしていきたい。私と似たようなことをしている人は少しずつ増えてはいるのですが、それでもまだパートナーにはなりにくい部分があるので、これからまた国内外につながりをもっと深めていきたいですね。

同年代の剣道愛好家と竹刀を交えることで大きな刺激を得ている

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