1937年創業の株式会社シオザワ。
もともと紙の卸業者として創業された同社ですが、現在は幅広い事業を展開、「紙の新たな可能性」を模索し続けています。
同社に大きな変革をもたらしたのは現在、代表取締役社長を務める塩澤好久さん。
シオザワを生家とし、35歳の若さで代表取締役社長に就任した塩澤さんは当時の会社の状況に愕然とします。
そこから起こした大革命、そして剣道部の創設と強化。
進化を続けるシオザワの過去と未来を塩澤さんにうかがいました。
プロフィール
塩澤好久(しおざわ・よしひさ)
1962年東京都生まれ。秋川高校(東京)、東京経済大学出身。大学卒業後、凸版印刷株式会社に勤務。その後、29歳のときに同社を退職。生家が営む株式会社シオザワに勤務し、35歳から代表取締役社長を務める。現在剣道錬士六段
株式会社シオザワ
電話:03-3553-7081
FAX:03-3553-7197
剣道グリップ&トレーニング「零 ZERO」特設ページ:https://kendogrip-zero.jp
倒産危機での社長就任
風土を耕し改革成功
──東京都中央区に本社ビルを構える株式会社シオザワ。現在、塩澤好久さんはその代表取締役社長を務めておられますが、その事業内容と会社の歴史などもうかがえれば。
もともとは1937年に創業した紙の卸業者です。初代社長は祖父で、私は三代目の社長となります。会社のスタートこそ紙の販売ではありましたが、私が社長になって以降はいろいろな事業展開をしてきたので、いまとなっては当初とはだいぶ違った会社になりましたね。
私自身がシオザワに入社したのは29歳のときでした。社会人となってすぐにシオザワに入ったわけではなくて、大学を卒業して入社したのは大手印刷会社の凸版印刷株式会社。将来的に家業を継ぐことを考慮すれば製紙メーカーなどで修行をしても良かったのですが、私自身としてはより知見を広めたいという希望があって凸版印刷に入社、その印刷部門で働いていました。
その後、29歳でシオザワに戻り、1997年、35歳で代表取締役社長に就任、現在に至ります。
私が凸版印刷にいたころはちょうど時代の大きな変革期。世のなかにはインターネットが出てきて、印刷物もそれまでは手書きの原稿で入稿していたものがフロッピーでの入稿となり、携帯電話が普及しはじめて、電子メールも利用されるようになってきた。そんな時代の変化を印刷会社の現場で目の当たりにしてきたので、シオザワに戻ると決まった時点で「これはいままでのようにただ紙を右から左へと流しているだけでは厳しい時代になる」という危機感を抱いていました。
それもあって、私が社長になって以降はじょじょに新しいセクションを立ち上げ、もともとの事業である紙の販売に、機密文書の管理・リサイクル事業、紙関連製品の企画・制作・販売をする事業が加わり、近年はその3つの事業を大きな柱としてきました。
──社長に就任された当時の会社の状況は?
やはり紙業界全体の業績は思わしくなくて、私が社長になった時点での赤字が5億円、借り入れが60億円あって、もう倒産寸前でした。二代目社長でありその後会長となったウチの父親からは「どうせ潰れるのだから、お前の思うようにやれ」と言われましたね。
そのとき父から聞いた会社の状況は「いまの会社は社長の俺が『火事だ!』と叫べば役員、部長、課長もみんなが同じく『火事だ!』と叫ぶ。誰一人、社長の言うことに何の疑問も抱かず、すべて社長である私が決めてきてしまった。これからは、もし社長のお前が『火事だ!』と叫んだら役員は119番に電話して、部長は避難誘導、課長が初期消火をする、といったように、それぞれが自主的な考えのもとに行動する会社に切り替えなければ生き残ってはいけない」といったものでした。
──かなり危機的な状況でしたね。
そこで仕事にばかり意識を集中してしまっていたらきっと私もうつ病になっていたでしょうね。もちろん仕事は予断を許さない状況でしたから働きに働きましたが、その一方で私には剣道があったのが幸いしました。稽古によっていいガス抜きができていたように思います。
状況が状況でしたから社長に就任した途端にもう大改革です。なんとか社員をリストラせずに会社を存続させるための方法を考えた結果、まず社長の私の給料は10万円にして、管理職の給料も2割カット。給与のカットには社員のみんなにも協力してもらいました。カットしたぶんの給料は経営状況が良くなったらそれぞれに返済するという約束で、おかげさまでそれも15年ほど前にすべてが終わりました。
新たな組織づくりにもすぐさま取り組んで、会社の各部門長、課長以上の役職は選挙で選ぶことにしたんです。当時の部長はみんな私よりも年上ですし、部下のいない部長というよく分からない存在もいた(苦笑)。そこで各役職に立候補をしてもらって、それぞれの立候補者には「リーダーシップ」をテーマに所信表明をしてもらいました。投票する社員たちはそれぞれ5票を持っているので直属の上司以外にも投票をしなければならない。そんな選挙を2年連続2回行ないましたね。
実際にやってみると、ショック療法として効果はてきめんでした。なかには部長を辞退する社員もいて「私はもともと部長職には向いていないと思っていた。専門職にしてください」と言ってきた人もいました。
そのあとに着手したのは風土改革。「会社の悪口を言う会」と称して社員にアンケートを募り、会社に感じる多くの問題点を挙げてもらったんです。そこでは実務的な問題、物流の遅さや仕入れの高さなどはとりあげず後回し。「職場の雰囲気が暗い」「出る杭は打たれる、出すぎた杭は抜かれる」「誰それは社長の顔色ばかりをうかがっている」といった、職場の風土に関わる「悪口」ばかりを集めて、それぞれの不満をどこの誰が書いたのか、実名公表に踏み切ったんです。
──思い切った取り組みですね。
これもまた私にサラリーマン経験があったからこそでしょうね。当時のシオザワの社員たちの雰囲気を見ていてすぐ感じたのは「たぶん彼らは仕事が終われば居酒屋に行って、そこで上司の悪口を言いまくっているんだろうな」ということでした。給料のカットや選挙制の導入などの改革こそ起こしたものの、それらもすべて整った風土があるからこそ花咲くもの。会社に不満がある人たちというのは裏を返せば会社をよくするためのいい火種となる。そのためにはちゃんと実名を明かして本気度を周囲に伝えなければ、と。もちろんアンケートを書いた社員たちは自分たちの実名公表には否定的でしたが、「絶対にあなたたちのことは最後まで守るから」と約束して、名前を明かすことにしたんです。
そのアンケートをまとめて役員会に提出したら、やはり名指しで批判されている役員などはもうエラい剣幕で怒り出しましたよ。しかし、この大事な局面をむかえるにあたっては私も事前に父である会長に後押しをお願いしていました。役員会ではまずは私から役員たちに「この会議が終わったあと、悪口を言っている社員たちにひと言、『会社を良くするためにいろいろ意見を出してくれたらしいな』とねぎらいの言葉をかけてください。それだけは絶対にお願いします。もしそれがムリならば残念ですが解任します」と話をさせてもらった。すると、その後に父が「そうだな、新しい会社をつくるということはそういうことだ。君たち、よろしく頼むよ」とその場を収めてくれた。もともと父は経営に関していっさい口を出さない人だったけれど、このときだけは私から父に頭を下げて手助けを頼みましたね。
そんな出来事もあって、実名公表に怯えていた社員たちも「社長はホントに自分たちを守ってくれた!」と私への信頼を深めてくれた。そのあとは「良い風土づくり文科会」を発足。とくに不満を抱いていたメンバーたちと私と役員たちで「どういう会社がいい会社なのか」を毎夜集まっては真剣に会議しましたね。
社内風土改善に関する様々なキャンペーンを打ち出していったなかで、定義づけたのが「自燃人」というもの。自分自身で燃えることができる人材を「自燃人」、周りに燃えている人がいれば自分も燃えられる人材を「可燃人」、燃えられない人材を「不燃人」、がんばって燃えている人の火を消そうとする人材を「消燃人」と定義づけて、それをデザインした真っ赤なポスターを社内に掲示しました。もちろん「社内の誰それは不燃人で……」なんて言ってはいけません。ですが、改革に携わるチームのメンバーは全員が「我々は自燃人なんだ!」という強い意気込みをもって改革に臨んだんです。
2001年には経営理念を見直して新たなものを発表。これもまた社員参加型で策定したもので、この頃になると会社の風土がいい方向へと変化してきた手応えを私も実感できるようになりました。私が社長になってからちょうど4年が経っていましたね。
私が社長になったときに全国に765社あった紙屋さんもいまでは320社に、東京でいえば185社あったのが90社まで減りました。そのなかでクリエイティブな仕事ができるのが弊社を含めて3社ほどでしょうか。自分で取り組んだことではありますがやはり風土改革が大きかった。逆に言えば、あそこで風土改革に着手していなかったらウチの会社も危なかったでしょうね。
──風土改革が効果的だったことは踏まえた上で、シオザワが生き残ることができた「ならでは」の取り組みなどあるのでしょうか?
凸版印刷にいたおかげで、わずかながらも紙の「先」が見えていた。紙の専門商社として、改めてこれからの世のなかに必要な紙を考えてみると、「残る紙」「伸びる紙」「残したい紙」という3つのマーケットが想像できました。そこに「付加価値」「クリエイティブ」「環境」「文化」という4つの切り口から可能性を追求し、マーケットをつくり直そうと試みてきました。
たとえば、いまではシオザワでは御朱印帳をつくっていますが、これは「文化」であり「残る紙」であり「残したい紙」であり、インバウンド需要も想定すれば「伸びる紙」とも言える。取り扱うべき商品としての条件を充分に満たしています。
そして喜ばしいことに、近年は若い社員たち、とくに「紙が大好き!」という元気な女性社員が数多くウチを志してくれて、新しいことにどんどんチャレンジしてくれているんです。彼女たち自身の可能性が紙の可能性でもありますから、この業界の未来は明るいと感じています。
──大ピンチからのスタートでしたが順風満帆なようですね。
いやあ、それがそうでもなくて(笑)。2011年の東日本大震災のときも大変でしたが、それもなんとか乗り切ってホッとしていたところに今度はコロナショックです。さすがにこれにはかなりのダメージを受けました。私は現在60歳。本来私は60歳で引退するつもりだったのですが、おかげでそれも65歳まで延長です(苦笑)。まだまだがんばらないといけませんね。
そのコロナショックによって、いままでのシオザワの柱となっていた3つの事業に新たに加わったのが「剣道」部門なんです。過去には和紙を使った「剣道ノート」なども制作・販売していましたが、いよいよ本格的にシオザワを支える4本目の柱として剣道関連の事業に乗り出すことが決まりました。
剣道部に新たな変化
目指すは「実業団日本一」
──剣道のお話が出たので、ぜひそちらの話題についてもうかがえれば。シオザワさんには剣道部があり、全日本実業団・関東実業団大会にも参戦していますね。剣道部の歴史はいつから?
私がシオザワに戻ってすぐに剣道部をつくりました。私自身、前の職場の凸版印刷では剣道部に所属していたこともあって、自分の会社にもぜひ剣道部をつくりたいな、と考えていたんです。最初こそ無理矢理初心者の社員を誘って区の大会などに出ていたのですが、凸版印刷剣道部の方々にも相談をさせていただくなかで関東・全日本の実業団剣道連盟にも登録させていただいて。その後は少しずつ剣道経験者の社員も入社してくるようになって、徐々にそれなりの剣道部になってきました。
実業団大会でも3回戦あたりまでは進出できるようになってはきましたが、稽古自体はずっと部員それぞれで各自練習という状況だったんです。しかし、それがちょっと事情が変わってきまして(笑)。実は2022年の7月から亀井徹先生(範士八段)に剣道部の師範に就任していただくようになったんです。
──亀井範士は若き日には全日本選手権大会2位、その後も全日本選抜七段選手権大会優勝、全日本選抜八段優勝大会2位などの輝かしい戦績を残し、熊本県警察主席師範、全日本剣道連盟教科担当理事なども歴任された方です。なんとも豪華な指導者ですね。
以前、社外取締役に明治大学剣道部出身の先輩に就いていただいていたこと、また凸版印刷剣道部にも明大OBが多かったこともあって、よく明大には出稽古に行かせていただいていたんです。そのときに明大剣道部の強化委員長を務めていたのが亀井先生でした。
そのご縁から亀井先生に師範をお願いすることになったのですが、あんなすばらしい先生が師範となると剣道部も以前といっしょというワケにはいかない(笑)なんといっても亀井先生が掲げる剣道部の目標は「日本一」ですからね。
──練習環境はどう変化しましたか?
亀井先生は「日本一を目指すのだから少なくとも週に2回は稽古だな」と(笑)。しかし、頭を悩ませたのは稽古場をどうするか。公共施設もなかなか借りるのが難しいなか、どのようにして稽古場を確保するのかと悩みましたが、そこで目をつけたのが現在の私の実家でした。実家は天理教を信仰していたこともあって3階がその教会スペースに、1階はコンサートなども開催できる講堂になっているんです。その1階のスペースを利用して週に2回、火曜日と木曜日に亀井先生からご指導をいただいているんです。
稽古スペース自体はさすがに狭いながらも、防音設備だし、お風呂もあるし宿泊もできる。少人数の稽古であればなんとかなるだろうと思って利用することにしました。
──少人数で亀井範士の指導が受けられるなんてむしろとても贅沢です。
基本的にはシオザワ剣道部の稽古なのですが、部員は仕事の都合もあって必ず参加できるとは限らない。亀井先生ご自身は「参加者が一人でも俺は来るよ」と言ってくださっているのですが、それではあまりにももったいないので外部の人でも亀井先生のご許可をいただけば稽古に参加可能としました。いまは外部の方だけで常時5人くらいの参加者があって、皆さん非常に熱心に「亀井剣道塾」に通われていますよ。
──塩澤さんご自身の剣道歴についてもおうかがいしたいです。
剣道は5歳からはじめました。私は東京都渋谷区神宮前の出身で、現在も熱心に活動している「みちの子道場」に通うようになりました。
天理教を信仰していた祖母が当時実家の一部を移築したのがちょうどいまのみちの子道場の場所でした。その建物の1階が住居スペースとなり、2階が剣道場になった。そんな事情もあって、父親から「剣道場に通ってはどうか?」と勧められて通うようになりました。
当時のみちの子道場の指導は厳しかったですね。冬に雪が降ると表参道から明治神宮まで裸足でランニングをしたことなんかもあって、あの頃の親御さんたちは子どもが石を踏んで足から血を流していても「鍛えてくださってありがとうございました!」という時代でした。子どもだった私にとってはツラくてホントにイヤだったけれど、おかげで体は丈夫にはなりました。実際、その後、風邪なんかひかないし、社会人になって会社を休んだのは忌引とケガだけですから。
地元の中学校を卒業して進学したのはあきる野市にあった秋川高校でした。いまはもう廃校となってしまったのですが、都立高校なのに全寮制の男子校という珍しい学校で、剣道部は都立ながらもインターハイに出場したりする強豪校だったんです。
もともと私は中学生のときは剣道部と同時に合唱部にも入部していて、その後の進路としては音大附属高校か普通の高校を受験する予定だったんです。しかし、秋川高に進学していたみちの子道場の先輩がいて、その人から「お前は秋川に来い」と誘われた。その話を父親に伝えたところ「全寮制で鍛えてもらえるなんていいことだ」ということになって、急きょ進路を変更したんです。
高校時代の稽古はそれはもう厳しくて、1年生の一学期だけで体重が10kgも減ったほどでした。しかし、あのときの経験があるおかげで、どこか肚が座った部分があるのも事実で、いくら厳しく鍛えられても命までは取られないことが分かったし、いわゆる「シゴキ」の間には自分の人格を分けるというか、客観的に自分の置かれている状況を見られるようになりましたね。
大学は東京経済大学に進学して、もちろんそこでも剣道部に所属しました。当時の東京経済大は剣道の実績による推薦制度などなかった時代ですが、ちょうど私たちの代は珍しくいい選手が集まったんです。関東大会では全日本学生優勝大会への切符を賭けて強豪の青山学院大学と大将戦まで競ったりもしましたが、結果的には惜しいところで負けてしまうことが多かったですね。
──就職した凸版印刷の剣道部は名門チームですね。
将来的にシオザワに戻ることを考えた選択ではありながらも、剣道部についても当然意識はしていました。偶然にも入社試験の面接官の方も剣道関係の方で剣道部への入部の意志を尋ねられたので「ぜひ入部したいです!」と答えたのを覚えています。
振り返ると凸版印刷剣道部ではいい経験をさせてもらえました。選手としては一度Aチームで出場させていただいたくらいでしたが、やはり名門チームで強い選手たちと稽古させてもらえた経験は大きかった。シオザワで剣道部を立ち上げたあとでもお世話になることが多くて、いまでもいい関係を築かせていただいています。
初心者も経験者もこれでレベルアップ!
剣道グリップ&トレーニング「零 (ZERO)」を販売
──事業でも部活動でも俄然「剣道熱」が高まってきましたね。
事業の4本目の柱となる剣道事業ですが、そのプロジェクトの第一弾となるのが手の内を鍛えるためのトレーニング器具「零 (ZERO)」です。
これももちろん亀井先生のご協力があったからこそ生まれた商品で、もともとは稽古後の飲み会でのたわいもない会話がきっかけでした。私はゴルフもやるのですが、ゴルフにはグリップを鍛えるための特別な練習器具があります。剣道もまた、とくに「手の内」は上達のための重要なポイント。「剣道にもゴルフと同じようなトレーニング器具があってもよいのではないか、もしつくるのであればもちろん亀井先生の手型でお願いしたい」と、そんなやり取りがきっかけとなって、このプロジェクトがスタートしました。
手型をつくるまでにも試行錯誤はありましたが、知り合いに歯型をつくる石膏会社の人がいたのでその会社にお願いをすることにしました。亀井先生にもその会社に足を運んでいただき、先生の手型が無事に完成。その後、精巧に出来上がった手型の石膏を持ち込んだのはゴルフの練習器具をつくっているエリートグリップという会社です。この会社から販売されているゴルフグリップに亀井先生の手型をつけたいというお願いをしたところ、そこで逆に向こうからいただいたのが「グリップにウチの会社から出しているシャフトをつけてみてはどうか?」という提案でした。
特殊樹脂でできているそのシャフトで、ゴルフのスイング練習を繰り返すとドライバーのヘッドスピードが上がり、ボールの飛距離が伸びるという。そのありがたい申し出を受けて試作品をつくってみれば、それを振った亀井先生がひと言、「塩澤社長、コレはいいよ」と。
商品化にあたっては、子どもから大人まで使えるようにサイズはS・M・Lの3サイズを展開、カラーバリエーションもブラックとオレンジの2パターンを準備して、2021年12月から販売を開始しました。
評判はおかげさまで上々。いくつかの剣道強豪高校がさっそく使ってくれて、つくった側の我々が考えもしなかった10種類ほどのトレーニング方法も考案してくれました。
その後も剣道界の有名な方々からのご注文をいただいていますし、国内だけではなくアメリカや韓国、中国など海外からの要望も増えています。
シオザワの4つ目の事業としては年間の売上目標を3000本に設定しているのですが、発売から3カ月経過した時点ですでに700本が売れました。亀井先生とは「焦って派手に売り出すのではなく、じっくり浸透するように広まっていったらいいね」と話しているのですが、発売から間もない時点から多くの方々に求めていただけているのはありがたいことです。
──それでは最後に今後の展望などあれば教えていただければ。
剣道部を強化するにあたって、今後は積極的に剣道による社員採用もしたいと考えています。いよいよ剣道事業も本格的にスタートしましたから、剣道で採用された人材は剣道事業に集中するという働き方が実現できればいいなと。
剣道事業の次なるプロジェクトとして考えているのは和紙でつくった稽古着の販売。実現のためにもう何回もチャレンジを繰り返してきているのですが、それがいよいよかなりいい出来になってきた。和紙の特性上、通気性も水捌けもいいので、ぜひご期待をいただければ。
私自身の個人的な目標とすればやはり昇段ですね。もともと私は五段を取得して以降は楽しく健康維持のために稽古できればいいと思っていたのですが、ウチの娘が剣道をはじめたことがきっかけで六段を受けざるを得なくなった。私には息子と娘がいて、もともとどちらも剣道をやっていなかったのですが、何を思ったのか東北大学に進学した娘が初心者として剣道部に入部したんです。東北大の師範は遠藤勝雄先生(範士八段)で、娘が遠藤先生に自分の父親は剣道五段なのだと伝えると、先生は「五段はまだまだ愛好家。六段からが剣道家」とおっしゃった、と(笑)。それがいまから12年前のことで、私は48歳で六段に挑戦することになりました。
そしていま現在は七段挑戦中の身です。仕事の関係もあってなかなか稽古回数こそ多く積むことはできませんが、なんと言ってもご指導をいただくのが亀井先生ですからね(笑)。先生にお願いする1回の稽古に集中して、ぜひ七段に合格したいです。
住所 | 〒104-0043 東京都中央区湊3-4-11 株式会社シオザワ |
電話 | 03-3553-7081 |
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