長崎県五島の馬場家。名だたる剣士を多数輩出してきた名門道場・西雄館の創家であり、国士舘大学名誉教授の馬場欽司氏を父にもつ血統。剣道を精神的支柱に持ちながらも、一方で「剣道界だけ、教育界だけの世界で生きると視野が狭くなる。いろいろな世界の人と交流をもって、たくさんの経験と見識を持て」とお父上から薫陶を受けてきたバランス感覚の持ち主。剣道強豪校を一から作り上げながら、発達障害の子どもたちを育てて世に送り出す仕事に人生を懸ける価値を見出し、経営者の道を歩むその熱い想いを伺いました。
プロフィール
馬場欽也(ばば・きんや) 1970年3月31日長崎県生まれ。2~3歳の頃に東京に移り、巣鴨学園、国士舘大学を経て日本航空高校(山梨県)の教員となる。剣道部顧問として同校を全国区の強豪に育て上げる一方、校長まで歴任。2020年に独立して株式会社EPICを設立、発達障害の子どもを教育、育成する放課後等デイサービス「ハッピーハグ」を山梨県甲府市と昭和町で5店舗運営。2024年春には中高生専門の放課後等デイサービス「ATHENA(アテナ)」と通信制高校「Metis高等学院」を併設するという全国でも数少ないチャレンジをスタートさせた。剣道教士七段。
放課後等デイサービス「ハッピーハグ」
https://www.happyhug.net/
Metis高等学院
https://metis-school.com/
高校の校長から放課後等デイサービスの経営者へ。
【療育】は人生を懸けていい仕事
― 馬場さんはとても笑顔が優しくて、子どもたちがすごく馴染みそうな印象です。
初めて言われました。そんなこと言われないですよ。
(隣室におられる馬場社長の右腕ともいうべき取締役・上田里香さんへ)取締役、聞きました!?(笑)
特性を持っている子は巷に結構な人数がいらっしゃる。いわゆる“グレーゾーン”。で、グレーでいるんだけど本人は自覚してない。結構スポーツも強かったり何か一芸に長けてたりする。やたら計算が早いとか絵がすごく上手だったりとか。著名人でもそういわれてる人っていますよね。一芸には長けてるとは思うんですけど、コミュニケーションが下手だったりとか。
高校や大学でも発達障害に関する問題を耳にします。環境が変わったことで特性の部分だけが浮き彫りになって、学習やコミュニケーションでエラーが出る。私も当時仕事柄、教育に関することで相談を受けましたけど、その頃は発達障害について存在は知っていても知識が乏しかったんですね。で、お話を聴いていくと「発達障害の特性ではないか」と。でも、本人も保護者も受け容れられない。解決策が見当たらない状態でした。
ところがあるとき、「発達障害の診断を受けてはいるんだけど、幼少期から【療育】を受けてきた」という生徒と出会う機会があったんです。特性はあるけれども高校生活は問題なくできるという。この生徒は問題なく高校生活を謳歌して、立派に就職していきました。
で、何が違うんだろうと思ったときに、その療育ってところで自分の特性を理解してたんですね。「こうなると人とトラブルを起こすから、自分でクールダウンしなきゃ」とかって。
― 自分でコントロールできるんですか?
そこが、やっぱり療育で教えてあげるってことなんですよ。じゃあ、その療育っていうのはどういう風にするといいの?ってなったときに、高校でも取り入れられるのかな?って言ったら、幼少期にやることが大事だと。で、ちょうど僕の知り合いに療育に取り組み始めた人がいて、その人がいろいろ僕に教えてくれたんですけど、「これって、結構人生を懸けていい仕事だな」って思ったんですよ。自分で。
それで独立して、いわゆるゴールじゃないですけど、高校教師として先を知っている人がその療育を幼少期にすることで、ここに上手く結びつけられるんじゃないか。というところでこの仕事を始めたんです。
この療育というのを僕に教えてくれたのは、当時練習試合をよくやらせてもらっていた剣道の強豪校の先生。その先生はいち早くこの業界に取り組んでたんですね。で、その仕事が正に「放課後等デイサービス」だった。これも剣縁なんですよ。まったくのズブの素人だったらできないですけど、独立後、先を知っている人がいろいろ教えてくださったんで、できた。そんなこともあってこの仕事を始めたんですね。やっぱり最初の頃は試行錯誤してやってたんですけど、だんだん評判も、「もともと学校の先生、校長先生がやってるところみたいよ」みたいな感じで広まってきて、いまは5店舗の放課後等デイサービスと通信制高校をやってる。
― 放課後等デイサービスは発達障害ではない子も利用できるんですか?
できません。放課後等デイサービスは診断を受けた児童福祉の利用認定がされた子じゃないと使えないんです。定員的には1店舗で10人前後しか使えない。
― 逆に、定員10人が5店舗だと50人。結構いるんだなという印象です。
いるんですよ。1クラスに2~3人くらいいると言われてます。僕たちの頃は、ちょっと落ち着きがないとか何かだらしない、怠けだとかって言われてた子がいたけど、普通の教室に入れられてたでしょ。ああいう子たちが大体いまは小児の発達心理外来で診断を受けるんですよ。
診断を受けると行政から受給者証というのをもらえて、安価で行政サービスを使えるみたいな。平成26年頃から始まった事業なんですけど、そういった子どもたちが多様性の中で生きていくのはかえって生きづらいだろうってこと。特に苦手な教科とか人が多いとダメってときには、各学校に支援学級ってのがあるんですね。発達障害っていうと特別支援学校みたいなイメージがあると思うんですけど、そこは本当に重度。LDといわれる学習障害があったりとか、そういう場合はそっちに行くこともあるけど、情緒の発達障害の子たちは比較的同じ学校の中にいて、そこの支援学級の方でやる。で、放課後は僕らみたいなところが担う。そんな感じ。放課後等デイサービスは全国で一気に増えてる。
― 放課後等デイサービスが一気に増える一方で、先生を集めるのが大変なんじゃないですか?
めちゃめちゃ大変です。需要に全然追いついてない。
やっぱり資格が必要なんですよ。事業所の中で教員が何人いなきゃとか保育士が何人いなきゃいけないとか、そうじゃなければこの業界で何年かやってないと資格が持てませんよって。ただね、この事業は厚労省の管轄なんですよ。教員は文科省。だからどっちかというと保育士の方が優遇されてて。ウチは歴史も浅いし、そうなると、もともと資格を持ってる人で、で保育士ってなると、保育園も人が足りないしこっちでも保育士が欲しい。だから保育士の取り合い。
― 制度の立ち上げ期の話ですけど、放課後等デイサービスの方がPTAがないので幼保より人気という話を聞いたことがあるんですが。
「放課後等」デイサービスだから午前中は比較的子どもは来ない。午後(放課後)から濃密な時間がバーッとあるけど。そう考えると、保育園みたいに朝からずーっと子どもたちの相手をしながら夕方までやるのと比べれば、そういった点では関わる時間は少ない。ただ、相手をするのが全員発達障害の子たちなので、声掛けだったりとか、ちょっとしたことでも癇癪を起しちゃったりだとか、或いは小1~高3まで利用できるんですけど、中学生とか高校生になると女性には手に負えないくらい体がでかい子も出てくる。ということで結構、この業界の中で暴力事件が起きちゃったりすることがある。
だからやっぱり、幼少期からきちんと育てなきゃいけない。
新しいチャレンジ。
中高生専門の放課後等デイサービスと通信制高校
で、ウチは小1~高3まで使えるということで最初やってたんですけど、やっぱり小1と高3は同居できないだろうということで、中高生専門のも作ったんです。この春から。中高生専門の放課後等デイサービス、そこが1階にあって2階が通信制高校なんですよ。ウチがやる通信制高校。これはたぶん、全国でもそんなにない。
― 通信制高校の内容はどういうものなのでしょうか?
学校法人の学校のサポートをするんです。私たちが勉強を教える。
通信制高校って基本的には3つのことができると卒業できるんですよ。で、単位制なんですよね。74単位なんですけども、その74単位を取るのに必要なのが、期日までにレポートと言われる、まぁ参考書みたいに教科書を見て自分で解いて、第1回は6月10日までに出してくださいみたいな、「期日の決まったレポートをちゃんと出す」ということ。で、これをきちんと出してると、今度は「スクーリング」と言われている対面授業。通信制なので普段は家でやってていいんですけど、最少だと1年間に7日間程度の対面授業を受けなきゃいけないんですよ。これをやって最後は年度末に試験を受ける。その試験に合格すると単位が認定される。ということなんですけど、これ、普通の高校生がまったく知らない高校の勉強を自分で勉強して自分で提出するってできますか?って話なんですよ。難しいじゃないですか。毎日授業を受けててもできなくて塾に行ったりするのに、それを自分でやれって話なんですよ。それを発達障害の子にやれって厳しい話なんです。
― きついですよね。
ですよね。そこで私たちサポート校っていう存在があって、勉強を教えてあげたりとか、「あなた締切まで時間が足りなさそうですよ。 もっと頑張りましょう」とか。その他にも課外授業っていうのがあって。やっぱり人とか社会との関わり合いが少ないのでそういった課外授業をしましょうっていう授業を私たちが組んであげて、そういうのを経験させて卒業まで導いていく。そういうトータルで生徒に伴走するサポート校というのがあって、それを私たちはやってる。
― 通信制高校って、発達障害の子のサポートという位置づけの学校と、例えばスポーツエリートが時間の使い方から選ぶという位置づけの学校と、そんな感じで2種類あるんですか?
いまはそういう区分はあんまりせずにみんな受け入れてる。例えば、ゴルフとかはもう毎週転戦するんでとてもやってられないとか、サッカーで海外留学したい子とか、とにかく剣道に特化してやりたいとか -香川の星槎高校、岩部先輩がやってますけどー そういう形でやったりとかでスポーツに特化したもの。あと僕が相談を受けてるのはBMX。あれも世界戦があるらしくて、練習環境とか考えたらとてもじゃないけと普通高校には通えない。星槎なんかだとフィギュアスケートの鍵山くんとか卓球の張本さんなんかも。
僕が提携しているのは郁文館。もともとは、僕が高校教師のときに日本航空高校の通信制に4年間携わって東京のキャンパス長だったときに、稽古場所を探してジプシーみたいな出稽古をしてたんですけど(笑)、郁文館にも稽古に行かせてもらってたんですね。で、そのときの経験があったので、郁文館の監督の北口くんとの剣縁で繋がりました。
発達障害の子を育てて世の中に送り出す。
受け入れる社会の方はどうなのか?
いよいよ僕がこの放課後デイの仕事をやったら、これはやっぱり高校に行かせてあげないとかわいそうだと。
発達障害の子って、例えば数字が弱かったりとか長文が読めなかったりって子がいるんですね。だけど他のことはめちゃくちゃできる。だけど、高校って5教科全部できないと入試で合格できないじゃないですか。ひとつでも0点とっちゃったり、ひとつ一桁だったりすると、それで高校に行くのを諦めたりって子がいたので。
結果的には、その子たちが高校に行かなかったことによって、ずーっと福祉の世界で生きてるんですよ。で、福祉の世界でこの後就労支援に入っていくんだけど、そうすると賃金安くて。それもほとんどが税金からくる福祉の補助を受けてやってるんですね。ところが、高校卒業して自分のいいところを活かして就職できると、自分でもちろん生計を立てられるし、逆に税金を納める側になるんですよ。結果的に、すごく大きな話ですけど国家社会のためになるだろう。結局、外国人を育成就労させるくらいだったら、この眠ってる30万人くらいいる人材を外に出した方がいい。例を挙げて言うと、製薬会社とか化学製品を作るところで「この製品を100ミリ入れて」とか言ったら、1ミリも狂わずに毎回きちっとやるんです。一日中できるんです、そういうことが。そういったことができる子たちなので、だから活かしようはあるんですよ。ところが就労支援だと箱詰めをしてたりとか。「あなたたちは障がい者だから」って括られて、内職みたいな仕事しかさせてもらえない。
― もったいない。
ですよね。親御さんも「それで一生本当に生きていけるのか?」と。結局、収入が少ない。仕方がないからグループホームに入れて生活も面倒をみてもらいながら、毎日そこに行ってちょっとのお金 -月に2~3万円- の給料をいただいて生活する。だから生きてはいける。だけど自分で家族を持ったりとか欲しいものを買ったりとかはちょっとできない。全然そういうレベルじゃない子たちもそういう世界に行ってたりするので、であるならば、ちゃんと高校卒業資格を取らせて。むしろ大学の方がダイバーシティなんですよ。有名大学でも結構多いらしいですもんね、発達障害。大学だと文系で数学はまったく・・・みたいなのあるじゃないですか。そっちだったらいけますとか。そういう方向に行ける可能性が出てくるので、そういった可能性を見ながら。
― 発達障害の子どもたちを育てて世の中に送り出そうとされているわけですが、受け入れる社会の側はそれについてきていると思われますか?
40人以上の企業は必ず1人障がい者を入れなきゃいけないですよね。そういう枠ももちろんあるけど、むしろ、自分たちの特性を活かして、その方向性を僕たちが出してあげることによってそういう風になると思うし。社会はまだ追いついてないとは思いますね。やっぱり発達障害と聞くと、「何かトラブルを起こすんじゃないか」って思われると思うんですよね。どうしても情緒のところが多く出るんで。人と交われないとか。
だけど、僕も地元ディーラーのBMWの社長と話をさせてもらったときに「こういった子たちの仕事をしてるんです。就職先とかどうですか?」って言ったら、「実際に雇ってますよ」と。洗車したりとか、めっちゃきれいにするらしいんですよ。ただ、それをやってるおじさんが隣りにいて、そのおじさんよりも早く仕上げるじゃないですか。そしたらおじさんの横で座っちゃうんだって。それでおじさんが「お前、なに座ってんだよ」って言うと、「なんで?僕ちゃんとやったのに」。そういう人間関係なんですよ。だけど、それを求められると確かにそうなんだけど、「今日の君の仕事はこの車をピカピカにすること。この2台をやってね」って言ったら“きっちり”やるんですよ。いかに適性に応じた仕事を与えてあげるかということと、その理解。そういうことなんだから、最初から「君、終わったらこっちも手伝ってね」とか言ってればいんだけど、予定になかったことを急にやられると理解できなくなっちゃう。「そんなこと聞いてない!」とか。或いは朝出てきたときに挨拶ができないとかいうことはあるかもしれない。
誰しも特性ってあって、そういう中で、突然なんだかわかんないけどイライラしたりすることってあるじゃないですか。で、ちょっと八つ当たりしたりする。自分の問題なのに何かすごい迷惑そうな顔をしてる自分を見ると、「あれ?俺も持ってるかな?」って、そう思うんですよね。誰しもちょっと何かあると思うんです。だけどそれを特性として区分けをしてあげると、すごくみんなが生活しやすくなる。
目が悪ければメガネをかけて矯正するのと同じだと思うんです。
剣道をしていた人間が経営することの意義
療育を受けてた子が自分をコントロールできる。
これは治療というか、ひとつはこちらの理解も必要なんです。この子は挨拶できないけれども、それはこの子の意思じゃないんだと。その子の特性として認めてあげる土壌があるかどうか。
昔の剣道部だと「なんで挨拶しないんだ!」ってなるけど、だから昔はそれを強制してある程度直ってたかもしれないけど、それは治ってたんじゃなくて、その子が我慢してただけなんですよね、たぶん。すごく生きづらいんだけどそうしないと怒るから。そういう学びをしたんだと思うんですよ。だけどいまの場合は、「そういった子たちは理解してあげましょう」なんですよ。
発達障害の子たちは、幼少期からダメダメダメダメ言われてきてる。例えば言葉が遅かったりとか、他の子より歩くのが遅かったりとか、或いはやたらキョロキョロして集中力が全然なくて「なんであなたはキョロキョロしてるの?」って。「おとなしくしてなきゃダメ」とか「じっと座ってなさい」とか。常にダメダメ言われてるんで、自己肯定感がむちゃくちゃ低いんです。その部分でも愛情不足で認めてほしいってことがあるから、敢えて暴れてみたりとかすると人が注目してくれるからギャーってなってみたりとか。誤学習してるんですね。
なのでウチの施設では、そういったことをまずは緩和してあげる。
いいことを自発的にしたときに、「はい、そこに座って」じゃなくて、自分からパッと座った瞬間に「素晴らしい。座れるね」「こっち見てるね」「注目してるね」「すごい」なんて言いながらその子を評価してあげる。っていうことを繰り返すんです。そうしていくと、自分のやってることが正しいんだとか認めてもらえるんだとか。そういういことの繰り返し。スモールステップなんですけど。
― 忍耐が必要ですね。
そうです。
― 馬場さんのご経歴からすると、どちらかというと体で覚えさせるタイプの教育を受けてこられたんじゃないかと思うのですが、これだけ忍耐力をもって指導できるようになったのには何かきっかけがあるんですか?
ないですよ、そんなの(笑)。
この業界に入ったからです。この業界で学んだことです。バリバリのそっち方向だったから。
というのは、学校教育の部活動はもともと軍隊教練の名残じゃないですか。軍隊が悪いんじゃなくて、軍隊には自分と人の「命」がかかってる。だからこそ規律が重んじられるし、昔であれば鉄拳制裁をしてでも矯正しなければならなかった。学校教育も旧態依然のところは「叱れる教師」が指導力があると誤解されている。私も部活動の監督で体育教師でしたから(笑)。結局それって、いまの時代に合わなくなってる。まずそれやると保護者からクレームが来て、「パワハラじゃないんですか」と来るじゃないですか。時代が変わっちゃったんですよ。そういう教育が通用しない。
― なかなか時代の変化についていけない先生も多いんじゃないかと思います。教育界って案外狭いイメージがあります。
やっぱり経営者になったってところかな。もともと校長になったところで対外的なお付き合いとか増えてきて、いろんな世界を見てきたんですけど、実際会社を経営することになってみたら、「狭かったなぁ」って思います。だから鍋ちゃん(筑波大学准教授の鍋山隆弘氏)なんか、ずっとあの世界にいるのにあの考え方をするのってすごいと思う。もしかしたら鍋ちゃんは旧態依然の鉄拳制裁で筑波を作ってるんじゃないかって思ってたんです。だけど違うから、すごく気が合うんです。鍋ちゃんは彼の前後10年くらいは鍋ちゃん世代といえるようなスーパースターで、ゴリゴリの剣道人になってもおかしくないのにすごく柔軟だから。学生の育て方なんかも、そういうとこなんかを見ると、時代を作る人だなと。藤井くん(東大剣道部出身・代ゼミ講師の藤井健志氏)なんかもそう。話が合う。
やっぱりこう、社会のためになりたい。その意識がありますよね。それってすごく大事で、自分のためだけじゃなくて、もちろん経営者なんで会社を盛り上げていくこと、儲けることは大事なんですけど、それが社会貢献に繋がってる、延長線上にあるってことが大事で、そこから外れるのはよくないことだなと思ってるんですよね。それがやっぱり剣道をしてた人間が経営することの意義だと思ってるんです。
僕もやはり多くは父の影響を受けてきたんですけど、父もやっぱりその辺は頑固一徹。剣道界のあるべき姿みたいなのを誰が何と言おうとやってきた感じがあるんで。だけど、「剣道人、教員だけでは世界が狭くなる」と。「偏った、そういう教員になっちゃダメだぞ」って言ってた。「いろんな人と付き合って、いろんな経験をして、剣道やってるだけの世界だと視野が狭くなるから、そうなるなよ」と。そういう風にずっと教わってきています。
小学生になって初めて「世の中の子は剣道をしないんだ・・・」と知った
― 馬場さんご自身の剣道についてですが、物心ついたときには「竹刀を持て」みたいな感じだったんですか?
そうですよ。
僕は3歳から剣道やってて、幼稚園とか保育園とか行ってなくて、小学校が一番最初。小学校に上がったときに、「毎日夕方になったら国士舘の稽古に来い」と。で、大学生と稽古させてもらってた。お兄さん・お姉さんが稽古つけてくれたり、父親の手が空いてるときにちょっと稽古つけてくれたり。生活の一部だったんですね、僕の中では。
放課後みんなで遊ぶじゃないですか。だから5時くらいになったら「帰る」って言って、「もうちょっとやろうよ」って言われて「剣道があるから」って言うと、「剣道って何?」って言われて、そこで初めて、世の中の子は剣道をしないって知ったんです。それまで、みんな剣道をするんだって思ってたんです。そのくらいな感じでしたよ。
― 地元の小学校から中学校に進んだんですか?
はい。でも中学校には剣道部がなかったんです。だからずっと国士舘。そこから巣鴨。巣鴨の小川先生が親父の教え子なんです。小川先生は長崎のご出身なんですけど、ウチの親父が長崎出身で大学卒業してすぐ長崎東高校に赴任したんですよ。そのときの教え子なんですね。で、親父が国士舘に来たとき小川先生も国士舘に来られた。だから、よくウチに遊びに来てて、子どもの頃から知ってた。
僕も巣鴨に行きたかったんですよ。当時の東京の四強で勉強もできて剣道もできるとなると巣鴨かなって。巣鴨一択でしたね。
中学に剣道部がなかったから実績ゼロで行ったんですけど、当時のキャプテンが武井幸二さんで、その下に大山先輩。だから僕は、「この人たちって日本一強いんだろうな」って思ってたんですけど、本当にあの人たちは大学で国士舘とか法政でトップにいって。いい環境でやらせていただいてたなって思います。そのときのチームがどこまでいったかで言うと関東の2位がありますかね。そのときって九州かPLかみたいだったんですよね。九州は強かった。玉竜旗でも大山先輩が21人抜いたんですよ。で高千穂と当たって高千穂の先鋒も抜いて、もうこれいくんじゃないか?なんて言ってたら、次鋒に負けて、その次鋒に5人抜きされた(笑)。
― 大学は迷わず国士舘へ?
親父がいますからね。「わかってるよな」みたいな感じじゃなかったけど、巣鴨には法政とか先輩が進学してたから憧れはあったんですけど、そんなのはたぶん許されないだろうなと思って、国士舘しかないなって。
教員になりたかったんですよね。で、教員になりたかったんだけど体育の教員だけじゃ嫌だなと思ってたんです。で、文学部なら社会と体育の両方が取れるってことで、だから僕は体育学部じゃなくて文学部。
練習は鶴川と世田谷に分かれてて僕たちは鶴川。試合は合同で部内戦をやって選手を決めてました。僕は大学での戦績は全然ない。同級生も強かったし、2つ上がめちゃくちゃ強かった。なんせ男女合わせて大学7冠の代。僕はどっちかっていうと社会人になってからですかね、試合の方は。山梨に来てからです。
玉竜旗に行ったことでいろいろと変わっていった
― 教員のスタートが日本航空高校ということですが、どういったご縁だったのですか?
以前から、国士舘の剣道部から剣道の教員を採ってたんです。大学の就職課に求人があって「お前行かないか?」みたいになって。僕、剣道部が全国で無名の高校に行きたかったんですよ。イチから強くしたいっていう、なんかこう、前の色があると難しいじゃないですか。イチから作りたいなってのがあった。
最初に行ったときは、「やっぱり国士舘から若いのが来た」って感じで血気盛んな奴らが最初かかってくるじゃないですか。で、稽古したんですけど当然ボコボコにするわけですよ。そしたら翌日から誰も来ない。武道館に誰もいなくて、ほとんどが寮生活をしてるから寮を探しに行って布団を剥いだりとかして、「どこ行った?」って。どっかいろんなところに逃げてるのを探して(笑)。
最後の方は「日本航空高校で剣道がしたい」って全国から来てくれましたけど、最初のうちは、航空の勉強をしてて中学は剣道部でしたみたいなメンツ。「こんなに稽古しても強くならない。強くなってもしょーがない」みたいなことを言ってたんで、「剣道が強くなったらどういう風になるか教えてやるよ」って。当時は県でベスト8に入るかどうかだったんですけど、玉竜旗に連れて行ったんですよ。そこで特に有名じゃない高校に負けるんですよね。で、そのときに「どうだった?」って聞いたら、「いや、勝ちたかった。勝ってみたいと思いました」って。で、3年生も「できればもっとやって、こういう大会に臨みたかった」みたいな話があったんで、「じゃあ、2年生は頑張って来年の玉竜旗に向かってやろう」って言って。以前は山梨県内の試合で1回、2回勝てばそこそこ満足してて、ベスト4とかの学校に負けたらそれは仕方ないじゃんみたいな。だけど県外に出てみて、あんな500チームも出てて自分たちが緊張する中、あんな大きな舞台でやってみて、初めて勝ちたいと思ったんじゃないですかね。
― そこから大きく変わった。
そうですね。そこからはやっぱり稽古に来るようになったし、身体が大きい子は上段を教えてほしいと言ってきたり。そんな風にやってたときに、いばらき剣友会 -当時茨城県のトップで道連の大会でも名を上げていた頃で、水戸葵陵高校の君島先輩が、「どうしても欲しい選手がいばらき剣友会にいる。で、その子をスカウトに行ったら、パイロットになりたいって言うんだよ。だから、お前スカウトに行ってこい」って玉竜旗の会場で教えてくれたんですよ。だから、玉竜旗に行ったことでいろいろすごく変わったんです。
で、それを聞いて初めていばらき剣友会に行った。雨谷先生に初めてお会いしていろいろ話してる中で、「串間くんがパイロットになりたいって聞いたのでウチに欲しい」って話をしたんです。
ここまでちょっと話を端折ってたんですけど、実は僕、大学を卒業して1年間、長崎の五島に行ってたんですよ。おじいちゃんがやってた道場があるんですけどね。戦後の国士舘草創期を作ったと言ってもいいくらいの道場。国士舘の第1回の優勝がウチの親父の兄。2回目がウチの親父。3回目はいまの全剣連副会長の藤原先生。で、その後に西陵の片山倉則先生とか静岡の安永先生とか、この辺の人たちが行ったときに全部国士舘が優勝してるんですよ。で、ウチの親父の妹の旦那さんの桜木哲史先生とかに繋がっていくって感じなんですね。
で、その道場を僕のじいさんが90歳になってもやってたんですけど、体調も悪くなって稽古に行けないと。で、ウチの親父の一番上の兄さんがもう一年で県警を退官するから、その一年だけ行けって言われたんです。
そのとき中3だった子たちの学校の方で日体大を出た先生が転勤になった。素人の先生しかいないから教えてほしいってことになって、その子たちを教えてたんですけど中体連の県大会は決勝で負けちゃった。でも結構強かったんで、この子たちがこのまま埋もれてたらかわいそうだから、じいさんに「道連の武道館の試合に出してあげたい」って言ったら、じいさんって勝ち負けに全然こだわらないんですよ。勝ち負けじゃなくて礼儀作法を重んじてるんですね、すごく。だから、「全国に行ってちゃんと礼儀作法をさせるんだったらいいぞ」って言われたから、「ちゃんとさせます」って言って試合に出した。長崎県予選を勝ち上がって、武道館でも破竹の勢いで勝ち上がって、コート決勝でその年優勝した福島の揚土剣友会ってとこに代表戦で負けたんです。福島国体に向けて強化してた剣友会で強くて。でもその大会で揚土剣友会が大将まで絡んだ試合をしたのはウチだけ。
で、雨谷先生に「実は僕、西雄館っていう道場で道連の大会に出てて」って言ったら、「あの揚土と代表戦やった、あの西雄館?」って言うから、「あ、そうです」って言って。「あの剣道はすごいよね」「君が教えたの?」って言うから、教えてないんだけど「はい」って言ったら、「じゃあ、串間を預ける」みたいな(笑)。
その串間くんと稽古したら、大学出たてでバリバリの僕に地稽古で出頭メンを打つんですよ。中3が攻め合いしてですよ。グワーッとすごい攻め合いをしてて剣先で会話できるんですよ(笑)。
こいつ半端じゃないなって。
で、山梨に連れてきたらそんな子いないわけですよ。その子が入って急に県でベスト4まで上がった。
当時の日本航空高校は山梨県で優勝するようなクラブはなかったから、可能性を感じてもらえて、理事長から「お前、剣道部を強化してみるか」って話になって、「強化するのはいいんですけど、僕はスカウトの力がありません」「やるんなら超一流を呼びたいから」って言って、桜木哲史先生を師範に呼んで、桜木先生と一緒にスカウトしたんです。だから、次の年に来た1年生が最初の特待生なんですけど、九学中から2人、串間を慕っていばらき剣友会から1人、桜木先生の教え子の宮城県チャンピオンが来てっていうのでチームを組んで。
その子たちが2年生のときが山梨インターハイだったんですよ。開催県だから2位でも出れたんです。串間が3年のときで。それが・・・3位だったんです。当時は甲府商業が本当に強くて、2番手が坂田秀晴先生率いる富士河口湖高校かウチかって感じで、関東予選とかもウチがずーっと2位で行ってたんで、だからウチが固いだろうと思ってたんですけど、やっぱりインターハイになると余計なプレッシャーもかかって、負けた。僕も含めて生徒たちも2~3日動けないくらいショックで。インターハイの入場行進とかを間近で見ることになって、その悔しさがあって「もう絶対に負けたくない」ってなって、生徒たちも「もうこのくらいで勝つんじゃない?」みたいな感じがなくなりましたね。九州遠征に行っても負けなくなった。
― それが着任して何年目ですか?
4年目です。平成5年に入って平成9年の選抜から出てるので。
ところが、僕が平成17年に転勤して4年間通信に行って戻ってきたら、今度は県の1回戦で負けるようなチームになってたんですよ。強化対象からは外れてなかったんだけど、選手が集まってこなくなってた。で、保護者からも校長に話が行ったりして「全日制に戻ってこい。剣道部を見ろ」って話になって。そこで剣道を立て直すには選手を獲ってこなきゃいけないんだけど、やっぱり一回落ちちゃうとなかなか難しいじゃないですか。そこでお願いしたのが香川・光龍館の岩部先輩。岩部先輩のところへ行って、「水戸葵陵に行けるほどタフじゃないんだけど、でも剣道が好きだから鍛えてやってくれ」ってことで来た子(現埼玉県警特練・八木翔太氏)が、これまた小さいんだけどファイターで、すごくよかったんですよ。実は水戸葵陵でもやっていけるほどタフな子だった(笑)。
で、この子が盛り上げていって、また県で少し勝てるようになった。結果がなんとなく出始めて、東松館をはじめ知り合いの先生方が生徒を送ってくれるようになり、その子たちが関東2位になったり。そういう意味では串間や八木はパイオニアになってくれたし。実績のないところに進学を勧めてくれた先生や来てくれた生徒には感謝しかないです。正に剣縁です。
そうして剣道部の稽古に邁進している中、教頭になって、さらに校長の話が出て。校長を受ける条件として「剣道をやらせてほしい」って。
本当に“縁”に助けられている
― 校長をしながら剣道部を見ておられたんですか?
そうそう。教え子も一人国士舘から戻して。
そんな感じでやってて、この業界に。世の中のためにという思いが強くなったこともあるし、60歳まで勤めてからやったら、そんなエネルギーないだろうなって。
― いきなり会社を立ち上げると言っても、資金とか税務とか、どうやって会社を作るかというところはどうやってクリアされたんですか?
(隣室の上田取締役の方を見ながら)そこで登場するわけじゃないですか(笑)
― 最初から懐刀がいらっしゃったということですね。
実は、彼女はもともと僕と一緒に日本航空高校の教員だったんですよ。彼女の経歴は割と複雑で ー面白い人でー 関西学院大学を出てから全日空のCAだったんですけど、結婚して山梨に来た。僕の国士舘の後輩と結婚したんですよ。甲府商業出身の剣道バリバリと。でも山梨には空港がないから新たに働く場所を探して。自分で行政書士の資格を独学で取って行政書士をしてたんですけど、日本航空高校にCAの先生がいなかったこともあって高校に就職した。そこで教員をやって、最終的に教頭までなったんです。僕が校長で彼女が教頭。
で、彼女は退職することが決まってたので、彼女は書類に強いし、僕が辞めた後で会社を立ち上げるときに、是非一緒にしようよって話で、いま一緒にやってる。
― 困ったら<剣縁>にこういう人がいるわ・・・みたいになったらいいなと思っています。
最高だと思いますよ。
もともと経営の地盤のある人だったらわかるんでしょうけど、恥ずかしい話、設備投資ってあるじゃないですか。設備投資で借りたお金って「まぁそれも買うけど他のものも買っちゃおう」ってできるんじゃないかと思ってたんですよ。お金には色がついてないから。で、銀行に「なにしてくれてんだ!」って怒られた。そんなことも知らなかった。
会社の体裁を作るのに必死で、助成金とか補助金とかも十分に調べきれなかったし、それでも彼女がいてくれたことで助かった。行政書士だってこともあったりして、福祉に関する助成金とかをやってもらってるんですけど、その書類に強い部分があるので、僕は経営のこととか人材の教育の方に集中できた。
今日こうやって考えて話してるんですけど、すごい綱渡りな人生だなっていうか、よく剣道で繋がってきたなぁと思う。
― 馬場さんの信念みたいなところがご縁を呼ぶんじゃないですか?
そこはわからないけど、本当に縁に助けられてると思う。
ただ、チャレンジはしますね。「やってみるか?」って言われて「いやぁ、僕はまだまだ」みたいなことはなかったです。とにかく常にチャレンジしてきたし、絶対に「馬場がやったから成果が出なかった」ということだけは絶対にやりたくなかった。通信で東京に行ったりっていうのもいまに活きてる。そのとき通信で知り合った福祉の人が、いまでも福祉の情報源になってたり。
信念というか気持ちの強さはあると思います。
剣道部を預かってるときも、自分が足を運んで選手を獲りに行って、獲りに行くとそれなりに責任があるわけですよ。例えば、中学で関東3位だった子が高校でベスト8だったとしても、それは落ちたってこと。だからウチに来た以上はそれ以上の結果を出す。「あそこに行ったらあんなに活躍できた」っていう。それは仕事でも一緒ですね。自分が任されたからには成果を出す。絶対に。「お前に任せたから失敗した」とは言わせたくない。そういった気持ちが、ずっと活きてるんだと思います。
時代を変える子たちって、もしかしたら僕たちがいま携わっている世界にいるのかもしれない
― 教員は天職ですか?
天職というか、家系的に、指導者になったり教育者になったりが多かったんですよね。祖父も教育者だったし、親父も大学で。母はやっぱり国士舘で陸上のオリンピック選手だったんですけど、大学を卒業して中学の教員になって、親父を追っかけて長崎に行って、僕が生まれるまでそこで中学の教員。っていうことなんで、バックボーン的には教育。なので、自分もその世界で生きていきたいなっていうのはありましたね。小学校の卒業文集みたいなのに書いてたと思いますよ。
― 発達障害の子どもたちを送り出す立場から、社会がまだ追いついてないというお話がありました。社会に向けて発信したいことを是非。
結局埋もれちゃってるわけですよ、その子たちは。で、ある意味疎ましい存在として発達障害の子っていうのは、ちょっと関わりたくないなとかいう風に。そういう概念を外してあげたいし、もしかしたらギフテッドな子たちなんじゃないかなっていう思いもあるんで、イチロー然りイーロン・マスク然り。特別な能力を持ってるけど、その代わりに何かが欠落してるのかもしれない。
坂本龍馬もそうだって言われますもんね。薩長を組ませるなんて普通の考えじゃ絶対しないけど、そこに行って図々しくも話をしてきて、夢を語って一緒に手を繋がせるなんて。でもそれがなかったら、未だに髷を結ってるかもしれないわけで、そういうような時代を変える子って、もしかしたら、この僕たちがいま携わっている世界にいるのかもしれない。とんでもない仕組みを作ったり。「それって人間関係を考えてたらとてもできないな」とかあるじゃないですか。だから、そういうことを無視してでもやり遂げちゃう。
地球上に必要とされない生き物はおそらくいないはず。であるならば、人間社会を変えるために、ちょっと特異な人物を何百万人の中に何人かいれていくというような。ただそれを最終的には定型発達者と言われてる一般市民が「こいつおかしい」って排除していく。これって、人間社会にとってプラスなんですか?ってことじゃないですか。やはり共存していき、そしてその子たちを活かしていく。その子たちが社会を変えていくっていうことがあって初めて、健全な状態になるんじゃないか。必要ないとか何か変わってる人を生物の中に入れてくるって、おそらく生物学上ないんじゃないかと思うんですよね。じゃあ何かしら役割があるんだと。それって、その子たちの持ってるものなんじゃないか。それを僕たちが社会に出してあげる。ということが使命かな。発達障害についての理解というか、「あ、そんな特別じゃないんだ」というところを受け容れればこの子たちは人材として役立つんだとか、そうい特性は持ってるけれどもお付き合いしてもらえる、そうなるように理解してもらえるキッカケになればいいなと思います。
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