瀬戸内発!地域企業のグローバル化に貢献したい (棚田勇作 / せとうち経営相談所 所長)

生まれは兵庫県宝塚市。中学から大学までを関西学院で学んだ棚田さん。

剣道をはじめたのは高校生の頃からとやや遅めのスタートながら、名門・関西学院大剣道部、そして社会人となって以降も研鑽は継続中。

現在は広島県福山市でせとうち経営相談所を開業。

過去に大手企業2社に勤務、豊富な海外事業経験をもつ棚田さんは東南アジア事業アドバイザー、中小企業診断士というふたつの肩書を有し、企業の海外事業、海外事業部の立ち上げなどをサポートしています。

棚田さんにうかがったお話からは、地元瀬戸内地域への愛、そしてそこで暮らす家族に向けられる優しい眼差しが感じられました。

プロフィール

棚田勇作(たなだ・ゆうさく)

1979年兵庫県生まれ。関西学院中学部・高等部(兵庫)から関西学院大学に進学。大学卒業後、参天製薬株式会社に勤務。その後、三菱電機株式会社に転職し、広島県福山市に移住。同社にて海外新規事業に携わる。同社のタイ子会社に駐在したのち、2021年に独立してせとうち経営相談所を開所する。剣道は高校時代からスタート。大学時代は主務を経験。大学卒業以降も稽古を続け、三菱電機勤務時代は剣道部に所属。海外赴任先でも稽古に励んだ。剣道四段。

せとうち経営相談所

https://www.setouchi-biz.jp

豊富な海外経験を活かして
企業の海外事業をサポート

──まずは棚田さんの現在のお仕事についてお聞かせください。名刺にはいろいろと肩書きが……

メッチャ怪しいでしょう(笑)。いま僕の肩書としてはふたつあって、ひとつは東南アジア事業アドバイザー、もうひとつが中小企業診断士です。

業務内容としてはいわゆるコンサルタント業で、海外事業支援をメインにしつつ、いまはコロナ禍対策などで色々な補助金制度があり、中小企業診断士として申請のお手伝いをさせていただくことなどが多いですね。

──現在お仕事も好調で、全国から依頼を受けているとうかがいました。

たまたまというか、ラッキーな部分もあるんです。独立して最初の仕事は直近の勤務先の同僚から。彼の奥様が行政書士として独立開業されるというのでご相談をいただいたのが僕の最初の仕事でした。開業当初半年ほどは仕事が少なく、基本的には僕は主夫生活を送っていました。妻も働いていますから子どもの送り迎えや炊事洗濯をしっかりこなしていました。当初は事務所もなく、仕事場の確保に苦労していましたが、知り合った士業の方から、居候で事務所を間借りさせてもらうことができ、大変ありがたかったです。

僕にとって運が良かったのはコロナ禍となって以降、働く環境としてリモート勤務が当たり前となったこと。全国・全世界で活躍しているこれまでの同僚や仲間から仕事の声かけをいただいて、ここ福山市からでもリモートでいろいろな仕事をこなせる環境になりました。

正月に開業して、その秋頃にはおかげさまでかなり忙しく仕事をいただけるようになり、自分で事務所を借りるようにしました。現在まで、自分としてはとても楽しく取り組んでいるのですが……正直あまり独立後の自由な時間を満喫するようなヒマはありませんでしたね(笑)。

──そもそも海外事業支援のコンサル業というお仕事はご自身の過去の職歴が関係あるんですね。独立されたのは2021年とうかがいましたが。

そうですね。僕は大学を卒業したあとにはまず参天製薬株式会社に就職して、そこでMRをしていました。いわゆる営業なのですが、それを5年間経験した後、社内公募制度を使ってアジア事業部に異動。そちらで5年間勤めて、三菱電機株式会社に転職したんです。

三菱電機に入ってからこの広島県福山市に移住して3年間勤めたあとに、海外新規事業の立ち上げに携わるようになって4年間タイのバンコクで駐在していました。そのあと日本に戻ってまた1年間福山で勤務してそこで独立。いまに至ります。

──豊富な海外事業経験を活かしたというワケですね。

それもありますが、やはり中小企業診断士という資格を取得したこと、そしてこの広島県福山市で生活していることが大きなきっかけですね。ただコンサルをやっても「海外事業経験あります」だけでは、そんな人はたくさんいるわけで。そこに「中小企業診断士の資格がある」と加えても、それでもまだまだそんな人はたくさんいる。だから僕はそこに「地方」という要素を加えてみた。こうなればさすがにもうそんなコンサルはあまりいないだろうって(笑)。

──この福山という土地はもともとお仕事のために移住した場所なんですね。

そうです。三菱電機の福山製作所に勤務することになったのでココに来ました。僕自身はもともと兵庫県宝塚市の出身で、大学卒業までは学校から徒歩圏内の実家で暮らしていました。参天製薬に就職したのをきっかけに静岡県浜松市で勤務して、アジア事業部に所属していたときは大阪本社に勤務。三菱電機に転職してからこの福山で暮らしています。

──独立してもまだ福山を拠点にしているということは、そんなにこの土地が気に入ったんですね。 はい。妻も僕も穏やかな瀬戸内海と島の景色が好きで、ほぼ毎週のようにしまなみ海道に行っています。僕は仕事で全世界26カ国を巡りましたが、瀬戸内が世界で一番きれいな場所だと思っているので気軽にアクセスできるこの土地が大好きなんです。この美しい景色を子供の世代にも残しておきたいと思い、自分のできることで瀬戸内地域の活性化に貢献したい。それがいまの仕事の大きなモチベーションになっています。

過去に勤務した2社での海外事業経験と中小企業診断士としての知識を活かして独立した棚田さん。コロナ禍、リモートワークが当たり前となった環境も独立のきっかけのひとつになった。
事務所には居住スペースもあり寝泊まりも可能。子供の通学にも便利な場所にオフィスを構えた

自分の人生を年表化
家族のためにできることは

──棚田さんの職歴、そして剣歴などもうかがえればと思います。

剣道自体は高校生からはじめました。僕は中学から関西学院に通っていましたが、中学時代は文化系の図書部に所属して、いわゆる図書委員のようなことをしていました。中学では毎日「駆け足」という時間があって5キロ前後のランニングをするのですが、体力のない僕はそれでもうお腹いっぱいになっていました(笑)。

高校生になって駆け足の時間がなくなり、なんか運動したいなと思っていたときに仲の良かった友だちが剣道部におり、「来たら?」って誘ってくれたんです。

──剣道歴のスタートとしては比較的遅めですよね。

初心者だけに試合ではなかなか勝てませんでしたが、それでも過去に運動部に所属したことがなかったですから、友達と一緒に何かに一生懸命に取り組むということが楽しかったですね。大学に進学したときも、剣道部を続けるかどうか考えましたが、部活がなければきっと自分だったら大した目標もなく楽な生活しか送らないだろうなって。それで大学でも剣道部に入部しました。

学生時代は主務を務めて、OBの先輩方との交流も増えましたし、苦楽をともにした仲間たちとの結束も深まった。大学剣道部では、おそらく一般の学生であれば社会人になってから学ぶようなことを早い段階でたくさん勉強させてもらえた気がします。社会人になってからも、仲間の活躍に刺激を受け、社会人として大きく成長するためのモチベーションを高く持ち続けることができ、剣道部を通じて知り合った多くの方々に感謝していますね。

──大学進学後に就職された参天製薬も大きな会社ですが、そこにはなぜ?

健康っていいなと思って(笑)。いくらお金やモノがあっても、健康でなければ幸せではないと思うんです。

あの当時は浜松で勤務していましたが、あの頃は仕事も剣道も楽しかったですね。

参天製薬はご存知の方も多いかと思いますが、やはり目薬が有名な会社です。僕は営業として眼科のドクターを訪問するのですが、眼科というのは内科などとは違ってその数自体がそもそも少ない。その分、一人のドクターへの訪問頻度が多く、関係も濃いものになるんです。また病院に訪問すると他の製薬会社の営業とも出会う機会も多くて、たまたま同世代が多かったこともあって、自然と友人も増えていきました。

会社に剣道部はありませんでしたが、僕は浜松に剣道具を持っていっていたのでそれをつねに営業車に積んでおきました。仕事は直行直帰が多く、営業先からそのまま地元の道場や実業団の道場などに向かって、浜松の皆さんにはずいぶんとお世話になりました。

その後は参天製薬の社内でアジア事業部の人材が募集されていたので、そこに応募したんです。異動が決まると今度は大阪本社の勤務となり、母校の関西学院大の近くの実家で暮らすようになったので、自然とOBとして母校の稽古に頻繁に通うようになりましたね。

──お仕事も剣道も充実していたようですが、その後は三菱電機に転職されました。

アジア事業部で働いた経験から「世界はアジアだけじゃないな、もっと自分の活動の舞台を広げたいな」と思うようになったんです。そういう仕事はないものかと探してみると、三菱電機で海外の新事業の立ち上げに関わる人材を募集している、と。担当国は日本以外ということしか決まっていなかったことも僕にとってはとても魅力的でした。

それで転職したのが32歳のとき。三菱電機では剣道部にも所属して、大学以来の部活動での仲間ができ、とても楽しかったです。タイに駐在していた4年間も向こうで稽古を続けましたね。

──こちらでもまた仕事も剣道も充実した環境だったようですが、それだけにまたそこを退職するという選択がとても不思議に思えます。

参天製薬に勤めていた当時、大学剣道部の尊敬する先輩から「人生の計画をちゃんと考えろ」とアドバイスをいただいたんです。せいぜい3年先くらいまでしか考えてなかった僕にはその言葉がとても心に響いて、タイにわたる前に一度自分と家族の人生を考えてみようと思うきっかけとなりました。妻と一緒に瀬戸内海を見渡す絶景のカフェで会議したのをはっきりと覚えています。お互いの寿命を設定して、あと何年の人生なのか、妻と一緒に年表をつくってみたんです。自分がやりたいこと、妻のやりたいこと、子どもに与えたい教育などを話し合って、それを書き込んでいきました。

僕の妻は大学時代の同級生で弁護士をしていたのですが、司法試験に合格するまではかなり苦労をしました。やっと合格していざ弁護士となって大阪で活躍していたところ、福山の僕との結婚を機に退職し、子どもが生まれて育児に追われ、僕の仕事の都合でタイに行くことになるなど復職の機会がなかなかありませんでした。

自分たち家族の年表をつくってみれば、いずれ子どもは親の手を離れていくわけで、そうなったときにはやはり妻は資格を活かしたいと。僕も妻はぜひ活躍すべきだと強く思いました。弁護士は経験値が非常に重要な職種で、復帰したいと思ったタイミングでパッと仕事があるわけでもない。だから彼女がいざ仕事をしたいとなったとき、もし僕が会社勤務で自由の利かない立場にいたならば彼女の背中を押してはあげられないなって。だから僕が中小企業診断士の資格を取ったのもその準備のひとつなんです。

──とてもお優しいんですね。

妻が試験勉強で苦労してきたのを目の当たりにしてきましたから。もちろん会社では安定した仕事、収入を得ていたので、辞めるのにはかなりの勇気は必要でした。でも視点を変えてみれば「独立したい」という気持ちがあるのならば辞めるのはできるだけ早いほうがいいんです。大きなチャレンジだからこそ体力のある若いうちに精一杯取り組む必要がありますし、仕事を依頼する側からしても若い方がいいんじゃないかと思って。だから内心ではビビりながらも、人生を長期的に見れば、これは正しい判断だと決断しました。

いまだ棚田さんの人生に大きな影響を与え続ける関西学院大学剣道部の仲間たちと。もっとも長身なのが棚田さん(左から3人目)。その身長は185㎝を誇る
関西学院大出身であり現在全日本剣道連盟副会長を務める神谷明文氏が、日本・インドネシア国交樹立60周年記念事業の一環でジャカルタに派遣された。棚田さんは当時タイに駐在しており、同じく東南アジアに駐在にしていた関西学院大剣道部OBが3カ国から集結した。
写真右から2人目が棚田さん

学生時代に得た剣縁が
仕事への意欲を高めてくれる

──最後にお仕事のこれからの目標を教えていただければ。

現在はおかげさまで忙しく働かせてもらっていますが、本来取り組もうと思っていた地元企業の海外支援がまだそれほど多くできていないんです。だからそれをもっと増やして、瀬戸内のグローバル化を進めていきたいですね。

──剣道のほうはいかがでしょうか。大学を卒業して以降もずっと熱心に取り組んで来られていますよね。

学生時代まではほぼ毎日稽古がありましたが、社会人ともなれば仕事が優先で誰しもが稽古できるわけではない。だから自主的に稽古に取り組んでいけばそのぶんどんどん上達もするし、以前までは勝てなかった相手にも勝てるようにもなるかなと。しかし、独立してからは仕事と家事の両立で多忙で、さらにコロナ禍もあって実はあまり稽古ができていない状況です。ようやく仕事のペースがつかめてきたこともあり、地域の道場で稽古を本格的に再開しようと考えているところです。目標としては五段審査の合格ですかね。僕はタイに滞在していたときに一度向こうで五段審査を受審したんです。そのときはもうメッチャがんばって稽古したのに結果は不合格。だから今度は絶対に合格したいと思っています。

──剣道もかなりお好きなんですね。

楽しいです。やはり剣道の世界は日常生活とは別世界。仕事からいっさい離れてそういう体験ができることはいいリフレッシュ効果がありますね。それに、僕にとってはやはり剣道で得た縁はとても大きい。とくに学生時代の剣道部は縦も横もつながりが強いだけに、多くの先輩方のお仕事での活躍が自然と耳に入ってくるんです。そういう話から僕につねに刺激を受けていて、自分自身の仕事に対するモチベーションも自然と高まっています。

事務所の窓から見る福山の街。夕焼け空が美しかった
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