目の前の壁は必ず乗り越える(浦平美博/株式会社AEGIS 代表取締役)

株式会社AEGIS(イージス)は、和歌山市に本部を置く社員数約40名の警備会社。「人が人を支える」を社是とし、HPや採用サイトでも、会社の約束として「警備員の生活環境改善に本気。労働環境改善に本気」と表明されています。代表取締役の浦平美博さんは国士舘大学剣道部のご出身。もともとは剣道の指導者になりたくて高校教師を志し、実際に奉職したものの辞職。現在は会社経営と同時に和歌山県議会議員を務めておられます。なぜ浦平さんはいまの道を選んだのか、浦平さんを突き動かす原動力は何なのかをお話しいただきました。

プロフィール

浦平美博(うらひら よしひろ)。1971年8月21日和歌山市生まれ。和歌山北高校から国士舘大学に進み、卒業後は和歌山県の県立高校教員となる。2021年4月に警備業を営む株式会社AEGIS(イージス)を設立。会社経営と同時に2023年からは和歌山県議会議員も務める。
高校時代に国体出場、大学時代は関東学生剣道優勝大会で団体優勝、教員(講師)時代には指導者としてインターハイ出場を果たすほか、自身も全国教職員大会で個人2位、全日本東西対抗剣道大会に出場(西軍34将)などの実績を残す。剣道錬士六段。

株式会社AEGIS
https://aegis-wakayama.com/

和歌山県議会議員 浦平よしひろ
https://urahira.com/

警備会社の本部と議員事務所を兼ねる社屋。晴嵐会は就労移行支援事業のNPO法人で先日代表を禅譲

なりたくてなった高校教師。
でも、すぐに強烈な違和感を感じた

もともと、大学を出たら剣道の指導者になりたいと思って教員を志していたんです。でも、実際に高校の教師になったときにすごく違和感を覚えた。26歳のときに教員になったんですけど、たぶん、その年には「恐らく僕は政治の世界に進む」と思ってました。

― 県立高校の教員になるのは難関でしょう?

はい。和歌山県の体育教諭は採用定員若干名に対して受験者が約300名。必死で勉強して採用試験に受かったら、普通は定年まで勤め上げますよね(笑)

最初は講師として母校である県立和歌山北高校に勤めたんですけど、当時の和歌山北高校は女子が全国大会出場の常連だった一方、男子は部員が3人しかいないような状態。監督は女子を見ているので、学校から「浦平、男子を見てやれ」という話になったので引き受けて、僕と男子生徒3人でずっと稽古をしていたら2年生が県の新人戦で個人チャンピオンになったんです。団体も5人戦に3人で臨んでベスト8。ちょうど採用試験に受かった年でした。

優勝したその子は真っ先に僕のところへ「優勝できました!」って来るんですよ。でも僕は講師という立場なので「よくやった。でも、先に監督のところへ行け」と言う。でも生徒からすると特に指導を受けていない監督のところへ先に行く意味が分からない。「それでも行け。大人の世界でごめんやけど、それでも行け」って言って、僕もついて行ってあげたんです。ところが監督は「別にお前は勝たんでもよかった」と言ったんです。その子は、優勝者なのに「どうして勝ったらダメなんですか」ってボロボロ泣く。

翌日、僕は体育教官室に呼ばれました。そこで監督ではない別の先生に「なんで勝たせた?お前、試合中にアドバイスしただろ」と詰められたんです。僕はこう言いました。「試合のコートの中でたった一人で戦っていて、普段から少ない人数で稽古してきて、いよいよ決勝となったときに、やっぱり指導してくれてる先生の顔を見たくなるのが自然だと思う。先生の顔を見なくてもやれるのが一番強いけれども、そんな高校生はまずいない。で、こっちを見たから“そこはこういけ”ということをちょっとジェスチャーで示しただけで。勝ったのは本人の努力であって、僕が勝たせたわけじゃない」と。そうしたら「お前はあー言えばこー言うな」と言い返されたので、「教師は生徒のためにやってるんでしょ?なのに、生徒が頑張ったことに対して“よくやった”というひと言をなぜ掛けてやれないんですか?教師が生徒の方を擁護しなくてどうするんですか」と反論したんです。県の教育委員会から「講師が教諭に対してクレームをつけるのであれば、あなたは教諭としての資格はありません。採用取り消しです」と言われました。

高校生との稽古風景

師匠の言葉で思いとどまった

それで、「そうですか、わかりました」と言って教育委員会を出た後に、僕の師匠である鈴木康生先生に「先生すみません、僕はもう辞めます」と電話を入れたら「明日の朝来い」と。それで鈴木先生に指定された喫茶店に行ったら、「もう一年だけ頑張れ」と言う。「先生すみません、僕はどんなことでも先生の言うことを“わかりました”ってやってきたけれども、こればっかりは後に引けない」と言い返したら、「貴様、誰に向かってモノ言うてんねん!」っておしぼりが飛んできて(笑)それでも「俺ももう社会人や。こんな腐った世界で教師なんかやれん」と言ったら、もう一度、「もう一年だけ辛抱せぇ」と言う。「それで採用試験に通らんかったら、ワシも一緒に辞めちゃる」とも言われたんです。

さすがに鈴木先生を辞めさせるわけにはいかないと思いながらも、それでも帰宅して親に「鈴木先生はこう言うけど、俺は間違ってないから辞める」と言いました。でも親にも「鈴木先生にこれ以上迷惑をかけたらいかん。もう一年だけ辛抱しろ」と言われたので、「わかった」と言って辛抱することにしたんです。

それで一年辛抱したんですけど、転勤になったんです。赴任先は県立和歌山工業高校。講師として赴任して寮の舎監。和歌山北高校でも舎監をやっていて、普通は舎監の次は教諭になっていくんですけど、僕は採用を取り消されているので、また舎監(笑)

そこに川口先生という監督がおられた。この人は教育委員会とかに長くいて現場に出てきている人なんです。和歌山工業高校って、そこそこいい選手が集まるんだけどもいつも二番手。というのも、僕のような体育系は剣道で実績を残さないと大学に行けないけれども、工業高校は専門校だから潰しが効くんです。就職率も100%。だからすごく厳しいことはできないということもあって、僕は正直あまり乗り気じゃなかった。でもそこで川口先生が、「僕はインターハイに行かせてやりたいと思ってる。でもみんな髪の毛は伸ばすしオシャレする。3年間ずっと、とにかく坊主にせぇとか言ってきたけど、一切言うことを聞いてくれん。インターハイに行かせるだけの努力はしてるんやけど実らない。だから浦平先生、悪いけど力を貸してくれんか」と言われたんです。

初めて、教諭という立場の人から「力を貸してくれ」と言われた。

そこで川口先生に「先生はどうしたいですか?」と聞いたら、「インターハイに行かせてやりたい。ただその一点や」と言われたので、「わかりました。稽古の内容、坊主にするかどうかを含めて僕に任せてくれますか?」と聞いて、「浦平先生に任せる」と言ってもらった。その後剣道部員を全員集めて話をして ―3時間くらい話したかな ― 、そうしたら翌日全員が坊主で来た。先生の話になるほど!と思ったんで坊主にしてきましたって。それで川口先生に「全員坊主にしてきたんで、もう確実に今年インターハイに行きますから!」「稽古のメニューは僕が完璧に作りますから」って言って、僕も現役だしガンガンに稽古して、実際にインターハイに行くんです。

― 着任してすぐにインターハイに出たんですか?

はい、すぐに行くことができました。もともと生徒の能力が高かったので(笑)そしてその年の夏の全国教職員大会で、僕自身も大学・高校・教育委員会の部で個人2位になるんです。余談ですけど、決勝の相手は佐藤充伸選手。全日本学生のレギュラー入れ替えのときに、僕が落ちて彼がレギュラー入りしたという因縁の相手。こっちは最初から「この野郎~」なんて思っちゃってるから、ダメですね、一本負け。しかも引きドウ(笑)

インターハイで僕は試合会場には入れなかったんです。教諭じゃなく講師なので。当然会場には川口先生が入る。でも生徒は僕の顔ばっかり見るじゃないですか。普通ならそれにいい気持ちはしないと思うんですけど、川口先生はそうじゃなかった。そういう懐の広い人でしたね。だから「この人のために頑張らなあかん」と思って頑張りました。

そういう状況で、自分の剣道の実績も社会人として残したし、採用試験の勉強もしている、生徒もインターハイに行った。なので、「鈴木先生、先生の言ったとおりのことを全部クリアした。これでもし試験に落ちても怒らないでくださいね。僕は辞めますから」「先生はワシも辞めるって言ったけど、先生には辞めてもらったら困る。まだまだ先生の指導を希望する子どもたちがいるから」なんてことを言ってたら、採用試験に受かった。2年連続で受かったってことになります(笑)

第39回全国教職員大会(高校、大学、教育委員会の部)の個人決勝戦のパネル

思いもよらず、剣道ではないところで教師の面白さを知る

そういうことをやってきて、採用試験に受かった後に赴任した先は県立和歌山西高校。当時教育困難校と言われていた高校です。剣道部員はゼロ、常に毎日教師が誰か殴られてる・・・そんな学校で、火消しは全部浦平。だからもう剣道よりも生徒指導に追われる(笑)でも、僕は剣道の指導者になりたくて教師になったんですけど、そこで教師の面白さを知ったんですよ。逆に。剣道なんて小さい話やなくらいに思いました。

生徒数が640人くらいで保健室の年間利用者数は述べ8,000人(笑)でも彼らは、どこかで病んでる部分があったり、大人の偏見で心を痛めていたりしていて、この子たちは世間から底辺と言われるけれども別に底辺じゃないやん!って思うようになった。それで、剣道も「お前、剣道せぇ」なんて言って素人を集めてちょこちょこやって、生徒指導をやって、体育教師をやって、ということでやっていったんです。そうしたら年間の保健室利用者数が8,000人から1,500人まで減った。

― それはすごいです。どんな手を打ったんですか?

保健室の入口に『浦平』って書いたテーブルを置いて、僕がそこに座ってたんです。ガラガラ~ってドアを開けた瞬間に僕がいるので、ガラガラ~って閉めて教室に帰っていく(笑)そして、数字を良化させて全校集会で褒めてやる。「8,000人が1,500人になったぞ!俺のパワーがどんなもんかわかったやろ~」って大笑いしながら。そうすると彼らも「浦平いいぞ~!」って感じになる。こんなふうにやっていくと、生徒が僕の言うことを聞くようになるんです。その代わり、何かあったら小銭を渡して「ジュース買ってこい」なんていうことをやってたんですね。それがメチャクチャ面白くて。

そうすると、学力はまぁすこぶる悪いんだけれども、ちょっと上がるんです。平均として。落ち着くと。

― 落ち着きって大きな要素ですよね

そうです。落ち着いてくると教室のゴミも減るんです。僕が赴任したときは、まずチョークがない。投げるし踏んで割るし。ガラスもそこらじゅう割れてるし。髪の毛は赤、青、金、銀。緑もいたな(笑)この子たちって、一人で話したらすごくいいのに、地元に帰ると白い目で見られる。例えば、和歌山西高校の生徒が自転車で2列で走ってると、「邪魔だ」とすぐに学校にクレームが入る。でも、進学校の生徒が3列で走っていても学校にクレームは来ない。つまり、勉強ができてちゃんとした格好をしていれば、3列になっていて邪魔でも大人は許す。大人の偏見からこの子たちを守ってやらきゃいかんと思ってやってきたので、それが伝わって彼らも落ち着いてくるんでしょう。

そうしているうちに今度は、「北高がどんどんダメになってるからお前が行って生徒指導をやれ。剣道部も立て直せ」という話が出てきた。僕は西高で教師の面白さを知ったけれども、まだ道半ばだと思っていたので異動を断ったんですけど、結局は再び北高に行くことになった。

北高に移って卒業シーズンになったとき、西高の生徒が30人くらい北高に来たことがあったんです。彼らは「浦平先生に会いに来た」と言っただけなんですけど、それが「西高の生徒が学校を取り囲んで浦平を出せって言ってる」って変換されて騒ぎになったんですよ。先生方が対応できなくて仕方なく出ていったら、「先生、卒業できることになりました!」って。それだけ。で「よくやった!」って5,000円を渡してジュースを買ってこさせて、みんな「先生、乾杯!」って感じ(笑)そして彼らに「お前たちの“浦平先生に会いに来た”が“浦平を出せ”に変わる。そんなふうに見られてることを忘れたらいかんぞ。大人は汚いと思うだろうけど、お前たちが汚い大人にならなければいいだけのことや」って言って、事なきを得るわけです。

ところが今度は、そういうのが問題発言だと言われるわけです。教職員組合からものすごく非難されましたね。僕は組合に入ってなかったんですけど。それでもう教師を辞めようと思っていた頃、30歳になった年に体罰の問題を起こしてしまった。かなり酷い書かれ方をしましたし事実と違うことも書かれました。全国紙の社会面の一面に僕の自宅住所も書かれましたし。いまでもそのときの記事が手元にありますけど、見ると震えます。そして自分で退職願いを書いて和歌山県の教員を辞めました。

― その後はどうされたんですか?

知的障がい者の施設に行きました。そこで、和歌山県のキャパシティでは障がい者の人たちの給料を十分に賄えないので大阪まで営業に行ったりしていました。ところが、大学の先輩から大きな仕事をいただいて会社に持ち帰ったら「断ってこい」と言われたことがあったんです。僕の上司は社長が他社から引き抜いてきた人だったんですけど、その人の顔を立てろと。結局、僕は先輩をはじめとして仕事をいただいたすべての方に「責任は私のクビでお願いします」と頭を下げて回った。そして辞めました。

そんな頃に知り合った方に私立の学校法人の方がいて、また高校の体育教師をさせていただくことになりました。そこでは剣道をやるつもりはなくて経歴も伏せていたんですが、あるキッカケで剣道部に関わるようになりました。そこではよい経験もさせてもらいましたけど、そこでもやっぱり、教員の本分よりも大人の事情なんかが僕の前に壁として出てくる。

教師は生徒のためにいるんです。なのに、教師の本分を忘れているような人があまりにも多い。なので真面目に取り組む人間に全部しわ寄せがきて、その人は身体も心ももたなくなる。僕自身もそうなりかけていました。その頃、「僕はもう辞めようと思ってます。本当に学校教育がダメになると思うので、僕は教員を指摘できるような立ち位置、つまり政治の世界にいこうと思ってる」と相談していた先生がいて、その先生とは「先生には校長まで頑張ってほしい。僕は政治の世界に進む。二人で両面から和歌山県の学校教育を変えましょう」と約束してずっとやってきているんですけど、平成23年、東日本大震災があった年に選挙に出て、僕は政治家の道を歩き始めました。

― 最初は和歌山市議会議員ですね

はい。志したことを曲げずに学校教育の在り方について市議会で教育委員会に問いましたが、やはり守旧というか保身というか。でも僕は県立高校と私立高校で教員をやらせてもらってから議員になっている。こんな議員は全国探しても僕くらいなので、ノウハウは僕の方が持っていてアンテナも高い。そうしてぶつかっていくと教育委員会も大きな変化を遂げていくようになりました。学校教育を変えるために政治の世界に進もうと考えた自分の感性は間違っていなかったと実感しましたね。

ただ、それでも絶対にできなかったことがありました。予算の問題と採用試験、それと人事。これは市じゃなくて県の教育委員会が持っているんです。市立高校の先生でも県費負担職員なのであくまでも県に属する。ということは、市がいくら頑張っても限界があるということなので、次のハードルとして県議にならなければいけない。なので県議選に打って出たんですけど落選するんです。なぜ落選したのかというと、「浦平は教育委員会をいじめに来る。なぜなら彼は教育委員会から処分を受けたから」という単純な風評を利用されたということ。「くそー」と思いましたけど、同じ選挙区でも市議選と県議選では戦い方がまったく違うということを経験させてもらいました。

僕は会社を作る。
その会社がちゃんと回るようにして、もう一度出馬する

じゃあ浦平はどうするのか?となったときに、僕は支援者に向けて二つのことを言いました。ひとつは「もう一回だけ応援してください。同じステージで二度負けたらそれは自分の実力の無さ。そのときは引退する」ということ。もうひとつは「僕は会社を作ります」ということ。

― なぜそのタイミングで起業を考えたのですか?

市議会のときは議員だけで生活をしていました。選挙費用や出張費用、後援会活動に国民健康保険などとにかくお金がかかるので、政務活動費があってもまったく足りず自分のお金をどんどん削っていってました。ジリ貧の中で、嫁に泣きながら「ちょっと出してくれ」と頼んだりもしたので、嫁には本当にしんどい思いをさせました。落選して全部失って借金もべらぼうに残った。それで、「僕はもう一回頑張る。会社を作ります。その会社を僕が代表をやってきちんと運営ができて、従業員もいて、その家族も養える給料を払って、ちゃんとできるようになった上で、もう一回やる」と。作った会社がジリ貧になるようなら僕は出馬しないつもりでした。だってそうじゃないですか、僕を信じてきてくれた従業員とその家族を守れないようなら、政治の世界で皆さんの生命・財産を守るなんて言えませんから。だから僕は、「それをやりますから見ておいてください」と言っったんです。有り難いことに、スタートからとても良いお仕事をいただくことができましたし、いま5年目ですが頑張ってやっていけてます。

株式会社AEGISの訓練にて

― なぜ警備業をやろうと思ったのですか?

学生時代に警備のアルバイトをしていましたし、実は私立の学校法人でお世話になっていたときも警備の仕事にも入ってたんです。その頃の僕は和歌山から大阪府下へ片道2時間かけて通ってたんですね。道中は勉強時間にも充てられるので無駄ではないんですけど、とにかくお金を貯めなきゃならない。なので、昼間は高校教師をして、夜は大学の先輩が大阪で立ち上げていた警備会社の従業員としてホテル警備に入らせてもらって、そのまま学校に行ってシャワーを浴びて授業をやって・・・という生活をしてたんです。和歌山から行って2日間大阪で夜間警備をして1日和歌山に帰る。和歌山からの通いを4年間やったうちの最後の半年くらいがいま言ったような生活。ちゃんと学校の許可はもらってましたよ(笑)そうやって貯めた供託金で選挙に出て、落選したけれども2週間後に現職が急逝されたことで繰り上げ当選したというのが平成23年。

実は、警備会社を立ち上げるときにも事件があったんです。支援者の中に建設会社の社長がいて、その人が休眠中の会社をあげるから好きに使ってくれと言うんです。会社をイチから立ち上げたらお金もかかるし、支援者でしたから信じたんですけど、これが脱税のトンネル会社だった。会社をもらって2~3カ月経ったときに「何かおかしいぞ」ということで、従業員たちが辞めると言ってきたので、それだったらということで従業員たちのために会社を興したんです。その会社がいまの株式会社AEGIS(イージス)。イージス艦のイージス。ギリシャ語でアイギス。アイギスは六角形の神の盾。警備員さんは基本的に業者の盾にならないといけないので、イージスという名前にしました。

話が逸れましたけど、AEGISをこしらえたら、休眠会社をくれた連中が競業行為は禁止だと訴えてきたんです。で、そのことで揉めている最中に国税が入った。法人税法違反とナントカ法違反の対象者がその訴えてきた人で、そのときの国税の見立ては「落選した元市議と結託して脱税のトンネル会社を作って、そしてその元市議はお金をもらっている」という構図だったんですけど、事実として僕は一銭ももらっていない。それが国税で証明された。そうしたら相手方が和解を求めてきたんですよ。僕は弁護士に「僕は選挙には出ずに相手の会社を徹底的に訴える」と言ったんですけども、弁護士が「浦平さんは政治の世界に行きなさい。仕事はいま生きてるんだからエエやんか。裁判をやっても2~3年はかかって目前の選挙に出れなくなる。社長をやりながら政治の世界に行って徹底的に戦え。一度脱税したやつは必ず二度三度とやってまた捕まるから放っておけ」って言うんです。これも「くそ!」って思いましたけど、「そういえば教師のときもそうだったな。人生辛抱やな」と思い直して和解に応じることにしました。ですが、好きなだけ持って行かせたので警備の資材も全部持っていかれました(笑)いまあるものは、12台くらいある車両も含めて全部新しく集めたものです。

この経験もあって、困っている人を食い潰すのはアカン!と肝に銘じてもう一度選挙に出た。そうしたら通った。

警備員の制服は「かなり良いもの」を使っているとのこと。警備員の待遇改善に対する本気度のひとつの表れ

剣道は、自分は弱いということをわかるためにやる。
僕はそう学んできた

やっぱり志を曲げないということで、どうすれば横着している人たちを正すことができるのか。例えば、いま47都道府県に夜間中学校を作りなさいという法律になってるんです。なぜかというと、戦後勉強できなくてもできなかった人たち、経済的困難で小学校しかいけなかったとか中学生のときはほとんど働いていたといった人たちに改めて教育機会を提供するのが目的です。ところが文部科学省はその条文に「国籍を問わず」と書いた。この4月に和歌山にも夜間中学校ができるんですけど、税金で行う公教育なのに外国人向けの日本語学校みたいになっては困ります。この一例でもまた新たな壁が出てきて、これはもう国政にいくしかないんじゃないかと思ったりしています。あまりにも状況が悪い。

もともと多選はよくないと思っていて、どんなに頑張っても2期8年と考えています。県議としての仕事も人一倍していますから再選して2期8年務めることはできると思っています。でも、怒りというのをパワーに変えて政治に取り組むと志しているので、その志を曲げずにいくのであれば、また、目の前にある壁を乗り越えるために動かなければならないでしょう。

会社を経営していて持っていかれる税金についてもそう。一年間頑張ったお金が全部税金の支払いで出ていく。自分の前に壁が出てきたときには「自分のためだけじゃなくて、きっと同じように思っている人たちがいるだろう、その中で苦しんでいる人たちもいるだろう。政治は本当に弱い人のためにやるべきもの」と常に考えるんです。壁を乗り越えるために絶対に戦わなければならないんだけれども、「自分のために戦っているんじゃない」という価値観を忘れたら、僕は政治家を辞めます。そういう思いでやっているので、絶対に妥協しません。

剣道がそうじゃないですか。強い人のためにするんじゃない。自分の弱いものを、自分が弱いということをわかるためにやっているわけで。だから、打っても打たれても「ありがとう」ですよね。

僕はそう学んできました。毎日巨大な組織を相手に戦ってきて、でもそういう風にやれているのは、やっぱり稽古のおかけです。国士舘大学に行って、雑誌に出ていたような同級生ぱかりで、しかも2年生になったらまた1年生がはいってくる。「おいおい、最後に9人の中に入るためにどうしたらいいのよ?」って毎日考えてましたし、絶対に妥協せずに人一倍稽古をしました。

これだけのスーパースターの中で9人に残ったとき、監督が名前を言ってくれるんです。少なくとも200人がいる中で、名前を呼ばれた者から立っていくわけですけど、「浦平」って4番目に呼ばれたのかな、嬉しかったなぁ~。そのとき誰が泣いたかって、部屋子が泣いた。「先輩、おめでとうございます!あれだけ稽古をやってきて、これだけ己を曲げずにやってきた先輩を見てて、嬉しくて」って。同級生の繋がりとか先輩のあり方や後輩のあり方、そういうことを、メチャクチャ厳しかった分余計に僕は勉強できた。

議会報告の素材として撮影された写真。ご自身のバックグラウンドは紛れもなく剣道

さっき、「あなたは校長まで頑張ってほしい。僕は政治の世界で頑張る」と約束した人がいるという話をしました。その人も校長になっていて、まだ7年くらいあるんですけど、実は辞めるんです。専門である水泳の領域で大学の監督・教授になるんですけどね。

― それはなぜですか?

実はその先生、校長になる前に教育委員会から懲戒免職寸前まで追い込まれて、精神的に病んだんですね。そのとき僕は市議会議員だったんですけど、県に突っ込んでいった。当然、何も悪いことをしていないので無罪放免という帰結になるんですけど。で、その先生から「このままでいいんだろうか・・・」と相談を受けたんです。それに対して僕は先生に「能力を活かすためには辞めた方がいい。僕らが20代・30代の頃に言ってたことがひとつ達成できましたよね。よかったですよね。もう心置きなく先生は教授になる方がいい」って言いました。先生が校長で僕が県議で、未だかつて誰も手をつけなかった教育行政の闇を、その件も含め暴いたんですから。

そんなたくさんのことがあって、僕は「弱い者のためにどうあるべきか。強きをくじくのは当然のこと。だけどいまは逆じゃないか!」と思っています。

さっきも言いましたけど、剣道は己が弱いことを教えてくれるもの。だから「勝ったからといって喜ぶな、強くなったと言うな、まだ上には上がいるだろう」というわけで、政治の世界もまた一緒。だとするならば市よりも県、県よりも国といくことになるんでしょうね。この国がどういう動きをしているのかというのは、ある程度勉強していても体感できませんし。

子どもたちに剣道がいかに大切かを伝えていきたい

そしてやっぱり、子どもたちに剣道がいかに大切かということの啓蒙活動をやりたい。これについては、先々を考えてずっと台湾で指導をしてきているんです。台湾の中でも親日である台中と高雄を舞台にやっていて、この人たちも大切にしたいと思っています。もちろん、この経験の蓄積を日本の子どもたちに還元したい。僕が剣道という文化について学んだことや壁を乗り越えるための心の持ち方を伝えたい。これは是非やっていきたいと思っています。

台湾の少年剣士たちとの交流風景

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