岡山県岡山市に本社・工場を構えるエクセルパック・カバヤ株式会社は、
主にお菓子や食品のパッケージ製造を手がける企業です。
同社の品質管理部長であり、執行役員を務める難波弘憲さんは、
学生時代には名門・鹿屋体育大学で鍛えた剣道家です。
稽古場では端正な中段の構えを見せる難波さん。
一見しただけでは分かりませんが、実はその右手の手首から先は義手になっています。
大きなハンデをモノともせずに、仕事と剣道に向き合う難波さん。
難波さんの人生、仕事と剣道に対する思いを紹介します。
プロフイール
難波弘憲(なんば・ひろのり)
1974年岡山県生まれ。岡山県立総社南高校から鹿屋体育大学に進学。大学卒業後、JA(農業協同組合)での勤務を経て、エクセルパック・カバヤ株式会社に入社。同社にて、執行役員、品質管理部長の職に就く。剣道は小学2年生からはじめ、高校時代には中国大会個人戦出場の戦績がある。倉敷市内の道場での指導経験を経て、自身で至心剣志会を創設し代表を務める。現在、段位は五段。
エクセルパック・カバヤ株式会社:https://www.exl-kabaya.co.jp/
人生を変える事故は入社1年目に。
「お客さまにワクワクを届けたい」
──難波弘憲さんがお勤めになっているエクセルパック・カバヤ株式会社の主な事業内容、難波さんご自身のお仕事などをうかがえればと思います。
難波 弊社は主にお菓子や食品の箱を手がける、包装資材の会社となります。2016年にホールディングス化となり、事業会社として横並びになりました。
会社は事務所と工場が一体となっているのですが、その工場では20m近い大きさの印刷機がつねに稼働していて、パッケージとなる板紙への印刷、型抜きや糊付け作業、組み立てまでの全工程を行なっています。
手がける商品はやはり食品の箱・パッケージがもっとも多く、それ以外では医療品、医薬品や化粧品部門が多いでしょうか。
製造工程はかなりオートメーション化が進んではいますが、それでもどうしても人の技術や経験値が求められる部分があるのも弊社の事業の特徴のひとつ。経験年数を重ねなければ一流の技術者にはなれない。その「人を育てる」というところが、弊社の大きな課題となっている部分です。とくに勤務する若い方の定着率を高めることが最大の課題で、これが非常に難しい。なぜなら工場は24時間稼働するために、どうしても勤務時間が不規則になりがちです。当然会社としては従業員に対してできるだけ働きやすい環境を提供できるように、いま現在も努力を重ねているところです。
私自身は中途採用で2004年に入社していますから現在は勤務して丸20年になりますね。入社当初は印刷部門に配属されて、その後は生産管理部門へと異動。いまは品質管理部門の部長として勤務しています。業務はその名のとおり、製品の品質を管理、そしてお取引先や協力会社の監査への対応などです。お客さまは当然工場を隅々までチェックされるので、こちらはその厳しい監査をクリアするために、日々の管理はもちろん、ご要望にお応えできるだけの設備が求められもの。その点については、どなたがいらっしゃっても自信をもってご対応できるだけの環境は整っていると自負しています。
おかげさまで会社の業績も少しずつ上向きになってきているところなので、執行役員の立場としては今後会社としてどういう新しい取り組みをするべきかを日々考えながら勤務しているところです。やはり世の中全体は少子高齢化に向かって進んでいるだけに、どうしても売れるものも少なくなっていく。時代の流れにしっかりと目を向けて、環境に配慮した新しい取り組みを考えていかなければなりませんね。
そこで個人的に大切にしたいのは「仲間づくり」の部分。私自身、コロナ禍を経験したことで人との新たな出会いと、そこで見て聞いて学ぶことがいかに尊いことなのかを改めて痛感しました。新たな仲間との出会いをどんどん増やして、そこで得たものをなんとか仕事に落とし込む、もしくは業務提携や協業などにつなげることができればいいなと考えています。
──やはり大事なのは「人」ですか。
難波 そうだと思います。もちろん人がやることがゆえにいい部分もあれば当然悪い部分もある。人間がやることであればつねにヒューマンエラーの可能性は払拭できないわけで、それだけに日頃からそのリスクを想定しておき、緊張感をもって仕事に対応することが大切なんだと思います。弊社では人物力を高めることをテーマにして人材育成に取り組んでいます。
──難波さんご自身の社会人としての経歴はどのようなものでしょうか?
難波 私は鹿屋体育大学の出身で、大学にはもともと体育の教員を志して入学をしました。しかし、教育実習で実際に学校の現場を経験したときに「俺は教員は向いていないかもしれないな」と感じるようになりました。
大学を卒業して実家の岡山県に帰ってきたわけですが、教員以外にはとくに就職の希望はなかった。そんなときに地元の先輩から声をかけてもらって入ったのがJA(農業協同組合)でした。そのJAにはしばらくの期間勤めましたが、真剣に仕事のこと、自分の人生を考え出したときに転職を意識するようになりました。そこで偶然に求人情報を見つけたのが現在の会社です。
はじめこそ労働条件や職場環境に魅力を感じて選んだ会社ですが、長く勤めたいまはこの会社、この仕事ならではの「楽しさ」を感じながら日々勤務しています。仕事としては「パッケージ」という一見特殊な分野になりますが、その商品自体はいろいろな店舗で数多くの手に取っていただけるものです。お客さまが弊社が手がけた箱を手に取ったときに感じるであろうさまざまな思いを想像しながら、宝物を手にしたときのような「ワクワク感」をお届けできたら、というのが私の仕事に対するモチベーションとなっています。
──お仕事も充実しているようですね。少し答えづらい質問かもしれませんが、難波さんは右手の手首から先を失われています。それはいつ、どのような経緯で失ったものなのでしょうか?
難波 これは30歳のとき、会社に入社してすぐ印刷部門で働いていたときに失ったものです。入社してまだ4カ月ということもあって作業に慣れていないことも災いしたのかもしれませんが、作業中に印刷機のローラーに巻き込まれてしまったんです。当然出血は激しかったのですが、近くで働いていた同僚にすばやく止血をしてもらって、救急車ですぐさま病院へと搬送してもらいました。現場はやはり凄惨な状態ではありましたが、私自身は事故から病院まではとくに意識を失うこともなく、病院で麻酔を打たれて眠るまでの記憶はいまでもはっきりと残っています。
その後の入院期間は3カ月ほどでした。実は手首は一度はくっついたのですが、やはりどこかの段階で菌が入ってしまったようでした。何度か抗生物質の投与も試みましたがそれもいよいよ限度量を迎えて、手首から先についてはあきらめざるを得ないと。
私自身はもうこの手のことは受け入れていますし、人にお話することにもなんのためらいもありませんが、振り返って一番辛かったのはやはり手をあきらめなければならないと判断したあの頃ですね。自分の手がミイラのように萎れていく過程を眺めて過ごす日々は苦しいもので、正直自殺すら考えたこともあります。
──それも当然と思えるほどの壮絶な体験です。
難波 私がなんとしても右手を守りたかった一番の理由は、世間体とか日常生活の不便を考えてのことではないんです。当時私は少年指導に携わっていて、子どもたちを育てる楽しさを生きがいにしていた時期でした。自分一人で剣道をやるぶんには左片手上段に構えればいいのでしょうが、少年指導をするにはどうしても中段である必要がありますし、右手がなければ子どもたちに小手を打たせてあげられない。だからなんとしても右手だけは守りたかったんです。
絶望からの生還。
世界初、剣道用の義手が希望となった
──難波さんが現在どのように剣道に取り組まれているかをお聞きする前に、いまに至る剣道歴からうかがいたいと思います。
難波 剣道は小学2年生からはじめました。入門したのは高松剣道スポーツ少年団(岡山宗治道場)。もともと私はソフトボールがやりたかったのですが、地域の少年団には小学3年生からしか入会できず、それならばまずは2年生から入れる剣道でもやろうかと。ちょうど近所に住んでいたのが、この剣縁の会員でカリスマ現代文講師として有名な藤井健志さん(藤井健志事務所)。4つ上のお兄さんである藤井さんのことを私は「健志くん」と呼んで慕っていたのですが、その健志くんが高松剣道スポーツ少年団(岡山宗治道場)に通っていたことも、剣道を選んだ理由のひとつですね。
とは言え、私自身はもともとソフトボール志望だったこともあって、あまり熱心な会員ではなかったですね。最初は稽古にもあまり行かずに「サボりの難波」で有名でした(笑)。
剣道に身が入るようになったのは小学4年生のとき。吉備津神社で奉納大会があったのですが、たまたまそこで私はレギュラーに選ばれたんです。試合は結局負けてしまいましたが、それが代表決定戦にまでもつれる接戦だったんです。その惜敗が私は悔しくて、そこからは以前よりは熱心に道場に通うようになりました。
その後、中学校は地元の学校に入学してそこでは剣道部に入部しましたが、実は当時の私は本当は陸上部に入りたかったんです。その頃にテレビで見た箱根駅伝に感銘を受けて、「俺も箱根の山を走りたい!」と。とくに順天堂大学に強い憧れの気持ちがあって、いずれは順天堂の選手として箱根駅伝に出場することが私の大きな目標となっていたんです。しかし、地元の中学校には陸上部がなかったために仕方なく剣道部へ。私の箱根駅伝への夢は高校時代に持ち越されることになりました。
──それでは高校では陸上部に?
難波 そうですね。公立の総社南高校に入学して、そこでやっと念願の陸上部に入部することができました。事前にあまり陸上部の情報を得ないままでしたが、入部してみると監督の先生は日本体育大学出身の専門的な指導者の方でした。しかし、指導者の先生が有名な方だっただけに、周りの部員はその先生を慕って入学してきたような陸上経験のある選手ばかりだったんです。そんな環境のなかでは僕のような素人はやはり相手にされることもなく、さらに当時の体育会ならではの先輩からの理不尽な暴力などもあって、そこで箱根駅伝の夢はあきらめることとなりました。陸上部にはすぐに退部届けを出して、そこから剣道部へと転部したんです。
──高校剣道部はどのような環境でしたか?
難波 同じ道場出身の先輩もいましたし決して弱い部活ではなかったのですが、かといって強豪校とは言えない環境でしたね。監督の先生は東京教育大学(現筑波大学)出身の専門的な指導者の方でしたが、稽古がとくに厳しいこともなく、先生も先輩たちも優しかった印象が強いです。
インターハイ予選が6月に開催されますが、私の高校のレベルでは3年生はそこで引退を迎えます。ありがたいことに私はその時点からレギュラーとして起用していただけて、そこからはまた剣道熱が再燃しました。翌年2年生主体の新チームになるとキャプテンも任されるようになって、ここで私は高校時代にはなんらかの戦績を残したいと考えるようになりました。さすがにインターハイには現実的に考えて手は届かないけれど、せめて中国大会の個人戦には出場したい。そんな目標を立てて稽古に励んで、結果的にはどうにかその目標は達成することができました。
──努力が実を結んだすばらしい戦績だと思います。その後に進学した鹿屋体育大は剣道の名門校ですね。
難波 いまでこそ日本一にも輝く強豪ですが、当時はまだ黎明期。全国トップクラスの戦績を持つ先輩もおられましたが、私たちの代以降からさらに増えてきたように思います。
私自身は現役の受験では失敗してしまって、一年浪人して鹿屋体育大に入ったんです。初回に受験したとき、アップがてらの稽古の時間に宮崎県の国体選手だった受験生と稽古をしたのですが、ここで大きな衝撃を受けました。私が面を打とうとするとそこに彼の小手面が何度も打ち込まれるんです。その竹刀さばきが私にとってはあまりにも早くて、目に見えないほどでした。私自身、子どもの頃こそ遠征などでいわゆる「全国レベル」を体験する機会はありましたが、お話したように中学、高校は全国大会とは縁のない部活動で過ごしました。それだけに、この受験の稽古で感じた衝撃は大きく、もう入学する前の時点から「自分が試合に出よう」とか、そんなことは考えもしませんでした。むしろこんな強い選手たちと日々稽古ができるなら、自分も少しくらいはレベルアップできるかなと、そんな期待のほうが大きかったですね。
実際に入部してみれば稽古はやはり厳しかったですし、技術レベル的にもやはり私は低い位置にいましたからずいぶん悔しい思いもしました。しかし、それでも当時を振り返ればなかなか経験できない貴重な時間を過ごせたと思います。
学生時代を都会で過ごすのもきっと楽しいのでしょうが、子どもの頃に返ったみたいに川で遊んだり海で遊んだりできたのは田舎ならではの贅沢な体験。剣道でも、稽古でのがんばりを評価していただいて、レギュラー陣が出場しない鹿児島のローカル大会には出させてもらって、そこで改めて試合で勝つ喜びも味わうことができた。いまでも交流が続く、大切な仲間たちとの出会いも含めて、私の人生にとってはとても重要な時期でした。
──岡山に戻られてから剣道は?
難波 JAに勤務してすぐの頃は剣道からは離れていました。一度、高校の先輩に声をかけてもらって再開したのですが、そこでいきなり全力を出したらアキレス腱を切ってしまって(苦笑)。その後はまた3、4年ほど剣道からは離れていましたが、職場からの帰り道にたまたま岡山武徳館という道場を見つけたことがきっかけで、その道場で再開することになったんです。岡山武徳館で少年指導に携わらせていただいたことで、私自身は新たな生きがいを見つけることができた。その点は本当に感謝してもしきれないほどですが、結局、その後は道場の代表の方との意見の相違から団体を離れることになり、私を慕ってくれる数人の子どもたちを連れて独立。至心剣志会という団体を立ち上げて活動をするようになりました。
いま現在は至心剣志会にはもう子どもたちもいないので、とくに団体として活動することはほとんどありません。現在の私の稽古となると、個人的なつながりがある方々とやるのがほとんど。先輩や友人、交流のある子どもたちなど、その時々に連絡をくれる人たちといっしょに週に2回くらいのペースで稽古に取り組んでいます。
──30歳で右手を怪我されたときというのは?
難波 ちょうど岡山武徳館で指導していた時期ですね。右手を失って絶望していたのですが、そんなときに救いの手を差し伸べてくれたのが川崎医科大学の医師の先生。それまで世のなかには剣道用の義手というものは存在しなかったのですが、先生はそれをつくるための支援をしてくださったんです。「生きていても仕方ない」と思っていた私にとってそれは大きな生きる希望となりました。
以降は義手屋さんにいろいろと相談して、試作品を何度もつくってもらってついに「コレ」と思うものができあがりました。もちろん本当の手のようには竹刀操作することはできませんし、やはり連続技などはなかなか打てなくはなりましたが、そのぶん一本に賭ける思いは強くなった気がしますね。
──難波さんの剣道にかける思いの強さには驚かされるばかりです。
難波 いえ、これは私一人ではどうにもならなかったことです。家族はもちろん、当時の岡山武徳館の仲間や剣道関係の仲間たち、医師の先生の協力や職場の人たちの支えがあったからこそ。皆さんに支えていただくことができたから、私はいまこうして生きていられるんです。
──それでは最後に、お仕事と剣道それぞれの今後の展望などを聞かせていただければ。
難波 今回こうしてインタビューを受けさせていただき、この記事を読んでくださった皆さんに「剣道をやっているヤツがこんな会社に勤めているんだ」と知っていただくことができた。そんな皆さんのなかで、もしなにか私や弊社の事業に少しでも興味をお持ちの方がいらっしゃればそこは気軽にお問い合わせいただければと思います。弊社のメイン事業であるパッケージ関係のことはもちろん、なにか新しい事業のご相談でも構いません。現在弊社では関西圏での仕事が多いのですが、オフィスは東京にもあるので、地域の制限などは気にすることなくどうかご相談をいただければ。もし私と弊社になにかできることがあるならば、全国各地の皆さまのお役に立ちたいと思っています。
剣道の面においては、近年の剣道人口の減少にはやはり思うところがありますね。どのスポーツにも言えることですが、強くなろうと思えば努力は必要で、とくに剣道の場合は精神的成長の部分でもそれが求められる。これがとても難しいことだけに、どうしても挫折してしまう子が多いわけですが、なんとかそれを食い止められないかとずっと考えていたんです。そこでふと私が思いついたのが、防具を担いでの全国行脚でした。私のようなおじさんで、しかも片手というハンデを背負う者が健常者の方々と混じって剣道をする。これが試合だったら健常者の方には手も足も出ないかもしれませんが、剣道には地稽古があります。地稽古であれば、そこでもし十本打たれたって一本くらいは打つことはできるかもしれない。そんな姿をもし全国の子どもたちに見せることができたら、なにかしらの勇気を与えられるんじゃないかと考えたんです。もちろん私には大事な仕事がありますから、これはそう簡単に実現できることではありません。全国行脚はあくまで壮大な夢ではありますが、実際にコロナ禍も明けて以降は出稽古に行ったり、学生時代を過ごした鹿児島で大会に出たりと少しずつ活動を広げ、新たな人との出会いを求めているんです。
仕事でも剣道でも、私が大切にするのは人とのつながり。私の創設した至心剣志会の手ぬぐいに「縁」という文字を染め抜いているのもそんな理由からなんです。仕事であれ剣道であれ、やはり人との「縁」があってこそ充実するものだと考えています。
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