クレーンなどの重機を用いて多くの大型工事を手がけ、
原子力関連の安全補強工事、
東日本大震災発生以降には
福島第一原子力発電所関連の復興・復旧作業などの
重要なプロジェクトに取り組む松村重機建設株式会社。
代表取締役を務める松村芳紀さんは、
かつて高校時代には国民体育大会で徳島県チームの大将を務め、
地元開催の国体少年の部で決勝まで勝ち上がった経歴を誇ります。
剣道の強豪選手だった松村さんが、
どのような経緯をたどって
大手総合建設企業を経営するまでに至ったのか。
その歩みを追いました。
プロフィール
松村芳紀(まつむら・よしき)
1976年1月14日徳島県生まれ。小松島高校(徳島)から明治大学理工学部建築学科に進学。大学卒業後、大手総合建設会社・鹿島建設株式会社での勤務を経て、30歳のときに生家が営む松村重機建設株式会社に入社、代表取締役を務めている。剣道は小学2年生から、父の手ほどきによってはじめた。1993年に地元徳島で開催された国体(少年男子の部)で2位入賞。その他の実績にはインターハイ個人戦出場、全国高校選抜大会出場、四国大会団体戦3位などがある。
松村重機建設株式会社
https://www.mazmura.co.jp/
日本一の建設会社での経験を活かし、
飛躍的な成長を遂げた

――― 徳島県徳島市に本社を構える総合建設企業・松村重機建設株式会社。その代表取締役を務める松村芳紀さんにお話をうかがいます。まずは松村さんから、そのおおまかな事業内容などをお話いただければと思います。
松村 もともとは1991年に私の父がクレーン車一台ではじめたクレーンリース業の会社でした。そんな父の背中を見て育ってきた私が30歳のときにその会社を継いだんです。現在の事業は大きなくくりで言えば「建設業」ではあるのですが、クレーンや重機をメインに用いており、それら重量物、そして一般貨物の運搬までも担います。この世に存在する一番小さなクレーンから一番大きなクレーンまで扱っていますので、一般の住宅工事から、大きな工事では原子力発電所、大型プラント、学校施設、医療施設諸々まで幅広く手がけています。
――― 非常に大きな規模の工事をたくさん手がけていらっしゃるんですね。
松村 同規模の企業でいうと県内でも5社くらいはありますが、弊社のように原子力発電所に対応できたり国家プロジェクトを追いかけている企業はやはりそうはないですね。
――― 松村さんが代表取締役に就任されて以降の成長ぶりが目覚ましいです。ご自身がおっしゃるように、原子力発電所の対応となると素人ながらも専門的で特殊な技術が必要となるイメージがあります。
松村 私に代替わりをしてからは、請け負う工事の規模は10倍くらいになったかと思います。私自身はもう中学生時代にから「父の会社を継ぐ」ということを決意していて、大学もその道の専門知識を学ぶために明治大学理工学部建築学科へと進学しました。30歳になったら実家に戻って会社を継ぐことを決めていましたから、それまでの時間は業界内の人脈づくりであったり知識を得ることに費やそうと考えていたんです。「学ぶのであれば日本一に会社に入りたい」という思いがあったので、目指したのは鹿島建設株式会社一社のみ。昔もいまも最先端の技術を誇る鹿島建設で多くのことを学ばせていただいたのち、徳島へと戻ってきました。いまの私とこの会社があるのは鹿島建設時代の経験があるからこそで、それがすべてと言っても過言ではありません。とくに原子力施設や超高層マンション建築を経験できたことが私にとっては大きくて、いま原子力発電所の工事に携わっているのも鹿島建設時代に私自身が手がけていた経験とつながりがあるから。ご想像のとおり、原子力発電所となれば放射能がからんできますのでしっかりとした専門知識と理解がなければ携わるはできません。知識を理解するのはもちろんこと、さらに「覚悟」も決まっていなければ携わることのできない仕事とも言えるでしょうか。
2011年3月11日、東日本大震災の際には福島第一原子力発電所が地震と津波によって大きな損傷を受けました。弊社では震災以降、東北地方に寄り添って、現在でもその復興・復旧作業に勤しんでいます。原子炉建屋の爆発直後に鹿島建設の方からご連絡をいただいたときには、まだ弊社にもそこまでの大型機械に乗れる人材がいなかったものですから「いますぐは行けない。しかし、準備は整えます」とお答えして、いよいよ出番を迎えたのが震災から3年後のこと。原発の1号機から4号機までの周囲2.5kmを凍結する、という判断の決定を鹿島建設さんからご連絡いただいたときには「すぐにうかがう」と即答させていただきました。当時、日本全国の同業他社にも声がかかったようですが、どこも手を挙げなかったと聞いています。しかし、私たちはすでにいつでも動けるような体制と気持ちが整っていたので、迷うことすらありませんでしたね。10台ほどの機械と10人ほどのオペレーターを福島へと派遣し、そのお付き合いはいま現在でも続いています。

――― 松村さんは会社に大きな変革をもたらしたわけですが、会社を継いでまずどのようなところから改革に取り組んだのでしょうか?
松村 代表取締役に就任するにあたっては「3年以内に県内企業でもナンバーワンにする」という目標を掲げていました。私自身はいつも「3ヶ月」あるいは「3年」というように、つねに「3」という数字をひとつの区切りとしてスケジュールを考えているんです。帰郷してまずは「3年」をひとつの節目として考えていろいろと整備を進めて、3年目に古巣の鹿島建設さんに営業に行かせていただき、それ以降鹿島建設さんから大規模なお仕事をいただくようになりました。
そこに至るまでに私が取り組んだことと言えば、社員の礼儀や身だしなみ、言葉づかいの徹底などでしょうか。地方の建設会社となれば、やはり金髪頭にピアスを開けて、首にはタオル、腕まくりという姿が容易に想像がつくかと思います。仕事柄、と言ってしまえばそれまでですが、私はまず服装から言葉づかいから社員を新たに教育し直していった。その結果当時20人以上いたメンバーの10人以上がやめてしまいました。そこからまた社員を募集して、新たに入社していただくまではだいぶ時間がかかりましたが、それでも私はそこに妥協する気はありませんでした。剣道でも同様ですがまずは礼儀が大事。礼儀がなっていなければもうはじめの段階でお仕事をいただくことすらできません。
私自身が理想として描いているのが、たとえトラックに乗っているとしても、カッターシャツにネクタイを結んだ凛々しく清潔な姿で運転席に座っているというイメージなんです。むろん作業の都合上、実際にはそんな格好で働くことはできませんし、個人的には「建設業ならでは」の雰囲気には好ましい印象も抱いているんです。しかし、一般的にはただでさえ荒っぽいイメージが強いのが建設業界。そんな業界において、とてもクリーンでスマートな働き方ができていたならば、「そのギャップってむっちゃカッコいいやん!」と私は感じたんです(笑)。我々の仕事は人々の生活を支えるとても重要な仕事だと自負していますから、その誇りを従業員のみんなにもつねに持っていて欲しいという願いも込めて、業態のホワイトカラー化に力を注ぎました。
――― おっしゃるように、力強くたくましい方々がさらに紳士的であれば、それはもう「むっちゃカッコいい」です(笑)。しかし、人材確保はどの業界でも大きな課題と耳にします。新たな人材はどこから、どのように?
松村 徳島県内からはすでに「松村重機建設は厳しい」という目で見られるようになってしまったので、主に県外からどんどん徳島に来ていただくという流れで人材を集めました。となれば寮を構える必要も出てきますから、そういった部分での整備に手間がかかりましたね。で、これは私自身も意外だったのですが、一度ウチを辞めたメンバーですが、しばらく経つと戻ってくるんです。やはりヨソで働いていると、イヤでも古巣の松村重機建設が徳島の主要工事、大型工事を手がけている姿が目に入るので「うらやましいな……」と思うようなんです。過去には3回戻ってきたツワモノもいるのですが、一度辞めてもまた働きたいと思ってもらえることについては、私にとってはどこかうれしい気持ちもありますね。
現状の大きな課題としては働き手の高齢化が挙げられますが、幸いなことにそこもまたいい兆しが見えてきています。現在働いてくれている40代中盤から50代くらいの社員さんたちが「自分の息子も働かせてくれませんか?」と言ってくれる例が近年増えてきているんです。親の紹介で集まってきた若手の子たちが職場を気に入ってくれれば、また同世代の新しい働き手を呼んで来てくれる。そんないい循環が、まさにいまできつつあるように感じます。
――― 社員教育のお話からも感じられたことですが、とくに礼儀を重んじる部分からも松村さんの根底にはやはり剣道の精神が流れているようですね。現在、剣道の道場も運営されているとか?
松村 そうなんです。私自身はもう大学卒業以降は剣道から離れてしまっているのですが、剣道を通した関わりをなくしたくはなかった。そこで10年ほど前、本社2階を道場に改装して、私の父(和宏さん・教士七段)を道場長に「松紀和会道場」という創設して、週に3回ほどのペースで活動しています。この道場で少年剣士を育成することで、その少年たちが将来的には馴染みのあるウチの会社を就職先として選んでもらえたらうれしいですし、もしほかの企業に勤めるにしてもその企業からお仕事の依頼をいただけることもあるかもしれない。そういったご縁も大事にしながら、剣道との関わりは今後も継続させていきたいですね。
また、この道場はただの剣道場ではなく、地域の方々の避難所としての役割りも担っているんです。やはり私のなかでは東日本大震災から受ける影響は大きくて、ああいう大きな震災があったときに地域の方が集まって避難できるような場所が絶対に必要だと感じたんです。ですから徳島市と防災協定を結び、もしなにかあった際にはこの道場は地域の方々が寝泊まりできる避難施設に早変わり。食料などの支援物資もこの場に届くように手配されているんです。

地元国体に燃えた剣道人生
大接戦の大将戦を戦い抜いた

――― 松村さんご自身の剣道のお話もぜひ聞かせてください。明大剣道部卒業以降は離れてしまっているとのことですが、そもそも剣道はいつからはじめたんでしょうか?
松村 小学2年生からです。父親が剣道の指導者だったことがやはり大きな要因ですね。しかし当時は、日本ではジャッキー・チェンが大人気でしたから、私もジャッキーに憧れて少林寺拳法でもやりたいなと思っていたのが本音。自分でも気づかぬうちに父親にいいようにコントロールされていたようで、自然と竹刀を握らされていました(笑)。そのような経緯ではじめただけあって、当初はたとえ試合で負けてもなにも悔しくもなかった。何度大会に出てもすぐに負けて帰るので、準備していったお弁当を会場で食べる機会がほとんどなかったくらいでした。
そんな生活に大きな変化があったのは小学5年生のとき。父の教えは基本重視の内容をただただ繰り返すもので「まっすぐ打っていればいずれそれが当たるようになる」というものでした。子どもながらにその教えが身についてきていたのでしょうか、小学5年生のときにたまたま出場した県大会で優勝することができたんです。勝つ喜びを知ると今度は負ける悔しさも分かるようになり、そこから自然と剣道への熱が高まったように思います。当時は私が高校3年生になるタイミングで地元・徳島で国体が開催されることが決定していたのですが、ちょうど小学5年生のとき、そこに向けた強化選手のメンバーが発表されて、そのなかに私の名前も連ねられていたんです。地元国体となれば県をあげての一大イベントですから、私自身も「国体で優勝してみたい」と思うようになった。それが私の本格的な剣道人生のスタートだったように思います。
中学校は地元の学校に進みましたが、国体に向けた強化はさらに熱を帯びたものになり、毎週末となれば県の国体強化チームで遠征に出かけていた記憶がありますね。重要な高校選びは2校あった強化指定校のひとつである小松島高校へと進み、ここで生涯の恩師となる福多雅英先生にご指導をいただくことになります。
――― 福多選手と言えば第31回全日本選手権大会(1983年)で3位入賞を果たしている上段の名手ですね。
松村 福多先生のご指導は技術面よりも精神面に重きを置いたものでした。当時から毎日剣道ノートを書くことを課され、自分の反省点や課題を書き連ねていましたね。先生にいつも言われていたのは「徳島のチームが勝てないのはお前のせいだ。お前が大将を務めるのであれば絶対的な強さがなければならない。そうでなければ前の選手が思い切って試合することができない」ということでした。先生もまた地元国体に賭ける思いは強かったようで、「絶対に勝てるだけの努力をしなさい。剣道に賭けた高校生活をしなさい」と言われたことを記憶しています。
――― チームの大将としての活躍が期待されていたのですね。
松村 当時の徳島は女子のレベルこそ高かったけれど、男子においてはなかなか全国大会の上位で活躍するようなチャンスには恵まれていませんでした。事実、我々が全国レベルの錬成会に行ってもボロボロに負けて帰ってくるのが毎回のこと。それでも福多先生のご縁から、育英高校(兵庫)、西大寺高校(岡山)といった全国上位レベルの強豪校に何度も何度も練習試合をお願いし続けました。
――― いざ本番の徳島国体はいかがでしたか?
松村 緒戦となったのは2回戦で、そこでは石川県と対戦。続く3回戦(準々決勝)では福岡県、準決勝では鹿児島県と対戦しましたが、そのすべての試合が大将戦の末に勝利でした。決勝戦の佐賀県との戦いもまた大将戦までもつれましたが、私もさすがにここで力尽きてしまい、チームは決勝で敗れてしまいました。周囲からは「少年男子は1回勝つのも難しいのではないか」と予想されていたなかで決勝まで勝ち上がれたことには大きな喜びを感じましたが、大将戦の末に敗れたとなればやはりその点には悔しさも残りますね。

――― そのあと大学は名門・明大に進学。体育会剣道部にも所属されるわけですね。
松村 はい、しかし私にとって大学は、実家の会社を継ぐため、鹿島建設に入社するために進学した場所という意味合いが大きかった。当時剣道部の練習は駿河台キャンパスで行なわれていたのですが、私が学んでいた理工学部はそこから離れた生田キャンパスだったんです。ですから講義を五限まで受けてから移動すると、練習時間は残り30分程度しかない。それでもなんとか部活動に参加し続けはしましたが、講義を優先すればどうしても練習には週に3回程度しか参加できないような状況に変わりはありませんでした。決定的な出来事となったのが2年時の新人戦の部内予選で、そこで私はアキレス腱を切ってしまった。大学の大会で活躍するという展望は、私のなかではその時点で実質終了したように思います。可能な限り部活動には参加し続けましたが、残りの学生生活のほとんどは理工学部での勉強に情熱を注ぎました。
部活動としては不完全燃焼ではあったものの、大学剣道部の仲間たちとはいまだに交流はあって、年に一回はみんなで集まる機会がありますし、同期の仲間たちがウチの会社の道場に足を運んでくれて稽古もしてくれたんです。いまとなれば大学の同期や後輩たちが八段にまで合格しているニュースを聞くこともあり、そうなるとやはり「やっておけばよかったな」と思うことはありますね。たとえば彼らに並ぼうといまから昇段審査にチャレンジをしたとしても、圧倒的に人生の残り時間が足りない(笑)。これはこれでやはり悔しい思いは感じるものです。今後仕事がもっと安定して、なにかきっかけさえあればまた練習はしてみたいですね。でもきっとそのときはまるで初心者状態で、おそらく切り返しだけでも息が続かないことでしょう(笑)。
――― 松村さんの剣道への復帰を楽しみにしています。それでは最後に、お仕事についての今後の展望をお聞かせいただければと思います。
松村 いまだに日本全国は多くの震災の脅威にさらされているのが現状です。7月に発生した熊本地震のときにもまた鹿島建設さんからの指示を受けて支援物資をすぐさま現地へと運びました。残念なことですが、今後も日本全国のどこかで震災が起きることは避けては通れないことだと思います。だからこそ、もしこれから日本のどこかで震災が起きたときには、松村重機建設はいち早く、一番必要なものを届けられるような、初動の早い会社でありたいという思いがあります。日本という国を支えていくためには、まず会社自体が「強い」ものでなくてはなりません。弊社としては復興事業や原子力安全対策工事、インフラ整備などをハードととらえ、その一方で剣道を通じて青少年を育成する人づくりをソフトと定義し、そのハードとソフトの両面から人と国とを強くすることに貢献していきたいと考えています。



































