埼玉県朝霞市に店舗を構える剣道具店・福田武道具は、初心者から高段者まで幅広い剣道家に愛される名店のひとつ。同店オリジナルの「霞流剣道具」は、多くの現役トップクラスの選手たちも愛用する高い機能性を誇る人気商品となっています。
福田武道具の創設者であり、代表取締役を務めるのは福田一成さん。なんと言っても注目したいのはその経歴で、かつて警視庁の剣道特別訓練員として剣道を専門的に学んだ貴重な経験を持ちます。福田さんの仕事の流儀、そして剣道に賭けた情熱の日々振り返っていただきました。
プロフィール
福田一成(ふくだ・かずなり) 1950年1月27日東京都生まれ。早稲田実業高校(東京)を卒業後、警視庁に奉職する。剣道特練員としての活動を経験し、30歳のときに退職。縁ある剣道具店での修行期間を経て、1980年に福田武道具を設立する。
剣道は中学時代の部活動からはじめ、そこで生涯の師となる松井貞志範士(八段)に師事する。自身の主な実績には社会人となってからは全日本都道府県対抗優勝大会出場、国体(成年の部)出場、高校時代にはインターハイ団体戦出場、国体(少年の部)ベスト8、関東大会出場などがある。剣道教士七段
株式会社福田武道具
https://www.f-budogu.jp/
異色の転身、剣道特練員から剣道具店経営者へ。
無店舗、車の行商から始まる

平成11年土地の土地購入・社屋完成以来、この場所で営業を続けてきた
── 株式会社福田武道具の代表取締役を務める福田一成さん。もうずいぶん長くお店を経営されていますね
創業は昭和55年で、今年で創業45周年になります。長く商売を続けていればやはり紆余曲折はあって、近年ではとくにコロナ禍は厳しいものがありました。赤字続きだったコロナ禍の厳しい状況下でも、無借金経営を貫き、コツコツと積み上げてきた預金を切り崩しながら何とか乗り越えることができました。その甲斐あってコロナ後の売り上げは、ここ数年伸びております。社長である私は最近いつも社長室で昼寝をしているだけ(笑)。それでも売り上げが伸びたということは、スタッフのみんなががんばってくれたということですね。もともとは私が一人ではじめた会社ですが、今では従業員が全員で13人。いろいろと仕事を任せることができる人材が増えてくれたことは、私にとっても幸運なことでしたし、いらっしゃるお客さまが「アットホームな雰囲気がいい」と言ってくださるのでありがたいです。
もともと警視庁の警察官だった私は、警察を辞めたあとに知り合いであった剣道具店で基本を学び、そこから独立しました。最初はたった一人、エアコンもついていない自家用車で行商のようなかたちで事業をスタートさせたんです。その後は営業マンをやっていた弟にも手伝ってもらうようになって、この埼玉県朝霞市にテナントを借りて店舗営業をはじめた。当時、それなりにお客さまにも来てもらえるようになったところで、売り出されていたのがこのビルです。そこで思い切って自社ビルを購入したのが平成11年のことで、以来、ずっとこの場所で営業を続けています。
── 失礼ですが福田さんは現在はおいくつになられましたか?
75歳です。気持ちは若いつもりですが、ケガや病気で体はもうボロボロ。剣道も、本格的な稽古なんてもう20年はやっていません。若いときに腰を故障して、そのあとには首や肩も傷め、足も前十字靭帯がもう半分ない状態。白内障も3回やりましたし、49歳のときには胃がんで大手術も受けています。本当にケガと病気だらけですけど、それでもそれをどうにか仕事に活かしてきましたね。
いまウチではオリジナルのサポーター類が充実していますが、これは自分のケガの経験から生まれたもの。たとえば「アキレス腱保護サポーターEX」(特許出願中)はアキレス腱とふくらはぎを保護するための商品ですが、アキレス腱を守るためにはアキレス腱だけを保護してもダメなんです。足底から踵骨、膝下部分全体をサポートすることでアキレス腱への負担を軽減することができる。この商品はそれを実現させたもので、私が狙ったターゲットとしては剣道以外のスポーツ愛好家の方。テニスやバレーボール、ジョギングなどを楽しまれている方々にも使ってもらいたい商品として開発して、実際にそんな方々からも好評をいただいています。

剣道愛あふれる丁寧な接客は、福田武道具が常連客から愛される要素のひとつ。
フレンドリーな接客、親身になることを心掛けている

剣道経験のない他のスポーツ愛好家にも人気だという。ヨドバシカメラ通販でも販売されている
── 福田武道具の名を世に広めた人気商品「霞流剣道具」もそうですが、つねに新しいアイディア商品を世に送り出し続けていますね
昭和の時代といまとでは取り扱う防具自体がもう全然違います。剣道をやっている方ならば皆さんご存知でしょうが、防具自体の重さも価格もいまではずいぶん軽くて安くなりました。かつては防具はみな高額でそれがボンボン売れた時代もありますが、いまは剣道人口も減りましたし、世の中全体が少子化傾向にあります。そんな状況のなかで安い商品でどうにか売り上げを立てないといけない。となれば、つねに新しいことを考えていかなければいけませんし、「剣道」という枠だけにとらわれてはいけない。とくにこの業界ではいまやメーカーさんが小売りもする時代になってきましたから、ただ小売りを続けているだけでは小売り店は絶対に負けてしまいます。ウチも海外の提携工場から直に商品を入れるようにもなりましたし、もう昔ながらの剣道具屋さんのスタイルでの営業はこれからは厳しいでしょうね。
── 近年のヒット商品などもぜひ紹介してください
防具で言えば昨年から発売している特許取得の「霞流くの字甲手」でしょうか。これはもともと警察の剣道特練員のお客さまからの「手首を返したときに手首部分に甲手布団が当たる」という悩みをうかがって開発したもの。「超実践型」と銘打っていることもあって、親指付け根部分に工夫を凝らすことで竹刀が握りやすくなっていますし、手首の可動域が広くなっているので竹刀操作もしやすい。海外製なので価格もお手頃に抑えましたから、これはヒットしましたね。手首部分の工夫には苦労をして、完成に至るまでには5、6年ほどかかりました。実は私自身はまだ満足していない部分もあるのですが、とりあえずはスタッフ、お客さまからの評判がいいので、そこはひと安心です(笑)。
── 福田さんのビジネスへの取り組み方やアイディアなどの発想は、ご自身がもともとお持ちの資質なのでしょうか?
いえいえ、私はもともとが警察官ですから、最初はそんな知識も発想もありません。影響を受けたのは船井総合研究所の創業者である船井幸雄さんです。ある日、船井さんのセミナーに参加して、そこから大きく変わりましたね。アイディアは、街を歩けばそこかしかに落ちているものです。たとえば大手家電量販店に行って、どのような商品がどのような売り方をされているのかをじっくりと見てみると、そこには隠されたアイディアが見えてくる。若い社員たちにもよく「外を歩いてアイディアを拾ってきなさい」と言うのですが、私自身も休日にちょっと買い物に出るだけでも自然とアイディアを探している自分に気がつきます。

手首部分の可動域に独自の工夫を施した「超実践型」のアイテムだ

日本最高峰の環境で過ごしたおよそ3年の期間。
警察退職後は自ら稽古を強く求めた

機動隊所属時に試合で好結果を収め、それが評価されて剣道特別訓練員の道を歩むことに
── 福田さんの剣道歴も非常に興味深いです。もともとのご出身はどちらになりますか?
私は東京の出身で、池袋で育ちました。剣道は中学校の部活動ではじめたのですが、きっかけは父親が剣道をやっていたからですね。父親から勧められて入部してみると、そこに指導者としておられたのは武専(大日本武徳会武道専門学校)で学ばれた松井貞志先生(範士八段)でした。私にとって松井先生との出会いは幸運のひと言。松井先生の教えこそが自分の剣道と人生の基礎となっていますし、先生なくしていまの自分はいないと感じています。とはいえ、練習はもうツラかったですね(笑)。いまではあり得ないような激しいかかり稽古で何度も倒され、さらに当時は水も飲ませてもらえないような環境でしたから。それでも、そのおかげで部員はメキメキと実力をつけて、その中学校自体が東京では強豪校として有名でしたし、私自身も中学2年、3年の間に都大会では4回くらい優勝することができました。
高校は松井先生からの勧めで、早稲田実業高校(東京)に進学しました。当時の早実もまた強くて、関東大会、インターハイにも毎年出場していましたし、関東でも指折りの強豪校でした。私の高校時代の戦績でいえば、インターハイに団体での出場したのと、国体に出場した経験があります。そんな実績もあって、大学からもいくつかの推薦の話はあったのですが、家庭が裕福ではないという事情もあって大学進学は断念。そこで顧問の先生に勧められたのが警視庁への就職だったんです。奉職してすぐに機動隊に配属されたのですが、そこで開催された剣道の試合でたまたま私が一番になった。当時、そこで1位、2位に入賞すると剣道特練に入るのが慣例となっていて、そこから特練員としての生活がはじまりました。
── 警視庁はレベルの高い警察剣道界のなかでも最高峰の環境です。特練員としての生活はどれくらいの期間続いたのですか?
結局は3年弱ほどの期間でしたね。当時、特練員も「生き残り」が厳しくて、特練内の試合で下位になればすぐに特練を希望する人間と入れ替えられていました。だからこそケガをしたって「痛い」とは言えない。もし口にしようものなら「お前の代わりはいくらでもいる」と言ってすぐに代えられてしまいます。私は体が小さいこともあって、稽古で上からガンガンと乗られ続けたことで腰を傷めてしまった。それでもしばらくはガマンして過ごしましたが、最後はやはり激しい痛みには耐え切れず、特練員を降りることになりました。
── そのあとはすぐに剣道具店に?
いえ、上司に勧められるままに試験を受けて刑事になりました。かなり忙しい部署に配属されて大変だったけれど、試験に向けての勉強や警察の学校で学んだ法律の知識などはとても役に立ったし、いい経験だったと思います。それから一般の警察官として勤務しているうちに、ウチの父親が体調を崩してしまったこともあっていよいよ警察にも見切りをつけることになりました。29歳のときに退職して、そこから交流のあった剣道具店さんに業界のことを教えてもらい独立したというわけです。
── 剣道はどう継続していたんですか?
ブランク期間はそんなになくて、特練を辞めてから2、3年くらい離れただけでしたね。その間、稽古をしなかったことでケガの具合が多少快方に向かったんです。だから勤務前には警視庁の朝稽古には参加をしていましたし、警察を辞めたあともしばらくは朝稽古に通わせてもらっていました。
警察を辞めてからは、まずは自分の育った豊島区の連盟に所属をして、そこから会社のある埼玉に移籍してきました。警察を辞めてから、全日本都道府県対抗優勝大会の東京都予選に出てみたらそこでたまたま優勝して、大阪で開催された本大会にも出場したこともありますね。
埼玉に来てからはまずは店の界隈を稽古して歩いて、そこでできたご縁からまた枝葉が広がって、という感じですね。しかしその後はお話したように、ケガや病気がたたってもう50代で完全に引退です。最終的には首を傷めてしまって、お医者さんからは「今度首に負担がかかったら半身不随になる」と宣告されてしまった。人生を取るか剣道を取るかの選択に大いに悩みはしたものの、やはり人生を棒に振るわけにはいきませんでした。


この頃は既に稽古ができない身体で、面は着けずに指導したそう
── ご自身の剣道人生を振り返っていかがでしたか?
ハングリーでしたね。特練にいたときまでは正直なところ「やらされている」感覚があったけれど、それ以降は自ら「やろう」という強い気持ちを持てたような気がします。剣道具店をはじめてからも警視庁の朝稽古に通ってはすぐさま営業回りという日々を送っていましたし、胃がんの手術を1月に受けたその年、5月の京都の八段審査をムリして受けに行って、稽古中に倒れてしまったことも思い出深いです(笑)。結局、八段審査は一次審査を通るところまではいきましたが、仕事と剣道だけでなく、そこにケガまで両立させるのはさすがに厳しかったですね。
── それでは最後に、福田武道具さんの今後の展望を教えてください
今後も変わらず、やはり会社のために働いてくれている社員たちが幸せを得られるように、つねに工夫研究を怠らないようにしていきたいです。これは経営理念としても掲げているのですが、「長所伸展主義」で、「実行なくして成功はない」を念頭に置きつつ働いて、「成功の道をつかむ」と。この精神をぜひ社員たち自身にも持ってもらって、それぞれの成功の道を求めていって欲しいという思いがあります。
今年、創業から45周年でしたが、50周年をむかえるときには私の年齢は80歳。いまも体調に不安はありながらの生活ですが、もしそのときをむかえることができたら今度はなにをしようかなと、そんなアイディアを考えるのがいまは大きな楽しみのひとつです。


次代を担う若きスタッフは福田さんにとって希望の光だ

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