保険業界で成功を収め、現在は金融関係のコンサルタントとしても活動する上田武史さん。
過去の華々しい実績から尋ねられることも多いという「成功のコツ」。
その問いに対する上田さんの回答は「成功の定義にはさまざまあると思いますが、『仕事がうまくいっていること』に絞って言うならば、なにも特別なことはありません。目の前のお客様に喜んでもらえることを妥協なくやること。それだけです」。
自分の信念に従い、まっすぐに突き進んできた上田さんのいままでの歩みを聞いてみれば、その原点にあるのはやはり「剣道」でした。
プロフィール
上田武史(うえだ・たけし)
1967年大阪府生まれ。大商大堺高校(大阪)、京都産業大学出身。大学卒業後には大手銀行に就職。同銀行で10年勤めたタイミングで外資系生命保険会社に転職した。その後自身で保険代理店株式会社Enviceを設立し、年間売上個人で12億円を計上。株式会社オネストビジネスコンサルティングのエグゼクティブパートナー就任。2013年に株式会社マハロコンサルティングを設立し、代表取締役就任。総合保険代理店・ハートリンクコンサルティング株式会社の会長も務め現在に至る。剣道は小学2年生からはじめ、京都産業大学時代は全日本学生優勝大会ベスト8、関西学生優勝大会2位などの戦績を収めている。大学4年時は剣道部主将も務めた。剣道五段
株式会社マハロコンサルティング
ハートリンクコンサルティング株式会社
スタートは銀行員
転職2年目で年収5千万円に到達
──上田さんは現在株式会社マハロコンサルティングの代表取締役、ハートリンクコンサルティング株式会社の会長を務めておられるそうですが、それぞれの主な事業内容とは?
僕が立ち上げたマハロの事業は、相続、事業継承などのコンサルティング、お客様の資産運用アドバイスが中心となります。
ハートリンクというのは僕の後輩が立ち上げた総合保険代理店です。僕自身、現在に至るまでにはかなりの変遷があるのですが、かつて外資系生命保険会社に勤務していたときの後輩が自分の会社を立ち上げ、彼に請われるかたちで会長を引き受けました。そのような経緯でいまでも保険業界に携わっています。
──ご自身のお話にもある、その「変遷」についてうかがえれば。
もともとのスタートは銀行員だったんです。大学を卒業してすぐに就職したのが某大手銀行。僕はそこに10年勤めていましたが、そこで転職を決意しました。
周囲から見たら順調に出世しているように見られていたのでずいぶんと止められましたが、それも振り切って退職しました。幸いにも同期でトップクラスに出世させていただき、当時は部長代理。その頃所属していた兵庫県姫路市の店はのちのち役員になるような方が部長として来られるところ。僕がいたときの部長は東京にお住まいで、単身赴任で姫路に来られていた方でした。銀行ではいわば出世街道に乗っている立場の方ですが、その部長の姿を見ていると、いつもどこか寂しそうで楽しそうには見えなかったんです。
もともと就職してすぐの頃、職場の先輩に「お前の夢はなんや?」と聞かれたときに僕は「頭取になることです」と答えたんです。するとその先輩は「アホちゃう? お前の学歴で、いまこの支店にいるような人間が頭取になんてなれるわけないやん」と。振り返ればその頃から心のなかにひっかかるもの、「やっぱり実力ではなく学歴社会なんだ……」という思いがあったんだと思います。僕としては「本当の実力社会で働きたい」という気持ちがつねにありましたから。
働くにあたっては当然収入も重要なこと。その部長に年収をうかがってみると2千数百万円だと。それでは僕の目指していた頭取、まあ実際のところなれっこありませんでしたが(笑)、最終目標である頭取の年収はというと「たぶん5千万円くらいだ」と言うんです。
当時の有名なプロ野球選手たちは年間何億円というお金を稼いでいた。彼らはもちろんトッププロですが、僕らだって、営業としてはプロの立場。それなのに収入にそんなに差があるなんて「なんかおもしろくないな」って(笑)。
──そこから転職されたのが外資系生命保険会社だったと。
そうなんです。それ以前からヘッドハンティングの連絡はもらっていたんですが、ずっと断っていたんです。でも、僕はそのときの職場での、ベストなパフォーマンスをした時の自分の未来、そうでない場合の自分の未来が見えてしまっていて、自分の将来にワクワク感がなくなっていました。そこで一度他の世界の話も聞いてみようと思い、ヘッドハンティングの話を聞きに行きました。実際に会ってみるとその保険会社の人は──こう言ったら失礼だけれど当時の僕の目から見た印象では、すごく実力のあるビジネスマンという感じではなかったんです。だからその人が一生懸命会社の説明をしてくれるのを遮って「そんな話はいいから、あなたはいくら稼いでいるんですか?」って(笑)。するとその人は間を置くことなく「2億円です」と言う。当然そんな話はすぐには信じられなかったのですが、彼は実際に申告書を見せてくれて、本当にその額を稼いでいたんです。その時に「営業のプロ」として億円プレーヤーになるチャンスがあるんだと感じ、ワクワクしましたね。そのワクワクを止めることが出来ず、銀行にはすぐに「辞める」と言いに行きました。
当時は銀行の社宅に住んでいたのでまずは家を新しく借りて、車も営業ができるように買い換えなくてはならなかった。そのときに口座のお金がほとんど空っぽになりました。
しかも転職して一ヶ月目は研修期間で固定給しかもらえない。前職の収入を考慮した初期手当というものが出ましたが、前職の収入分だけ税金も高い。税金を引いたらもう手元に残るお金はわずかで、これは本当に稼がないとやばいなと思いました。
でもしんどかったのは最初の2ヶ月ほどだけ。本当に天職だったのか、仕事が楽しくて楽しくて。当然そうやって楽しく仕事しているので、契約もかなり多くいただくことができて、3ヶ月目からは収入は4百万円ほどになりました。結果的にその年の収入が3千万円ほどになって、会社の年間優秀営業賞も受賞することになりました。
その評価から次に任されるようになったのはマネージメント。マネージメントの仕事とは自分でヘッドハンティングしてきた人たちでチームをつくり、そのチームの成績が僕の収入になるという仕組みです。その時点で年収は5千万円に到達。転職2年目にして前職のトップクラスの方の収入と並んだと感じて、ようやく収入面として「チャレンジして、銀行を辞めた意味はあったな」と思いましたね。
──多くの人から聞かれていることだと思いますが、それだけ活躍できた理由はどこにあるんでしょうか?
実際のところ保険業界はやはり厳しい世界で、業界に入った多くの人は稼げずに苦労していると思います。でも数%の人だけは多額の収入を得ています。
実は僕自身は全然苦労していないんですよ。そりゃ最初の2ヶ月は苦しかったですが、そのあと稼げた理由はとてもカンタンなこと。「仕事が楽しくて仕方なかったから」です。
当時は保険会社は自分の会社にとって良い商品を販売しがちでしたが、僕らはお客様にとって良い商品を販売していた。そうすると当然提案する人みんなが喜んでくれました。だから人から嫌われることもなく、僕自身もお金のためになにかムリをするようなこともなかったんです。
僕自身の仕事のモットーは「目の前の人が喜ぶことをする」ということなんです。よく保険の世界で成功するためには「紹介しかない」、しかし「紹介をもらうのは大変なこと」なんて言われるんですが、「お客様のために」という気持ちで仕事をするので、お客様が皆さん満足してくれて僕に次から次へと人を紹介してくれました。本当にお客様のお陰だと思っています。
お金を稼ぎたいと僕に相談してくる人によく話すのは「お金は人から集めたありがとうの数だ」ということ。やっぱり王道はお客様の喜ぶ姿を想像し、どうすればその人の、その企業のためになれるかということに専念することだと思っています。
そうしてグループのマネージメントで成功すると今度は組織をまるごと任されるようになりました。80人ほどの部下を抱えるようになって、収入面ではその年に8千万円を稼ぎ、翌年には1億円と一気に駆け上がりました。これも僕のチームのメンバーが優秀だったからだと思っています。
──しかし、その外資系の会社も離れることになるんですね。
マネージャーの仕事に違和感を覚えたんです。というか根っからの営業マンだったのかも知れませんね。自分自身が直接お客様と向き合うこともなく、組織を拡大、まとめているだけで、口座には大きな金額が入ってくる。その現実に「僕はこのままでは人として成長がなくなる」って。
またちょうど同じ頃、職場では辞める部下も増えてきて、話を聞いてみると「一社の保険だけではなく、いろいろな保険会社の選択肢を持つ代理店に行きたい」と。彼らの口から「お客様に対してはいろいろな会社のプランのなかからベストなものを選んで提案したい」という意見を聞いたときに僕は反論することができませんでした。そこで僕自身も一社専属の限界を痛感し、自分もそちらの業界に身を置くことを決めたんです。
2010年に事業継承、相続を中心とした保険代理店を設立して、その2年後には個人での年間売上12億円を計上しました。その翌年にはまたヘッドハンティングをされて保険コンサルティングのエクゼクティブパートナーを経験し、2015年にいまのマハロを立ち上げ、2016年にはハートリンクの会長に就任したんです。
剣道で学んだ「やればできる」。
文武両道をまっとうしてきた
──成功をつかんでもそこで満足せずに走り続けられるパワーがスゴいですね。
僕自身の性格として「現状に満足して成長をしない」というのが合っていないんです。
つねに「もっと知識を身につけ、お客様に喜んでもらう」ということを考えています。
コロナ禍になる前、保険業界ではバレンタインショック、ホワイトデーショックというのがあって、当局から節税保険に対する規制がありました。これをきっかけに僕は一時期は仕事からの引退を考えていたんですよ。それは仕事の量が減ったからとかではなく、税務的に保険の仕事が悪者のような扱いを受けていることに、憤りを感じるのと同時に悲しくなったからなんです。
でも「本当の資産運用」「日本人の多くは本当の資産運用が出来ていない」というキーワードが僕の心に刺さりました。そこから夢中で「本当の資産運用」について勉強をはじめました。「やらなきゃいけない」という気持ちは一切なくて、もう勉強すること自体が楽しかった。コレという目標が見つかると「学びたい」という気持ちが止まらないんです。
そうして資産運用のほうに気合が入ると一時期引退も考えた保険のほうも不思議と気合が入ってきて(笑)。いまはまた両方でがんばろうという気持ちがありますね。
振り返れば僕は昔から何ごとにも目標に向かって走り続けるタイプ。つねに目標がないとダメなタイプなんです。剣道に対してもそういう取り組みをしてきましたし、剣道で学んだ経験があるからこそ社会人としてもやって来ることができた。いちおういまもある程度うまくやれているというか、ご機嫌に生きていられるのも剣道のおかげ。剣道がなかったらいまの自分はないですね。
──現在剣道は?
いまはもう全然です。剣道をやっていたのは銀行員時代までですね。当時は実業団の剣道部もありましたから熱心にやっていました。でも、そのあと最初の転職をしてからはもう仕事が楽しくなって、自然と剣道から遠ざかっていきました。
しかしそれでもありがたいことに母校の京都産業大学剣道部OBの方たちのご尽力でOB会が機能しているので、いまだにご縁を頂いています。周りの仲間たちからはまた剣道をやれと言われるんですが、いま剣道をやったら間違いなくアキレス腱が切れますね(笑)。
──京産大剣道部は伝統校ですが、ちょうど上田さんが在学していた時期は大会でも活躍していたんじゃないですか?
そうですね、関西のなかでは強かったですね。大阪体育大学はいまも強いですが当時もかなり強くて、京産大はその大体大とつねに関西学生剣道優勝大会の決勝を争っていました。僕らも関西大会では2位、全日本学生剣道優勝大会ではベスト8という結果を残しています。ただ在学中に一度も関西優勝を勝ち取ることはできませんでした。
当時の京産大の僕の同期の剣道推薦の選手たちは高校時代に全国大会などで活躍した人ばかり。だから大した戦績も実力もなく一般入学生だった僕はずいぶん苦労したものです。
──上田さんは一般入学生だったんですね。
僕は大商大堺高校(大阪)の出身で、高校時代の戦績で言えば大阪府でベスト4くらい。それでもいくつかの大学からは剣道推薦のお話をいただきましたが、剣道で大学に入学するのは個人的にイヤだったんです。
たぶん……自分なりにカッコつけたかったんだと思います。剣道だけでなくつねに文武両道でありたい。そんな思いがずっとあったんですよね。
僕は高校も勉強で進学していて、入学した大商大堺は高校自体は偏差値的に高いところではありませんでしたが、いちおうその特進クラスで学んでいました。中学生当時もいくつかの高校から剣道推薦のお話はいただいてはいたけれど、当時からすでに「希望する高校には勉強で進学したい」と。
もともと勉強は苦手でしたけど必死で勉強したら学力がメキメキと伸びていった。結果的には第一志望の学校には合格できませんでしたけど、それでも偏差値でいうとかなりアップしていたんです。そんな経験があるからこそ、大学受験のときにも「やればできるはず」という自信のようなものがありました。
──そしていざ大学に入学すると今度は剣道に没頭したと。
僕の同期は本当にすばらしい選手ばかりで、僕が試合に出られるようになったのは遅い時期でした。たしか大学3年生の中盤から終わりくらいのこと。もともと教員になり高校の剣道部の監督をしたいという夢があったので大学では教職課程を取っていたのですが、教職を取るとそのぶん講義が増えるからどうしても練習に遅れてしまう。実力がない上に練習量が減ると、絶対にレギュラーに選ばれない。だから「いまはレギュラーになることが先決」と考えてその夢は捨てました。
2年生くらいからは毎日一人で京都武徳殿の稽古にも通いましたね。僕は一般生だったけれど運良く知り合いの京産大のOBの先輩のご紹介で推薦生たちといっしょの寮に入ることができていたんです。だからまず朝練をやり、そのあとには通常の部活動をやり、そのあとに武徳殿に通う日々を続けましたね。とにかくセンスのなさを稽古量で補いたかったんです。
──上田さんは大学では主将を務めたと聞きましたが一般生で主将になる例は……。
珍しいことだったと思います。それまでの京産大では、というかほとんどの大学がそうでしょうが、翌年の新幹部は監督と前の代の先輩たちで決めるんです。しかし、そのときの僕はなぜか分からないけれど「先輩たちはどうせ出ていく立場だから関係ないじゃないですか」と(笑)。「僕たちの代は僕たちで部を運営していくんだから僕らの代以下で主将を選ぶのはどうですか?」と提案して、初めて投票制が採用されました。その結果、僕がたまたま主将に選ばれたというわけです。いま考えれば、まあ僕のワガママみたいなものに、監督、同期、後輩たちが寛容でいてくれたお陰で主将にしてもらったんだと思っています。
学生時代は試合で活躍できたこともいい思い出ですが、やっぱり一番の思い出はこの素晴らしいメンバーの中で主将を務められたこと。最高でしたね。
──それだけの努力家となると少年時代から剣道は強かったんじゃないですか?
いやいや、実はそれがそうでもなくて。剣道は小学2年生のときに近所の登美丘剣友会という道場に親に連れて行かれてはじめたんですが、練習のせいで自分の観たいテレビが観られなかったのでもうホンマにイヤやったんですよ(笑)。だから小学生時代は剣道はずっと弱いまま過ごしました。
でも小学6年生のとき、日本武道館で開催される全国大会で、たまたま僕はチームの補欠に入ることができたんです。ほかの5人は強いですから普通に考えれば僕の出番はありません。それなのに僕の家族が当日は日本武道館まで応援に来たんです。
チームは結局リーグ戦で負けて、案の定、僕の出番もありませんでした。僕としてはそれは当たり前のことでしたが、帰りの新幹線で父親が「お前は悔しくないのか? 俺は悔しい!」と泣き出したんです。その姿を見たとき「ああ……、俺アカンことしてるな」って。そこからですね、急にスイッチが入ってメチャクチャ練習するようになったんです。
目標を設定するにもやっぱり自分自身の興味や気持ちが大事。そして一度やりたいというスイッチさえ入れば、そこからはすぐに目標を設定して一気にのめり込んでいきました。
いま会長をやっているハートリンクの社長にも毎回驚かれるんですけど「上田さんはコレと決めたときのスピードがとんでもなく早い!」と(笑)。その原点はと聞かれれば、それはやはり人一倍の負けず嫌いと「努力すれば結果は裏切らない」ということを学ばせてくれた「剣道」にありますね。
──歩みを止めない上田さんのこれからの展望や目標を教えていただければ。
仕事の面で言えば引き続きお客様の金融関係の総合的なアドバイスをやっていきたいと思っています。「金融関係の総合アドバイザーといえば上田」と言われるくらいにまでなりたい。
と、仕事での目標はいちおうそう設定しているんですが、いざ自分の人生の目標はと考えてみると現在はとても満足した状態でいるんです。僕は実はコロナに感染して一度死にかけたんですよ。もう苦しくて救急車で運ばれるほどだったのですが、不思議なことに死に直面してもなんの恐怖も感じなかった。いままで自分のチャレンジしたい事にはためらわずにチャレンジしてきましたので、後悔というものがないんです。人はいつか必ずこの世を去ります。早い遅いはあるのでしょうが、その時間は宇宙規模から考えるとほんの誤差の範囲内じゃないかなと。与えられた自分の命の時間の中で精一杯、仕事や人生を楽しんでいきたいと思っています。コロナ感染によって、改めてそんなことに気づかされました。
だからいまの自分自身は毎日幸せを感じながら暮らしている。それは本当に僕の周りの方々のお陰なんだと感謝しています。生かされていることに感謝、周りの方々に感謝、自分の人生に起こるすべてのことには意味があり、それらを受け入れ、生きていく。そういったこともできるだけ多くの人に伝えていきたいと思いますし、仕事や生き方を通じて何か世の中のためになれればいいなと考えています。
会社名 | 株式会社マハロコンサルティング |
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