地道な積み重ねが大切なのは剣道もお笑いも同じ(渡辺正行/有限会社なべや 代表)

テレビのお笑い・バラエティにおいて長らく第一線で活躍を続ける渡辺正行さん。
自身が熱心な剣道愛好家であることは、YouTubeチャンネルの剣道普及番組「剣道まっしぐら!」などでも広く剣道界に知られています。現在は、お笑い界の大御所として後身の育成にも情熱を注ぐ渡辺さん。その紆余曲折のお笑い人生、そして剣道への熱い思いをインタビューしました。

プロフィール

渡辺正行(わたなべ・まさゆき)
1956年1月24日千葉県生まれ。千葉県立大多喜高校から明治大学に進学。中学、高校と剣道部で活動するも、大学からは落語研究会に所属。大学在学中にラサール石井、小宮孝泰らとともにコントグループ「コント赤信号」を結成。テレビのお笑い番組で人気を博し、「リーダー」の愛称で親しまれる。
高校以来中断していた剣道はテレビ番組の企画にて再開。番組終了以降もプライベートの趣味として稽古を継続している。2020年からYouTubeの剣道普及番組「剣道まっしぐら!」の配信をスタートさせ、大会や昇段審査などにも積極的に挑戦。2026年2月には剣道七段に昇段を果たした。自身の主な試合戦績には、高校時代に関東高校大会団体戦出場、第24回シニア健康スポーツフェスティバルTOKYO剣道大会(59~64歳の部)2位などがある

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お笑いに成功の方程式はない。
だからこそ、新たな出会いを大切にしたい

「リーダー」の愛称で親しまれる渡辺正行さんが長く主催する「ラ・ママ新人コント大会」。
多くの若手芸人たちの登竜門的イベントとなっている

――― もはや改めてご紹介する必要もないほど、もう長くお笑いタレントとしてご活躍中の渡辺正行さん。その「お仕事」と言っても多岐にわたると思いますから、今回はどんなお仕事についてうかがえばいいのかと悩んでいるのですが。

渡辺  うーん、それならば「ラ・ママ新人コント大会」について話をさせてもらおうかな。渋谷にある「ラ・ママ」というライブハウスを会場にして、もう40年ほど若手芸人たちのためのお笑いライブをやっているんですよ。

――― 渡辺さんが主催するラ・ママ新人コント大会は、関東のお笑い芸人の登竜門的なイベントとしてとても有名ですよね。

渡辺  開催するのは月に1回で、基本的には毎月の最終金曜日。そもそも僕がこのイベントをはじめたのは30歳くらいのことで、当時の若手のお笑いの子たちから「お笑いを教えてください!」と頼まれたことがきっかけ。教えてくれって言われても、こっちだってまだ30歳ですから教えられることなんてなにもないわけですよ。とはいえ、僕自身も若いころには先輩たちからいろいろなチャンスを与えていただいた身ですから、すぐに断るのもしのびない。そこで思いついたのがお笑いライブの開催だったわけです。若手の子たちに伝えたのは「お笑いを教えることはできないけれどライブくらいなら開ける。そこでウケれば自分たちの勝ちだしスベれば負け。それでいいなら試してみれば?」ということ。いまとなればお笑いライブは全国的にもたくさん開催されていますけど、当時の東京には若い芸人が若いお客さんの前でネタを披露できるような場所がまったくなかったんです。

当時の僕が思い描いたコンセプトとしては、若い子たちが自分が売れるヒントをなにかつかめるような場がつくれればいいな、ということでした。その場ではこちらから「こうしなさい、ああしなさい」とこと細かに指導できることなんてないんだけれど、それでもなにか些細なアドバイスで彼らがフッと変わって、結果的に売れていくようになればいいな、と。

これって芸人さんに限った話でもなくて、たとえば人間って落ち込んでいるときにふと言われた言葉でなにか前向きになれたり、その反対で調子に乗っているときに言われたひと言で気持ちを引き締めることってあるじゃないですか。それは剣道でも同じで、稽古のあとに高段位の先生に言ってもらったひと言が成長の大きなきっかけになる。それと同じような感覚で、お笑いにもそういう場所をつくれないかと考えたんですよね。まあ剣道のえらい先生の言葉ならさておき、僕の言ったことなんかは若手たちには「リーダー、なに言ってんだよ、わかってないな」なんて思われちゃってるのかもしれないけど(笑)。でも正直な話、お笑い芸人がなにを理由に成長していくのかなんて僕にはまったく分からない。だからこそ、チャンスやきっかけに出会える機会はできるだけ多いに越したことはないと思うんですよね。

――― 後進への深い愛情を感じますが、いざ実際にイベントを開催するとなると容易ではなさそうです。

渡辺  そうですね。その当時の若手というのはほぼ素人のような子たちばかりだったので、彼らだけでイベントを開催することについては集客という面で非常に不安な部分があったのは事実です。そんなときに助けてくれたのが、そのころすでにテレビ番組にも出ていた「ウッチャンナンチャン」。ウンナンもまたテレビ番組にこそ出ていたけれど、彼らであっても若いお客さんの前でネタを披露する機会は当時なかったんですよね。だから彼らが「自分たちの勉強にもなるのでいいですよ」と言って出演してくれたことで、なんとかお客さんが集まったような感じです。あのころ出てくれたのは、ウンナン以外では「ダチョウ倶楽部」や「ピンクの電話」、磯野貴理子がいた「チャイルズ」なんかもそうだったかな。彼らのおかげでイベント自体もどんどん盛り上がりを見せるようになりました。

そうこうするうちにテレビ業界にも変化があって、各テレビ局が「テレビ番組にはやっぱりお笑い芸人さんがいなければ盛り上がらない」という風潮になってきた。昔はお笑い専門の芸能事務所があって、多くの芸人たちはそこに所属していましたが、お笑い芸人がテレビ番組に必要とされるようになってくると、たとえば音楽事務所さんでもお笑い部門を立ち上げるようになって、各事務所に芸人が所属するようになったんです。

――― かつてラ・ママの舞台を踏み、現在は売れっ子となった芸人さんたちからの渡辺さんへの感謝の言葉をインタビューなどでよく見聞きします。

渡辺  感謝なんてされてないですよ(笑)。みんな「昔、ラ・ママに出たことがある」というくらいで、僕に感謝なんてしてはいないです(笑)。

――― しかし、ラ・ママの舞台がもう長く歴史を刻んでいるのは事実です。渡辺さんがこのライブをここまで続けている理由はなんですか?

渡辺  うーん、若い子たちが売れていく過程に関われることのおもしろさというのもひとつありますよね。正直なところ「売れる」のと「おもしろい」のはまた別なことで、ラ・ママで言えば、僕らはまずあの舞台でしか彼らのネタを見ないですから、その場で評価をするしかないわけです。しかし、そのあと彼らはいろいろな場所で同じネタをかけて、それに磨きをかけていくわけで、そうしてふと気づいたときにはそれこそ「M-1グランプリ」、「キングオブコント」なんかの大きな舞台で、かつて僕がラ・ママで見たネタを披露していたりする。そんな成功の過程を目の当たりにできることにはやはりおもしろさを感じますね。また、おもしろさを感じるのと同時に、若い芸人たちのネタを見て、実際に彼らとコミュニケーションを取ることで「いまのお笑い」の感覚を知ることができることも僕にとっては大きなメリット。自分にとって良い学びの場であることも、ラ・ママをずっと続けている理由のひとつかもしれません。

――― それではぜひ「ラ・ママ新人コント大会」のアピールポイントを教えてください。

渡辺  渋谷にあるライブハウスのラ・ママを会場にして、毎回20組くらいの若いお笑いが出演する舞台です。1分ネタを披露する子たちが7、8組くらい。あとは「コーラスライン」と言って、いわゆるゴングショーのような形式で行なわれるステージに出るのが12、13組でしょうか。

お客さんの立場に立ってみて、僕がこの舞台のなにがいいのかと考えてみると、その一番の魅力はいろいろなタイプの芸人が顔を揃えることですね。本当にいろいろなタイプのお笑い芸人が集うので、自分の好みのお笑いが確認できるのがいいところじゃないでしょうか。皆さん、普段はテレビなどで多くのお笑い芸人を観ると思いますが、テレビという表舞台に出てくる芸人はみんな「ちゃんとおもしろい人たち」なんです。ところがお笑いライブとなると「ちゃんとおもしろくない人」も出てくるわけで、「こんな芸人もいるのか!」という衝撃を味わいに来ていただくのもいいと思います(笑)。とにかく僕らにとっては一人でも多くの方に見に来ていただけるのが大事なこと。芸人側からすれば、お客さんがいてこそ初めて「生」の感覚が体験できるわけですから、お客さんの存在は本当にありがたいばかりです。だから皆さんはただただ楽しく見に来てくだされば、それが自然といまのお笑いを応援することにもつながってくるので、ぜひ気軽に会場に足を運んでいただきたいですね。

――― 渡辺さんのお名前、そしてコントグループ「コント赤信号」の知名度は高いですが、そもそもご自身はどのようにお笑いデビューを果たしたんですか?

渡辺  僕ら──、僕とラサール石井くんと小宮孝泰くんは、もともとお笑いじゃなくてお芝居をやっていたんです。僕は高校時代までは剣道部に所属していたんですが、明治大学入学後はではそれまでとは違った学生生活をエンジョイしようと思い、落語研究会に入りました。当時落語なんて聞いたこともなかったしお笑いにも興味はなかったけれど、「おもしろそうなこと」に対しては敏感だったんでしょうね。入学式のときに落研の先輩が着物姿でプラカードを持ちながら「楽しいよ〜っ!」と新入生を勧誘する声に誘われて、すぐさま入会してしまいました。

小宮くんとはその落研で出会ったのですが、当時、落研の先輩にいたのが立川志の輔さんや三宅裕司さんら現在でも芸能界で活躍している方々。そして、そんな先輩方が当時落語をやりつつも、将来的には俳優になることを目指しておられたんです。僕自身は芸能界への興味はなかったけれど、憧れの先輩にならうような感覚で同じ道を志すようになったのが20歳のとき。そこで劇団テアトル・エコー養成所に入ったところ、そこで出会ったのがラサール石井くんでした。そんな経緯があって石井くん、小宮くんと3人でお芝居に取り組んでいたわけですが、お芝居の勉強の一環として、コントでもやってみよう、という話になった。そして大学の学園祭でオリジナルのコントを披露したところ、これがものスゴくウケたものですから「あれ? もしかしたら役者よりもこっちのほうが向いているのかも……」と、そこからお笑いにシフトしていったんです。

――― とても早く、お笑いのジャンルで売れっ子になったようなイメージがあります。

渡辺  お笑いに転向して、まず僕たちが修行を積んだのがストリップ劇場でした。当時はストリップの合間に芸人がコントを披露するような劇場がけっこうあったんです。学園祭では大ウケして「俺たちは天才なんじゃないか!」なんて思っていた僕らでしたが、ストリップ劇場に立ってみると少しも笑いが起きない(笑)。いま考えればお客さんはストリップを見にきているわけですから、実際のところコントなんてどうでもいいんですよね。そんなグダグダな生活を1年半ほど過ごしたときにやって来たのが、空前の「漫才ブーム」でした。

当時たくさんのお笑い芸人がテレビで活躍していたわけですが、一方の僕たちはストリップ劇場の楽屋のテレビでそれをただただ眺めるだけ。「ああ、きっと俺たちはこのブームに乗ることはないんだな」とあきらめの感情が湧いてきたところで、石井くんも小宮くんも「もう辞める」と言い出してきたので、3人の中ではもうほぼ「解散」が決定していたんです。しかし、そんなタイミングで声をかけてくれたのが当時人気が出て来ていた「ゆーとぴあ」さんでした。売れてきていたゆーとぴあさんが今度リサイタルを開催するということで「お前たちも出ないか?」と僕たちに声をかけてくれた。こちらはもう解散する気でいたわけですが、せっかくのお声がけですから、「解散する前に、最後に新しいネタを一本つくってみよう」と。そうしてできたのが「暴走族」のコントだったんです。

――― コント赤信号の「出世作」ですね。

渡辺  それをたまたま見てくれたのが、漫才ブームの牽引役でもあったバラエティ番組「花王名人劇場」のプロデューサーさんでした。当時は漫才ブームのまっただ中でしたが、あのころはまずそもそも芸人の数自体が圧倒的に少なかったので、テレビ業界はつねに新しい芸人を探しているような状況だったんですよね。そんな事情もあって運よく目をかけてもらったのが僕たちで、ストリップ劇場からいきなりテレビの花王名人劇場への出演が決まったんです。それが24歳のときでしたから、テレビデビューとしてはたしかに早かったのかもしれませんね。いざ花王名人劇場に出演してみると、1回目の評判が良かったということでまた2回目も呼ばれるようになり、その2回目がおもしろかったので今度は3回目、というふうに連続して出演できるようになっていった。あの当時は一回ごとの出演がそれこそ「勝負」のような感覚で、毎回毎回新しいネタを準備しては挑んで、という繰り返しでしたね。

――― 以降、現在に至るまで、浮き沈みの激しい芸能界で生き残り続けていますね。

渡辺  本当に運がよかったんだと思いますよ。いままでの自分の芸能人性を振り返ってみて感じるのは、成功するための確実な方程式なんてないんだ、ということですから。もし僕になにか言えることがあるとしたら、たまたまの出会いを見逃さなかった、ということくらいでしょうか。どんな出会いが自分の人生を変えるのか分からないから、それをいつでも捕まえられるようにつねに手を広げて準備をしておく。僕自身、新たな出会いに対して、照れたり、拒んだりをすることがあまりなかった。それがあったから、いままでなんとかやってくることができたような気がします。僕がラ・ママをずっと続けている理由もまさにそれで、若手の子たちみんなを成功に導いてあげることは難しい。だからこそ、できるだけ多くの出会いやチャンスくらいは与えてあげたいと思うんですよね。

――― それでも、花王名人劇場に抜擢されるきっかけとなったのも、同番組に出演し続けることができたのもご本人たちの努力、実力ですよね。コントのネタは毎回渡辺さんがつくっていたんですか?

渡辺  そう、コント赤信号のネタの作・演出は毎回僕が担当。それが理由でメンバーから「リーダー」って呼ばれるようになったんです。

かつては俳優志望だったという渡辺さん。
学生時代、演技の勉強の一環として取り組んだコントがその後の人生を大きく左右することになった

テレビの企画がきっかけで
剣道に本格復帰

YouTubeの剣道普及番組「剣道まっしぐら!」は剣道界における人気コンテンツへと成長。
渡辺さんをはじめとする芸能人剣道愛好家が稽古、試合などさまざまな企画にチャレンジしている

――― 芸能人剣道愛好家としてはおそらく芸能界でもっとも知名度が高い渡辺さん。その大きな理由のひとつが、ご自身が出演するYouTubeの剣道普及番組「剣道まっしぐら!」です。世界の剣道愛好家が毎回の更新を楽しみにしているこのチャンネルでは、渡辺さんは稽古や試合に積極的にチャレンジしています。

渡辺  剣道は中学生、高校生の部活動でやっていて、そのあとはしばらく剣道からは離れていたんです。テレビ番組の剣道対決企画でちょこちょこと復帰したことはあっても、なかなか本格的に復帰するまでには至りませんでしたね。本格的な再開のきっかけはやはりテレビの「炎の体育会TV」という番組。この番組で剣道対決をする企画があって、試合のたびに稽古をやって、ということを繰り返しているうちに、リバ剣の楽しさを感じるようになったんです。中学、高校ではやらされるばかりだった剣道ですが、リバ剣となると稽古も好きな時間に行けばいいし休みたければ休んでいいし、それをとがめる人もいない。さらには芸能界とは違う分野の方々とも知り合いになれることも魅力に感じた大きなポイントでしたね。

その当時は僕も56歳くらい。日常生活や仕事の場では人からなにかを教わることは少ない年齢ですが、当時の段位がまだ四段だったということもあって、剣道の稽古の場となると周りの方はほとんどが僕よりも段位が上。だから年齢が上とか下とかまったく関係なく、皆さんがいろいろなことを丁寧に教えてくださることがとても新鮮でした。そんな経験から、これはもうテレビの企画とは関係なく剣道を自分の趣味にしていこうと考えるようになったんです。

――― せっかくなので、この機会に渡辺さんの剣道歴もうかがえればと思います。剣道はいつから、どのようなきっかけで?

渡辺  僕はもともと千葉県いすみ市の出身。剣道は中学校の部活動ではじめましたが、実は中学入学後にまず入部したのは野球部でした。人気漫画の「巨人の星」の影響で入部したわけですが、いざ部活動となるとまったくボールも握らせてはもらえず、ひたすらうさぎ跳びを繰り返すばかり。だから野球部はもう10日ほどで辞めちゃいました(笑)。そんなこんなでブラブラしていたのですが、そこで声をかけてきたのが剣道部の先輩でした。その先輩が「お前は身長が高いから剣道では有利だ」と言うものですから剣道部に入部してみたんですが、結局剣道部でも野球部同様にしばらくうさぎ跳びの毎日を送ることになります(笑)。

それでも剣道部を辞めなかったのは、子ども心に「部活を何度も辞めたりするもんじゃない」という思いがあったからですね。当時の剣道部の先生は国士舘大学を卒業してまだ2年目くらいの若い方で、この先生がまた熱心に指導してくださったんです。結果的に、僕は中学3年のときには郡の大会で個人戦2位入賞、当時のうちの中学剣道部としては初の県大会出場を叶えることができました。

そのあとに進学した大多喜高校は、とくになにか意図があって選んだ学校でもないんです。地元の学校ということもあって、ウチの中学の卒業生は大多喜に進学するものという漠然としたイメージがあったから選んだ高校。しかし、高校でも剣道部に入部をしたのは、剣道部の監督の先生が僕の中学剣道部にもよく稽古に来てくださっていたからで、とくになにか悩むでもなく自然な流れで剣道部に入っていました。高校剣道部では、県大会で団体戦6位入賞を果たし、学校はじまって以来の関東大会出場を果たすことができたわけですが、いざ関東大会本戦に出場してみれば周りは強豪校ばかり。試合の結果は当然1回戦負けで、僕としては関東大会出場の喜びよりも「あれだけ稽古しても強豪校とはこんなにも差があるのか……」という失望のほうが大きかった。だから明大で剣道部に入部することはしなかったんです。

――― タレントさんになってからの剣道の本格復帰はどちらで?

渡辺  「炎の体育会TV」のスタッフが稽古のために手配してくれたのが東京都荒川区にある誠道塾で、自分の趣味としてやってみようと思ってからも、その道場にお世話になり続けています。いまは誠道塾をメインの稽古場としながらも、ご縁が広がっていろいろなところに出稽古にも行けるようになったのがうれしいですね。年間の仕事のスケジュールで5、6月あたりは舞台の仕事の関係でなかなか稽古ができないのですが、平常時は週に1、2回くらいのペースで稽古をするように心がけています。

――― 本格的に再開してみて、なにか新しい発見はありましたか?

渡辺  再開してまださほど時間が経たないときに、誠道塾から荒川区民大会に出てみないかと誘われたんです。出場したのは個人戦の「四・五段以上、45歳位以上60歳未満の部」で、僕は当時は58歳くらいだったのかな。まだまだ剣道のルールやマナーもよく分かっていないようなレベルで、そのときは3試合目で負けてしまったんです。この大会は半年に1回開催されることもあって、次の大会にもチャレンジしてみたところ、ここでもまた同じく3回戦負け。しかし、この敗北で心に火がついて「60歳までになんとかこの部門で優勝してやろう!」と決意するようになったんです。

そこから半年、またしっかりと稽古を積んで次の大会に臨んだところ、今度はついに決勝進出することができた。しかし、決勝の相手の方は45歳と若くてスゴく強い方だったので、決勝ではあっという間に負けてしまったんです。これがまた僕にとっては悔しい経験で、新たに「試合に勝てないまでも、今度対戦したときには自分の剣道だけはまっとうしたい」という目標を掲げるようになって。そしてまた半年稽古を積んで次の大会に挑戦したら、今度は決勝でその方に勝って優勝することができたんです。そんな経験から学べたことは、本当に少しずつだけれど、剣道はがんばればちゃんと結果が出るものなのだということ。その都度の目標さえ設定できれば、その目標に向けての取り組みもまたどんどん深いものになっていく。そんな繰り返しがずっとつながっていくのが剣道の大きな魅力だなと気がつきました。でもこれって、僕にとってはお芝居だったりお笑いだったりでも同じ感覚があって、コツコツと積み重ねていくことで少しずつだけれども上達していくのはいっしょ。だから、剣道のそんな特徴はそもそも僕の性に合っているのかもしれませんね。

――― 渡辺さんは現在六段。昇段審査への挑戦なども注目されています。

渡辺  六段に合格したのが65歳のときだったので、七段受審は71歳のつもりだったんです。ところが高齢者を対象とした修業年限短縮措置があって、2025年の11月に初受審のチャンスをいただけてしまった(苦笑)。準備万端とはいかないけれど、受けないよりは受けたほうが勉強になるかなと思って受審したのですが結果は不合格でした。次は2026年の2月にまたチャンスが巡ってきますが、やはり七段ともなれば不安を抱えたまま受審するものではないないと感じます。受けるのであれば強い気持ちで、自分は絶対に合格するんだという自信がもてるように、稽古段階から準備をしないといけないですね。

――― 2026年2月、七段合格の吉報をお待ちしています。

渡辺  いやあ、がんばりはしますよ(笑)。がんばりはしますけど七段となればもう「先生」じゃないですか。やっぱり僕はタレントですから六段くらいのほうが可愛げがあって、きっと周りの先生方もいろいろと教えやすいんじゃないですかね(笑)。

※インタビュー後に行なわれた剣道七段審査会において、渡辺さんは見事に合格されました。
 おめでとうございます!

2026年2月、自身2度目の挑戦にして七段合格を果たした渡辺さん。
芸能人愛好家としてはもちろん、いち剣道家としても今後の活躍が楽しみだ

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