大学卒業と同時に家業に入社し、27歳の時に代表取締役に就任した藤田社長。印刷業からスタートし、フリーペーパーや代理店業、イベント企画、グッズ制作など事業の幅を広げてきました。
フリーペーパーは未経験で始めたとは思えない完成度の高さです。イベント企画やグッズ制作では、大手企業とのコラボレーションも実現してきました。目の前のことにコツコツと誠実に取り組まれている藤田社長のお話を聴くと、「できないことはない」と心に熱い火が灯るような気持ちになります。
優しい笑顔が印象的な藤田社長ですが、小さい頃は「手のつけられない悪ガキだった」そう。人間形成の根底には、愛する父と剣道の教えがありました。これまで事業を拡大してきた経緯と、藤田社長を形作ってきた剣道についてお話を伺いました。
プロフィール
藤田 義(ふじた・つとむ)
1969年京都生まれ京都育ち。平安高等学校(現:龍谷大学付属平安高等学校)から金沢経済大学(現:金沢星稜大学)に進学。卒業後、精好印刷株式会社に入社。印刷、デザイン、広告業、環境機器の販売代理店業を営む。
剣道は小学校の時に始め中高大と継続。大学では体育会剣道部に所属。2021年現在六段。所属は植柳少年剣道部。
父が創業した精好印刷。5歳の頃から家業を継ぎたかった
──事業内容について教えてください。
印刷、デザイン、広告業、環境機器の販売代理店業を中心に行っております。
弊社は私の父である藤田 貢が1964年に創業しました。最初は精好印刷という個人事業で、名刺の印刷機1台からスタート。1992年に社名を現在の株式会社 精好に変更しました。
──さまざまな事業を手がけているのですね。印刷業以外は藤田社長の代からスタートしたそうですが、大学卒業後、他社で経験を積まれたのでしょうか?
いえ、金沢経済大学を卒業後すぐ精好に入社しました。
大学を卒業した年の5月に父が入院、8月に他界し、その後しばらくは母が名義上の代表を務めていたんです。長男が専務、次男が常務で、三男の私は営業でした。しかし、金融機関とのやりとりなど仕事をする上で母が代表を続けるのは難しく、私が27才の時に代表に就任しました。
──お兄様方ではなく、三男の藤田様が家業を継がれたのですね。
子供の頃から家業を継ぎたいと主張していたんです。子供じみた話なんですけど、私は昔から負けず嫌いで、兄たちが自分より早く生まれたというだけで偉そうにしているのが耐えられなかった(笑)
兄たちに負けないためには、父に認めてもらうしかない。そして、父に認められることは、会社を継ぐことだと考えていました。5歳の頃には「僕が会社を継ぎます」と宣言してて、ずっとそのつもりで親子関係を築いてきました。
未経験から7万部発行のフリーペーパーを立ち上げ
──では、広告やWebの事業は、全くの未経験から立ち上げたんですか?
そうですね。社員から「こんなことをやりたい」と声があがって始めることが多かったです。例えば、弊社が発行する情報誌 go baaan(ゴ・バーン)も、社員の「やってみたい」という声からスタートしました。
京都市内250カ所に設置
最初はどんなことをしたいのかも正直分からなかったのですが「一年間は資金を出す」と社員に約束しました。続けていると、「こういうことがしたかったのか」と分かるようになってきます。
そして「今のやり方のままでは利益にならない」と判断し、口出しすることを決めました(笑)B5で16ページにサイズ・ボリュームを変更し、読者がどんな情報を欲しているのか、go baaanだからできる企画は何なのか、内容も一歩踏み込んで真剣に考えるようになりました。
go baaanを作ったのは2002年で、当時フリーペーパーにはホテルやデパートの情報などは載っていませんでした。「タダで掲載していることはランクが低い」と思われていたんです。だから「フリーペーパーの取材は受けません」と断られることも多かったんですよ。
しかし、営業を続けることでホテルのクリスマスディナーやデパートの催事なども少しずつ載せられるようになり、広告主が増えていきました。今では、新規営業に行った時に「go baaanの会社なんだね」と言ってもらえることもあるほどです。
──かなり完成度が高く、未経験から始められたとは思えません。
私が持つ信条の一つに「『できない』と言わず『どうやったらできるか』を考える」があります。これは父の教えの影響が大きいかもしれません。「できないと言ったら負けだ」「頭を使え、工夫をしろ」「弱音を吐くな」と、言われて育ってきました。
そして、何かを期待されているなら、それに応えないといけないと考えています。しんどくても、期待に応えられるように挑戦します。
10枚のプロレスのチケットが紡いだ縁
──プロレスに関わるお仕事もなさっていると聞きました。
もともと格闘技が好きだったのですが、『みちのくプロレス』を観に行ったことがきっかけで、プロレス業界のエンターテインメイト性に魅力を感じ、それからずっと注目をしていました。
ある時、たまたま京都で『闘龍門(現・DRAGON GATE)』のチケットが販売されていたので、友人・知人・社員にでも配ろうかと10枚購入したんです。1枚7,000円だったので、7万円分も購入したことに驚かれました(笑)
その場で名刺交換して「ポスターが欲しい」と言ったらスタッフの方が会社に持ってきてくれたんです。そこから付き合いが始まり、闘龍門からDRAGON GATEに組織の形が変わるタイミングで提携がスタートしました。
選手のインタビュー記事やDRAGON GATEの広告枠をgo baaanで作る代わりに、雑誌を試合会場で配ってもらったり、うちのお客さんをスポンサーとして紹介したり。その頃から、DRAGON GATEと広告主をつなぐ代理店のような仕事も始めました。
──7万円分のチケットを買ってなかったら、生まれなかった仕事ですね。
そうですね。まさかうちのような小さい会社がプロレスに関われるとは想像もしていませんでした。プロレスファンからしたらめちゃくちゃワクワクする仕事です。ダメ元でなんでもやってみるものだなと。商売のチャンスは、本当に色々なところに転がっています。
アニメ映画のキャラクターグッズも制作・販売している
悪ガキだった子供時代。人間形成の原点になった、剣道の教え
──御社は会社の剣道部をお持ちですよね。
はい、植柳(しょくりゅう)会といいます。小学校の頃に所属していた植柳道場からいただいた名前です。もともと、私が会社に入社したら剣道部を作ろうと父と話していたのですが、入社後すぐに父は他界してしまい、その話も立ち消えてしまいました。しかし何年か経って、再び剣道部を立ち上げようという話になったんです。
その際に、子供の頃からお世話になっていた植柳道場の吉田市太郎先生のところにご挨拶に行きました。私が子供の頃はとても活気のある道場だったのですが、少子化の影響で植柳道場の人数も減っていました。「現在の道場生や父兄に、OBが活躍していると知ってもらうためにも、植柳の冠をつけてもらえないか」と言っていただき、とても冠を背負うような人間ではないので恐縮なのですが、「植柳会」と名付けさせていただきました。
──ご自身の人生観や仕事観に、剣道はどのように影響していますか?
私は、小学生のころ本当に悪ガキだったんです。試合中に相手を泣かしたり、気に入らないやつとケンカしたり……。「勝てば何やってもええんちゃう」と思っているような子供でした。
しかし、5年生・6年生と高学年になり試合に出るなかで、「勝つだけではだめだ」と吉田先生にすごく怒られて。「剣道やっている子は立派だと言われるような、お手本になる剣士にならなきゃいけない」と諭していただく機会が増えたんです。先生の言葉の意味は、時間が経つにつれ少しずつわかるようになってきました。
試合で自分だけ勝ってもダメなんですよね。一緒に試合に出る仲間や、稽古してくれる先輩・後輩がいなかったら剣道はできません。いろんな人のなかで自分は支えられているんだと、子供ながらにぼんやりと感じるようになったんです。そして、その教えは今でも自分のなかで活きています。
私は、親戚のなかでも「一番出来の悪いクソガキ」と言われてたんです。藤田家の恥さらしだと。でも剣道の先生が、腐らないように導いてくれました。
大人になると、誰かに怒られることって滅多にないし、社長になってからは人に指示されたり注意されることもありません。そんななかで、人間として原点に帰れる場所が剣道なんです。「たかだか剣道」と思う人もいるかもしれませんが、私の人間形成のベースには、剣道の先生の教えがありました。
まだ七段も取ってないし、こんなことを言うのは恥ずかしいのですが……だからこれからも、剣道の仲間や縁を大切にしていきたいです。
もしかしたら仕事を一緒にできる機会があるかもしれないし、直接の取引がなかったとしても仕事の中でお互い刺激しあい、啓発しあえることがあるかもしれません。私の子供たちにも、「剣道を続けて仲間を大事にしてほしい。いつか必ず、その大切さが分かる時が来るから」と伝えています。
「勝手にコーヒーも飲まないし、授業も受けるから!」手作りの剣道部と、先生との約束
──ヤンチャだった小学生時代を経て、中学校でも剣道を継続したのですね。
はい、小学校6年生時には、武道館の全国大会に京都代表(個人)で出させていただき、道場も全国大会に出場しました。
しかし中学に入ってからは学校に剣道部がなく、道場でも試合に出れない日々が続きました。それですっかり腐ってしまい、1年時は真面目に稽古をしなかったのですが、2年生になった時に生徒会の規約が変わり、部員10名と顧問の先生がいたら剣道部を作ってもいいという話になったんです。
剣道経験者はそこそこいたので、他の道場でやっている子も引っ張ってなんとか部員を集めました。
顧問の先生も探し出しました。戦争時に剣道をやっていた、たしか剣道初段のおじいちゃん先生です。先生はいつも技術家庭室でコーヒーを飲んでいて、そして私たち生徒もその教室に窓から忍び込んで勝手にコーヒーを飲んでいました。
「もう二度と忍び込んでコーヒーを飲まないし、真面目に授業も受けるし、他の奴らにもちゃんと授業を受けさせるから、顧問の先生になってください!試合に勝って、先生に肩身の狭い思いも絶対にさせません」
真面目に授業を受けることと、コーヒーを勝手に飲まないというくだりが先生の心に響き、顧問を快諾してもらえました(笑)
晴れて剣道部は発足したものの、最初は学校の体育館すら使わせてもらえなかったので、道場で稽古をしていました。けっきょく1年目は勝てなかったのですが、活動が認められて体育館は使えるようになりました。
忍び込んでコーヒーも飲まなくなったし、何よりみんな授業をすごく真面目に受けるようになったんです。先生は、私たちが卒業してしばらくして亡くなられたのですが、高校の時にみんなで家までお線香を上げにいきました。
──高校、大学でも剣道は続けられたんですよね。
もともと高校に行く気はなく、働こうと考えていました。しかし、父に「社長になろうと思うなら、高校くらいは出ておけ」と言われ、剣道推薦が来ていた平安高校に進学しました。私の子供たちは三人とも平安高校で、三人とも剣道部。そして今私はOB会の会長までしているので、人生何があるかわかりません。
指定校推薦で龍谷大学に入学しようと考えていたのですが、結局、一般入試で金沢経済大学の経済学部に進学しました。大学もあまり進学する気はなかったのですが、父に「社長には大学出ている人がたくさんいるから、どんな大学でもいいから行くほうが良い。どうしても嫌だったら一年で戻ってきてもいい」と言われていました。
1ヶ月くらいで地元に帰りたくなりましたね(笑)寂しいし面白くない。でも、根性なしだと思われるのが嫌だったので4年間通いました。せっかくだから、いい仲間を見つけて帰ろうと。良い先生、先輩、同期、後輩に出会い、結果的に大学に通って本当によかったです。
儲けることはファン作り。謙虚な気持ちを忘れず仕事に取り組みたい
──今後の展望を伺ってもいいですか。
広告の仕事はこれからもずっと続けたいです。弊社は「広告情報発信を通じて社会に信頼される企業を目指します」と掲げているのですが、私たちが何かを発信することで世の中が変わるような仕事をしたいです。
例えば、go baaanの名前の由来には「碁盤の目」もあるのですが、goはいく、baaanはburn(燃える)とかけていて、この媒体で勢いよく京都の街を燃えるように盛り上げようという想いをこめています。私たちが原動力になって、皆さんの役に立てるようなことをしていきたいです。
ただ、コロナの影響もあって広告などの本業は正直厳しい状況です。そんななか、新しく取り組んでいるのが環境事業です。食品産業廃棄物を堆肥に変える機械の代理店を始めました。最初は取引先を紹介してほしいと、相談の形でお話が来たのですが、紹介できる会社が多かったので「代理店にしたほうがいいんじゃないか」と言っていただいて。
あとは、私は商売人なのでお金儲けもしたいですね。名刺には「趣味:お金儲け」と書いています。「儲ける」という漢字は分解すると「信者」になります。信者を増やすことはファンを増やすことです。「藤田にならお金を出してもいい」と言ってくれるような信者(ファン)を増やすこと、それがお金儲けの本質ではないかと考えています。
──どうやったら「お金を出したい」と言ってもらえる人間になれるのでしょうか。
一番大事なことは「人の役に立ちたい」という気持ちです。「やってあげる」「やってあげたのに!」ではなく、「させていただく」という謙虚な気持ちを持つことが、仕事をする上では一番大切だと思います。
──藤田社長の優しいお人柄と謙虚な心、そして縁を大切にする姿勢が事業の拡大を支えているのですね。本日は貴重なお話をお聞かせいただき、ありがとうございました!
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