日本のみにとどまらず、世界の剣道愛好家が注目する全日本剣道選手権大会。その熱戦の様子は剣道専門誌でも大きく取り上げられ、迫力ある試合写真は多くの読者を楽しませてくれます。
有名剣道専門誌『月刊剣道日本』もまた同大会を詳細に報じていますが、決勝戦の決定的瞬間を撮影したのはフォトグラファーの安澤剛直さん。自身も剣道六段の腕前を誇る安澤さんですが、その撮影は剣道のみにとどまらず、ウエディング、そしてメジャーな企業広告と多岐にわたります。
信念を持ってシャッターを切る安澤さんに、自身の経歴、そしてこだわりを聞きました。
プロフィール
安澤剛直(あんざわ・たけなお)1975年埼玉県生まれ。写真館を生家に育つ。志木高校(埼玉)出身。高校卒業後、大学に進学するも中退し、株式会社博報堂フォトクリエイティブ(現・博報堂プロダクツ)に入社。同社で写真撮影の基本を学び、退職後はカメラアシスタントとして経験を積み、実家写真館に勤務する。2006年に独立。株式会社アンズフォトを立ち上げ現在に至る。剣道は小学3年時より朝霞剣道錬成会ではじめ、現在は神奈川県川崎市で活動する之久会(しくかい)に所属し稽古に励んでいる。剣道錬士六段。
剣道界最高峰の大会の最高の一打を切り取る
──多くの剣道愛好家が愛読する剣道専門誌『月刊剣道日本』。毎年11月3日に開催される全日本選手権大会はその誌面でも大きく報道されますが、その決勝戦の写真を撮影しているのがフォトグラファーの安澤剛直さん。2023年の第71回大会は棗田龍介選手(広島)が優勝を果たしましたが、誌面を飾った安澤さんの写真は決勝打の瞬間を見事にとらえたすばらしい一枚ですね。
決勝戦の写真を採用してもらったのはこれで5年連続くらいですかね。実際のところ、いまは剣道関係の仕事については年に1回の全日本選手権くらいしかしていないのですが、この大会だけはなかば「趣味」というか、毎回撮影に参加させてもらっています。
──剣道の竹刀さばきは速いですから撮影も難しそうですね。
いくらカメラの性能が良くなったとはいえ、竹刀のスピードは本当に早いです。打突の瞬間を狙って連写しても、ちょうど打突部位をとらえた瞬間だけ撮影できていないというのはザラにあること。とくに僕はいま剣道の試合を撮影する機会は年に1回だけなので、全日本選手権の序盤戦は全然撮れない(笑)。大会の進行とともに少しずつタイミングを合わせていって、準々決勝あたりから集中力を高めていく感じです。
──それで何年も連続で決勝戦のページに採用されているなんてスゴいですね。
撮影技術はもちろん大事ですけど、剣道の試合と同じで運に左右される部分は大きいです。もし打突の瞬間をとらえることができたとしても、自分が撮影している場所次第で選手同士が重なってしまったり審判員が重なってしまうこともあります。だから僕はここ数年、運だけで勝っているような状態です(笑)。
でも今年の決勝打の小手は撮影できて本当にうれしかった。角度もバッチリで撮影した瞬間に「棗田選手は俺のためにこの角度で小手を打ってくれた!」と感じたくらいでした(笑)。
──やはり安澤さん自身に剣道経験があることも大きいでしょうか?
それはあるでしょうね。全日本選手権では新聞社をはじめ多くのカメラマンが撮影をしていますが、おそらく剣道経験のないであろうカメラマンさんたちは選手がちょっと動いただけでカシャカシャカシャっと連写のシャッター音を響かせていますね。やはり剣道独特の攻防を理解しているのといないのとでは違うと思います。
──そもそも剣道日本さんとのつながりはいつから?
いまから17年前くらいですね。僕はフォトグラファーとして独立したばかりで、ちょうどその時期にデジタルカメラの修行のためにニューヨークで1カ月半くらい過ごしていたんです。向こうでは道場にも通って剣道の稽古を継続していたんですが、現地の剣道愛好家たちがみんな剣道日本を熱心に読んでいたんです。たとえばフォトグラファーとしてワールドワイドな雑誌の仕事に携わろうとすればこれはなかなか難しいことですが、自分が愛好している剣道はいまや世界に広がって、その専門誌はワールドワイドに愛されているんだとそこで知ることになった。日本に帰国してすぐに剣道日本さんに営業にうかがって、以降お付き合いがいまでも続いています。
──ご自身が興した株式会社アンズフォトのCEOを務めている安澤さん。現在のお仕事はどういった事業がメインとなるのでしょうか。
基本的には広告関係の仕事がメインですね。僕が手がけた仕事で皆さんが目にすることの多いものを挙げれば、警視庁の交通安全ポスターや海上保安庁のポスターなどでしょうか。そのほかにも企業ブランドのインスタグラムの撮影をやったり、たとえばホッピービバレッジ株式会社さんとは、ちょうど自社商品のホッピーのブランドイメージを変えていこうというタイミングからの長いお付き合い。それまでのコアなホッピーファンは大事にしつつも、若い世代にもアピールしていきたいというご希望がありましたから、そのプロモーションを手がけさせていただいています。いまでは外部広報のように、イベントが開催されればすべての写真をウチで撮影しますし、YouTube用の動画撮影も任されています。
──もはや写真撮影だけにとどまらないんですね。
そうですね。最近の傾向としては、インスタグラムのリール動画の撮影依頼が増えて来ている印象が強いですね。ウチの強みとしては、写真・動画の撮影をするだけではなくて、その企業さんがやりたいとおっしゃることに対しての企画・プロモーションの提案ができて、コーディネートと撮影までできるというところ。実際にいまも新商品を出したいという企業さんの幕開けプロジェクトのプロモーションをやらせてもらっています。
1年で決別した大学生活フォトグラファーとして歩み出す
──安澤さんの名刺には「ウエディングフォトグラファー」の肩書きがありますが。
そうなんです。いまは実際にはウエディング写真の仕事自体ははさほど多くお受けはしていませんが、それは僕自身の核となる部分ですし、現在の事業方針にも大きく影響を及ぼしているものなんです。
──安澤さんの経歴とともに、ぜひお話をうかがえれば。もともとのご出身となると?
埼玉県の出身で、実家が写真館を営んでいるんです。でも僕自身は子どもの頃は写真にはほとんど興味がなくて、カメラの知識はとくに得ないまま育ちました。
剣道をはじめたのは小学3年生のときで、当時小学1年生だった弟が先に朝霞剣道錬成館という道場に入門したんです。するとその弟が剣道をはじめてまだ間もないにも関わらず、市の大会で優勝してきた。弟が持ち帰ってきた優勝の賞状とトロフィーがうらやましくて僕も剣道をはじめたんです。
でも僕自身は全然強くはなかったですね。小学6年生のときに道場の全国大会のメンバーに選んでもらったけれど、それは強かったからではなくて一生懸命稽古するから選ばれただけ。結局、大した実績も残さないまま、高校は埼玉県立志木高校に進学しました。
高校の剣道部は別に強豪校ではなかったけれど、部員が自発的に稽古に取り組む楽しい環境でした。僕自身もうれしい思い出があって、高校時代に市の大会の個人戦で優勝することができたんです。これが人生で初めての大会での優勝。本当にうれしかったですね。
──ご実家が写真館という以外は、ここまで写真、カメラとのつながりはないんですね。
そうなんです(笑)。大きな転機となったのが大学時代です。僕は地元埼玉にある大学に進学したのですが、それは剣道推薦での入学でした。人づてに、その大学で剣道のセレクションがあると紹介され、受けに行って合格させてもらいました。
しかし高校まではいわゆる普通の部活動での経験しかないものですから、体育会の実態もよく分かっていなくて。大学は高校時代の延長のように楽しく過ごせるのかなと思っていたら現実は大きく違いました。
上下関係があるのはもちろん承知の上でしたが、やはり当時の体育会ならではの「シゴキ」がキツかったですね。僕も毎日稽古で痛めつけられてかなりゲンナリしました。上級生の幼稚なイジメとも取れる行動を日々見ているうちに「このまま続けていても剣道がキライになるだけだな」と感じるようになって1年生で大学を辞めたんです。またちょうどそのときに好きだった女の子にフラれたことも重なった(笑)。彼女を見返すためにも有名になりたいと思うようになって、そこで目指したのがカメラマンでした。カメラの知識はなかったけれど、「実家が写真館だから目指すとすればカメラマンかな」というわりと安易な考えでした(笑)。
──若者らしい動機ですね(笑)。それではそこからご実家に?
いや、実家にはいずれ戻ろうと思ってはいましたが、その前にレンタルスタジオでのバイトで基礎的な知識を学びました。そうこうするうちに当時華々しいイメージのあった広告業界に興味が湧くようになり、博報堂クリエイティブという博報堂の写真部が独立した会社に入社したんです。
博報堂クリエイティブにはおよそ1年半勤務しましたが、人物系の撮影、商品系の撮影の両方に携わることができました。それ以降はアシスタントなどでさらに経験を積んで、実家に戻ることになります。
──ご実家でのお仕事となると?
いわゆる普通の「街の写真館」ですから、学校写真や記念写真の撮影がメインです。そこで「自分なりの仕事」という意味ではじめたのがウエディングの撮影でした。
そもそも博報堂クリエイティブを退社したあとの1年ほどは結婚式場でバイトをしていたんですが、その当時、「ウエディング写真を撮っている」と言うと業界ではちょっと下に見られる風潮がありました。「仕事ないからウエディング撮っているんでしょ?」みたいなイメージですね。実際に当時はどこの結婚式場でも決まり切った体裁のアルバムをつくるだけで、結局ウエディングのカメラマンは結婚式場の写真室の下請けでしかありませんでした。しかし、僕自身はもともと博報堂クリエイティブの出身ということもあって、その現状に違和感を抱いたんです。広告の業界では、たとえば同じビール会社の商品でもそれぞれのコンセプト、ターゲット層が違えば売り出し方や使用する写真の見せ方も大きく変わります。同じように、結婚式場を訪れるカップルの方々も出会いのストーリーやその結婚式場を選んだストーリーもそれぞれです。であるならば、写真の撮り方からなにからすべて違うものだと僕は考えたんです。
平日は実家の写真館の仕事、週末にはウエディングの仕事という日々を4、5年ほど過ごして、独立したのは30歳のとき。当時はウエディングという分野で著名なカメラマンも存在しなかったこともあって、「この分野であればトップになれるかもしれない」という思いもありました。
──そこで「ウエディングフォトグラファー」を名乗るようになったと。
そうなんです。こだわりのあるウエディングですから、そこでは決して妥協をすることなく、自分がやりたいスタイルを貫きました。もちろんそれだけでは食べてはいけませんから、しっかりと広告関係の仕事で補うというスタンスを選びました。当時30歳で「実績ナシ」「人脈ナシ」でしたからなかなか仕事もなくて苦しい時期を過ごしましたが、それでもウエディングというジャンルについては著作も出版しましたし、一般社団法人ウエディングフォトグラファーズの設立も実現できた。かつては「下請け仕事」というイメージの強かったウエディング撮影をクリエイティブなレベルにまで高められたという手応えはありますね。
実際のところ、いま事業のメインはやはり広告系ですが、それでもウエディングの分野では「業界の先駆者」として認めていただけているようで、僕のブランドと「提携したい」と言ってくれる結婚式場さんとはお仕事を続けさせてもらっています。
子どもとの稽古が最高の幸せその時間を大切にしていきたい
──大学を中退されて以降、剣道はどうなりましたか?
部活動こそ辞めましたが、剣道については近くの道場に通って継続して、四段、五段には合格しました。その後は住まいや勤務先の都合に合わせていろいろな道場にお世話になって、いまに至ります。
現在通っているのは神奈川県川崎市で活動する之久会(しくかい)で、お世話になってもう10年ほどが経ちますね。
──なぜその道場を選んだのでしょうか?
実は僕は六段合格までに15年ほどかかったのですが、受審をはじめた当時通っていた道場はとてもフラットな環境が魅力的でした。立場の上下がなく、自由な雰囲気で稽古ができる環境は僕にとっても楽しいものでしたが、やはり何度も不合格を繰り返すうちに「これはもう一度、基礎からまた剣道を学び直さなければならない」と感じるようになったんです。ちょうど当時は子どもが産まれるというタイミングだったこともあって、できれば子どもといっしょに通える場所がいいな、という希望もあって。そこで自宅から遠くなく、基本から学べる環境が整っている之久会を選びました。
──実際に見事六段に合格されたわけですね。
之久会の稽古は本当に基礎しかやらなくて、切り返しと面打ちだけで終わることも少なくないんです。僕自身も当初は「これで本当に強くなるのかな」と疑問に感じていたけれど、出稽古に行った先などで勢いのある大学生と稽古をしてみたところ、自分の成長を如実に感じることができたんです。そんな経験もあって、之久会の稽古を信じて通い続けた結果、いまから3年前になんとか六段に合格させていただくことができました。
──それでは最後に、剣道とお仕事、その両方での今後の展望などお聞きできたら。
剣道については、六段合格に時間がかかったので次の七段審査はなんとか一発で合格したいですね。
そしていまは子どもと剣道できることがなにより楽しい。幸いなことに、僕の希望どおりに一人息子が剣道をはじめてくれて、之久会でいっしょに稽古しているんです。子どもといっしょに剣道ができるということが僕にとっては本当に幸せなこと。このまま同じようなペースで稽古を続けていくことができればもう最高ですね。
仕事についてはもちろん目標とする売り上げを達成することが重要ではありますが、もう少し会社も大きくしていきたいと思っています。以前までは僕一人でやっていたのが、ようやくいまはパートさんとフリーのカメラマンさんたちに仕事をお願いできる規模にまで成長することができました。
2024年からは、クライアントに対してフォトグラファー側から提案ができるスキルを学べるスクールも開講する予定です。フォトグラファーもただ「写真を撮影します」というのでは単価がどんどん下がっていくだけ。そうならないためにも、フォトグラファー側がクライアントに企画が提案できて、プロモーションの最後まで担当できるようなスキルを学ぶ必要があるだろうと。すべてのフォトグラファーを救うことこそできなくても、どうにか僕の周りに集まってくれる仲間たちが生き残れるような状況をつくっていきたいです。時代が変われば考え方や価値観も変化するもの。その変化に対して柔軟に対応できるような人たちを育てていきたいと考えています。
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